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ダルビッシュ

ダルビッシュ 有(だるびっしゅ[Darvish] ゆう、

概要
母親は日本人、父親はイラン人である。父親は元サッカー選手。そのため現在はイランと日本の2つの国籍を持っているが、22歳までにいずれかの国籍を選択しなければならないとしている国籍法の規定により、近く日本国籍を選択すると言われている。「有」は、イスラム教のカリフ「アリー・イブン=アビー=ターリブ」に因む。弟が二人いる。エイベックスとマネジメント契約をしている。

高い実力とスター性を持ち、日本球界に対する拘りが強くメジャーリーグに興味が無く、日本に留まる事を公言。日本を代表する投手として期待される。好きな言葉と決め台詞は「いつか必ず道は開ける。俺は、やるぜ!」である。

2006年までは変化球に頼って小手先でかわすピッチングが主体だったが、WBC日本代表壮行試合で肩を痛める。それを悪化させてしまうのが得意の変化球・シンカーであった。これをきっかけにシンカーを封印したダルビッシュは試行錯誤を繰り返しながら06年シーズン後半から下記の様なピッチングに切り替えた。するとそれが功を奏し、現在にいたる。

2006年からは、主にスライダー、高速スライダーを筆頭にカーブ、ツーシーム、フォーク、カットボール、シュート、チェンジアップなどの多彩な変化球を使ってカウントを稼ぎ、追い込んだら最高球速153km/hのストレートをウイニングショットとして使い、打者を捻じ伏せるピッチングに切り替えた。

最高球速推移(km/h):中学3年144、高校1年147、高校2年149、高校3年150、プロ1年149、プロ2年153





ダルビッシュ プロフィール
身長・体重:195cm・85kg
投打:右投右打
血液型:A型
出身地:大阪府羽曳野市
球歴:東北高等学校-北海道日本ハムファイターズ(2004年ドラフト1巡)
年俸:7200万円+出来高1300万円(推定)




ダルビッシュ 来歴

ダルビッシュ ドラフト指名前・生い立ち~高校野球まで
小学校2年生から野球を始め、常に同世代の野球少年たちを牽引する存在として歩んできた。羽曳野ボーイズで全国大会ベスト8、世界大会3位という成績を収め、鳴り物入りで東北高等学校に入学する。

入学後は投手として活躍。3年生の時で、投げない時には外野手を守った。1年生の時から高井雄平(東京ヤクルトスワローズ)の後をついでエースに。195cmの長身から繰り出す直球は当時から150km/h近くを計測。他、計7種類の変化球(シンカー、スライダー、カーブ、フォーク、シュート、チェンジアップ、ナックル)と抜群のコントロールを駆使して、2年春に甲子園初出場、2年夏には同学年の真壁賢守と共に投げぬき、見事に準優勝を勝ち取る。その後3年春、3年夏と4季にわたり甲子園に出場。3年春の熊本県立熊本工業高等学校戦ではノーヒットノーランを達成する。センバツでのノーヒットノーランは史上12度目で(継投を除く)、金沢高校の中野真博(東芝)以来10年ぶりの快挙だった。ノーヒットノーランは夏の大会で1998年決勝の松坂大輔(横浜高校)まで23度記録されているが、春夏通算35度で東北地方のチームがマークしたのは初めて。最後の夏の甲子園では、3回戦で千葉経済大学付属高等学校に敗れた。その試合の最終打者となって見逃し三振に倒れ、試合終了。優勝は果たせなかったものの、この活躍により、高校No.1ピッチャーとしての地位を確立する。また、強気な発言とクールな顔立ちから、甲子園では既に女性ファンの注目を集めていた。

2004年ドラフト高校生では、涌井秀章(西武ライオンズ)・佐藤剛士(広島東洋カープ)と並ぶ目玉投手。メジャーリーグの球団も獲得の意思を示す(父親の意向が強かった)が、本人は日本球界を希望し、秋季国民体育大会終了後にプロ志望届を提出し受理された。

高校通算成績:登板67、投球回332 1/3、奪三振375、防御率1.10

甲子園通算成績:登板12、完投7、完封4、投球回92、奪三振87、四死球27、自責点15、7勝3敗、防御率1.47

センバツ:登板4、完投2、完封1、投球回30、奪三振29、四死球 7、自責点9、2勝1敗、防御率2.70
選手権 :登板8、完投5、完封3、投球回62、奪三振58、四死球20、自責点6、5勝2敗、防御率0.87




ダルビッシュ 2004年ドラフト
2004年11月17日、ドラフト会議において日本ハムがダルビッシュを1位指名。他にダルビッシュを指名した球団は無かった。結果としてこの時点で日本ハムが単独で交渉権を獲得。「日本ハム・ダルビッシュ有」が誕生することがほぼ確実となった。そして12月17日、父親同席のもと、2004年ドラフト指名選手の中で最後に仮契約を結んだ。契約内容は契約金1億円、年俸1500万円+出来高5000万円(推定)という、最高評価を受けている。

キャンプ開幕当初は、自主トレーニング中に痛めた右ひざの関節炎の影響もあり、2軍でのスタートとなったが、キャンプ会場の東風平町にはスーパールーキーの雄姿を見ようとファンがごった返す盛況となった。

しかし、2月20日、2月22日発売の写真週刊誌に載せられた写真で、キャンプ休日に那覇市内のパチンコ店で未成年にもかかわらず喫煙していたことが判明(本来は未成年者であるために名前を出すか迷ったそうだが、既に1人のプロであるとして球団と学校側の判断により実名が公開された)。「ワルビッシュ」と揶揄され、各種メディアに取り扱われた。球団は同日、本人に対して、2月21日に鎌ケ谷市の球団寮へ送還・無期限謹慎と謹慎中のボランティア活動を命じる処分を言い渡した(2月28日の12チーム合同新人研修会は出席)。また、これを受けて東北高校は2月22日に本人を停学処分とした(3月1日の卒業式は停学処分期間中でまだ十分でないとして参加させず。3月8日、停学解除を以って他の生徒より1週間遅れで卒業)。ダルビッシュはそれ以前(2004年9月)にも喫煙している写真が週刊誌に掲載され、高野連より厳重注意処分を受けたことがあった。





ダルビッシュ プロ入り後

ダルビッシュ 2005年(1年目)
2005年6月15日、広島東洋カープ戦(セ・パ交流戦、札幌ドーム)でプロ初登板初先発し、9回途中まで2失点の好投で高卒ルーキーとしては松坂大輔(西武)以来6年振り12人目の初登板初勝利を挙げる。

プロ2戦目、6月27日、西武ライオンズ戦でその松坂と投げ合い、打線の援護を受け松坂に投げ勝ち、史上4人目の初登板から2連勝を飾った。

7月30日、釧路市民球場でのオリックス・バファローズ戦に先発。21歳年上の吉井理人と投げあったが7回3失点でプロ初黒星を喫した。8月19日、スカイマークスタジアムにおいて吉井と再度投げあい、この時は6回2失点で勝利投手となった。

9月18日、東北楽天ゴールデンイーグルス戦の一場靖弘との問題児対決(本人が命名)で2安打プロ初完封勝利。高卒ルーキーの完封勝利は1999年の松坂大輔(西武)以来、6年ぶり。ドラフト制後(1966年以降)は14人目で、日本ハムでは1984年6月30日の津野浩以来。

9月24日、オリックス戦で8安打を浴びながら要所を締め7回1失点に抑え日本ハムとしては球団初の高卒ルーキー5勝目を挙げた。前身の東映時代からは1966年の森安敏明(11勝)以来、39年ぶりの快挙。

最終的に14試合に登板し5勝5敗、防御率3.53。黄金ルーキーの意地を見せた。





ダルビッシュ 2006年(2年目)
2006年4月6日、福岡ソフトバンクホークス戦(東京ドーム)でシーズン2度目の先発。シーズン一番乗りの完封勝利投手となり、シーズン初勝利を挙げた(同日、オリックスのルーキー平野佳寿も千葉ロッテマリーンズ戦で完封勝利を挙げたが、それよりも約9分前にダルビッシュが完封勝利を挙げた)。

5月18日、阪神タイガース戦(甲子園)の5回表にレフト前にプロ初安打を放った。試合前に先輩の新庄剛志から打撃用の手袋をもらい、試合後ダルビッシュは「読み勝ちです。新庄さんのおかげで打てました」と話した。

5月30日、読売ジャイアンツ戦(セ・パ交流戦、札幌ドーム)で同年シーズン最多となる142球を投げ6安打2失点で完投勝利。10代投手の巨人戦完投勝利は、1990年7月14日の川崎憲次郎(当時ヤクルトスワローズ)以来16年ぶり。

6月6日、阪神タイガース戦(札幌ドーム)では毎回三振を奪い、プロ入り初となる二桁奪三振(計12奪三振)で完封勝利する。初回先頭バッターに早々四球を与えるも、その後は6回2死までランナーを1人も出さず、7回1死までノーヒットピッチング、136球を投げ被安打2、四死球1とプロ入りしてから一番良い内容だった。なお、毎回奪三振は1999年の岩本勉以来日本ハムでは8人目、前身の東映も含めると10人目の記録。10代投手の毎回奪三振は1999年9月2日の松坂大輔(18歳11ヶ月)(西武)以来7年ぶり8人、9度目の記録。球団としては東映時代の1962年・尾崎行雄(17歳6ヶ月)、1967年・森安敏明(19歳4ヶ月)に次ぎ3人目、39年ぶりの記録。

9月2日、西武ライオンズ戦に先発。同期入団の涌井秀章との初対決となったが、6回途中3失点ながらも打線の援護とリリーフ陣の奮闘で、自身初の2桁勝利を挙げた。

9月27日、福岡ソフトバンクホークス戦(札幌ドーム)では6回からプロ入り後初のリリーフ登板。先頭打者にヒットを打たれたがその後2イニングを完璧に抑え、シーズン中の多彩な変化球を主体としたスタイルとはまた違い、150km/hのストレートを中心に据えた本格派投手の一面も見せた。

10月11日、プレーオフ第2ステージ対福岡ソフトバンクホークス戦(札幌ドーム)に先発、初回に1点を取られるが(当時)自己最速の151km/hを記録するなど9回138球11奪三振で完投勝利を挙げた。プレーオフでの完投勝利は同年10月7日の松坂大輔に続いて史上2人目。この勝利で25年ぶりのリーグ優勝に王手をかけた。

中日ドラゴンズとの日本シリーズで第1戦と第5戦に登板した。10月21日の第1戦では2回以降、逃げのピッチングを見せるなどで精彩を欠き、チームも敗れてしまい敗戦投手となってしまった。しかし、10月26日の第5戦ではレギュラーシーズンと同等かそれ以上の気迫ある投球がよみがえり、自己最速の153km/hを記録するなど、中日を7回1/3、106球、失点1に抑え、勝利投手となり、この勝利で北海道日本ハムは前身の東映以来44年ぶり2度目の日本一を決めた。20歳以下の投手(20歳2ヶ月のダルビッシュ)がシリーズで勝ったのは1968年の堀内恒夫(巨人・20歳9ヶ月)以来。1956年の稲尾和久(西鉄)が19歳4ヶ月で勝利投手になったのに次ぎ、2番目に若い日本一決定試合の勝利投手となった。

11月12日、アジアシリーズ決勝・台湾代表La Newベアーズ戦(東京ドーム)に先発し、スライダーを軸に8回途中まで投げ1安打10奪三振で無失点、大きく飛躍した今季の集大成にふさわしい投球で勝利投手となり、シリーズのMVPも獲得し、一気にアジアの頂点も極めた。

5月30日対読売ジャイアンツ4回戦(札幌ドーム)から10連勝(継続中)。日本ハム投手の2桁連勝は1962年尾崎行雄10連勝、1981年間柴茂有15連勝、1982年工藤幹夫14連勝、1987年西崎幸広10連勝、以来19年ぶり5人目。高卒2年目以内の2桁連勝は、1966年に高卒1年目の堀内恒夫(巨人)が13連勝して以来、40年ぶり5人目の記録。球団記録としては東映時代の1962年・尾崎行雄以来44年ぶりの快挙。10月11日のプレーオフの勝利を含めれば11連勝(参考記録)。

最終的に25試合に登板し12勝5敗、防御率2.89(ポストシーズンは4試合に登板し3勝1敗、防御率1.53)。高卒2年目にして早くも飛躍の年となり、ファイターズも含め、日本のエースへの階段を昇り始めた。





ダルビッシュ エピソード
父ファルサは有に何をさせようかと迷っていた。3歳のころ枕元に野球とバスケットとサッカーのボールを並べた。有が最初に手に取ったのが野球のボールだった。それが野球人生の始まりだった。
父ファルサの実家は事業を手広く扱っている名家であり、ファルサ本人は野球人口が1,000人未満とされるイラン野球連盟の顧問に就任、現職。なお父と母は留学先の米国で知り合い結婚、学業終了後日本を生活拠点としたのは当時、イラン・イラク戦争やイラン革命が続発したイランと治安・経済状況が良好だった日本と比較し後者を選んだほうが賢明との判断による。
父ファルサが共同経営するジャイレックス(兵庫県・芦屋市)が「ダルビッシュ」の名称の商標登録を出願、2004年8月に特許庁に受理されている。
2005年1月30日、地元大阪のホテルで行われた「励ます会」に出席。その席で中学時代に所属したボーイズリーグ「オール羽曳野」にマイクロバス購入のため200万円を寄付した。
2006年2月24日のWBC日本代表壮行試合(ヤフードーム)で、12球団選抜の先発投手を務めたのがダルビッシュだったが、右肩痛発生で2回途中7失点で降板。シーズンへ向けて暗雲が立ち込めたが、ダルビッシュ自身は「あれをきっかけに今季は肩に負担のかかるシンカーを封印し、その代わりにカットボールを増やした。これが効果的だった。肩のケアに気を使うようにもなったし、肩のトレーニングを増やしたのも、投球に良い影響を与えていると思う」と話した。
2006年7月7日の西武ライオンズ戦(インボイスドーム)では先発を任されたが、ビジター用のユニフォームを札幌ドームのロッカーに置き忘れ、八木智哉のユニフォームを借りて登板した。ダルビッシュはこの失態に動じることなく、7回1失点の好投でチームを勝利に導いた。この日の日本ハムは前身の東映フライヤーズが1961年9月に達成して以来のチーム11連勝(球団タイ記録)がかかった試合だった。ちなみにそのとき本人は「これで負けたら最悪だ」とコメントしている。その1週間後、7月15日の福岡ソフトバンクホークス戦(ヤフードーム)では半袖アンダーシャツを宿舎に忘れてしまい、長袖シャツで登板した。この試合でもダルビッシュは7回無失点と好投した。
ダルビッシュが投げるナックルボールは名前にちなみセファット・ナックルと呼ばれていた。
同期入団の涌井秀章(西武)とは、一緒に食事をする、携帯メールを送るなど仲が良い。また、1期下の炭谷銀仁朗や涌井と帯同し、3人で行動していることも多い。ダルビッシュは涌井に強いライバル心をもち、シーズン中も勝ち数がどちらが上かなどを気にするが、涌井の方はダルビッシュをライバルとは思わず親友だと感じていると述べている。
2006年(2年目)のシーズンは屋外球場との相性が悪かった。この年に屋外で先発した7試合の成績は1勝2敗、防御率7.12。5回もたずにKOされた6試合中、5試合が屋外だった。その反面、ドーム球場では18試合で11勝3敗、防御率1.81(ポストシーズンも含めれば22試合で14勝4敗、防御率1.76)。ちなみにプロ2年間の時点で屋外球場で勝ち星を取れた球場は阪神甲子園球場とスカイマークスタジアムの2球場のみ。兵庫県の屋外球場とは相性が良かった模様。
2006年夏、東北高校時代から熱中したゲームソフト実況パワフルプロ野球の関係者に会い、キャラクター設定を「直球150km/h以上にして、すべての変化球を加えてください」と頼んだ。協議の結果、まったく打てなくなるという結論で不採用になった。




ダルビッシュ 成績

ダルビッシュ レギュラーシーズン
年度 登板 先発 完投 完封 投球回 勝 敗 被安 被本 与四 与死 奪三 失点 自責 被打率 防御率 年俸(円)
05年 14 14 2 1 94 1/3 5 5 97 7 48 3 52 37 37 .277 3.53 1500万
06年 25 24 3 2 149 2/3 12 5 128 12 64 6 115 55 48 .237 2.89 3000万
07年 7200万
通算 39 38 5 3 244 17 10 225 19 112 9 167 92 85 .253 3.14 11700万

一軍初登板:2005年6月15日、対広島東洋5回戦(セ・パ交流戦、札幌ドーム)(先発)
一軍初奪三振:同上(打者:グレッグ・ラロッカ)
一軍初勝利:同上
一軍初完投:2005年8月6日、対西武13回戦(札幌ドーム)
一軍初完封:2005年9月18日、対東北楽天20回戦(最終戦)(札幌ドーム)
一軍初二桁奪三振(計12奪三振):2006年6月6日、対阪神3回戦(セ・パ交流戦、札幌ドーム)
一軍初毎回奪三振:同上
一軍初リリーフ:2006年9月27日、対福岡ソフトバンク20回戦(最終戦)(札幌ドーム)




ダルビッシュ ポストシーズン
プレーオフ

年度 対戦チーム 登板 先発 完投 完封 投球回 勝 敗 被安 被本 与四 与死 奪三 失点 自責 防御率
06年 ソフトバンク 1 1 1 0 9 1 0 7 0 3 2 11 1 1 1.00

日本シリーズ

年度 対戦チーム 登板 先発 完投 完封 投球回 勝 敗 被安 被本 与四 与死 奪三 失点 自責 防御率
06年 中日 2 2 0 0 13 1/3 1 1 13 0 7 1 12 4 4 2.70

アジアシリーズ

年度 対戦チーム 登板 先発 完投 完封 投球回 勝 敗 被安 被本 与四 与死 奪三 失点 自責 防御率
06年 La New 1 1 0 0 7 0/3 1 0 1 0 2 0 10 0 0 0.00





ダルビッシュ オールスター
フレッシュオールスターゲーム

年度 球場 登板 先発 投球回 勝利 敗戦 被安 被本 与四 与死 奪三振 失点 自責 防御率
05年 宮崎 1 1 2 0 0 1 0 0 0 2 0 0 0.00

パ・リーグオールスター東西対抗

年度 球場 登板 先発 投球回 勝利 敗戦 被安 被本 与四 与死 奪三振 失点 自責 防御率
06年 草薙 1 1 3 0 0 5 0 0 0 2 3 1 3.00





ダルビッシュ タイトル
日本シリーズ優秀選手賞
1回 (2006年)
アジアシリーズMVP
1回 (2006年)
フレッシュオールスターゲーム優秀選手賞
1回 (2005年)




ダルビッシュ スポーツに関する賞
報知プロスポーツ大賞
1回 (2006年)


ダルビッシュ

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