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イビチャ・オシム

オシム日本、アジアV3へ始動
ベテラン中沢、大学生・林招集で競争激化
 日本代表は15日夜、千葉県内の宿舎に集合し、5日間の合宿をスタートさせた。イビチャ・オシム監督(65)は、新戦力7人に大きな期待を寄せ、中でもW杯ドイツ大会出場のDF中沢佑二(28)=横浜M=と、大学生で16年ぶりに代表入りしたGK林彰洋(19)=流通経大=への期待は大きく、この2人の存在で、代表選手たちに新たな刺激を与える。

 アジア大会3連覇へ向けて、日本代表が“サンドイッチ強化”を開始する。新戦力7人を加えて、15日に千葉合宿をスタートさせた07年型オシムジャパンの目玉は、06年W杯ドイツ大会以来の復帰となるDF中沢と、16年ぶりに大学生代表となったGK林の2人だ。

 オシム監督は「私の方は彼(中沢)を呼ぶことに問題はありませんでした。彼を呼ばないと言ったことはない。競争が厳しくハードになる」と期待の大きさを隠さない。

 林にも「経験ある選手と一緒にプレーして新しい見方を身につけてほしい。プロかアマチュアかは関係ない。実力があれば押しのけて使う可能性もある」と指揮官。経験豊富な中沢と、将来性十分の林の2人で、上と下の年代から、いまのオシムチルドレンに、新たな刺激を与えるつもりだ。

中日スポーツ

イビチャ・オシム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

イビチャ・オシム(Ivica Osim, Ивица Осим、本名 イヴァン・オシム, Иван Осим、1941年5月6日 - )は、旧ユーゴスラビア(ボスニア・ヘルツェゴビナ)のサラエボ出身のサッカー選手、指導者。

2003年よりJリーグ ジェフユナイテッド市原(2005年シーズンからジェフユナイテッド市原・千葉に改称)の監督を務めた。在籍4年目の2006年時点でJリーグ最年長監督であったが、代表監督就任要請を受け辞任。同年7月21日、日本代表監督に就任した。

特報ドキュメント!イビチャ・オシムの流儀 ?日本代表新監督の哲学と品格 1

イビチャ・オシム
名前
本名 イヴァン・オシム
愛称 イビチャ、シュワーボ
カタカナ
ラテン文字表記 Ivan Osim
キリル文字 Иван Осим
基本情報
国籍 ボスニア・ヘルツェゴビナ
オーストリア
誕生日 1941年5月6日
出身地 サラエボ
身長 191cm
体重 90kg
選手情報
ポジション FW
代表歴
キャップ 16
得点/失点 8

経歴

イビチャ・オシム 選手時代
1959年 - サラエボのFKジェリェズニチャル・サライェヴォでプロとしてのキャリアをスタート。ポジションはフォワード。
1964年 - 東京オリンピックのユーゴスラビア代表として来日。日本との順位決定戦では2ゴールを挙げた。
1968年 - ユーゴスラビア代表として欧州選手権(第3回、イタリア大会)に出場。準決勝でイングランド代表と戦い、1-0で勝利するもその試合で重傷を負い決勝戦には出場できず、またチームもイタリア代表に引き分け再試合の末敗退。オシム自身は大会ベストイレブンに選出されている。
1970年 - 28歳で初めてフランスのRCストラスブールに移籍。その後、バスティアなどフランスのいくつかのクラブを渡り歩き、再びストラスブールに戻る。
1978年 - ストラスブールを最後に現役を引退。選手生活12年間で85得点。その間イエローカードを提示されることは一度もなかった。

イビチャ・オシム 監督時代
1978年 - 古巣ジェリェズニチャルでコーチの仕事を始める。ユースチーム監督就任。
1979年 - ジェリェズニチャル トップチームの監督に昇格。
1982年 - 副業的にユーゴ代表チームのアシスタントコーチを務めるようになる。
1985年 - ジェリェズニチャルの監督としてUEFAカップ準決勝まで駒を進めるが敗れ、決勝進出を逃す。
1986年 - ユーゴ代表監督に就任。
1987年 - 翌年に行われる欧州選手権の予選最終戦、イングランド代表に1-4で大敗、本大会出場を逃す。
1990年 - FIFAワールドカップイタリア大会でベスト8。このときの代表メンバーにはストイコビッチ、サビチェビッチらがいた。大会後、代表監督のままパルチザン・ベオグラードの監督も兼務することとなる。
この後ユーゴスラビアの分裂が決定的となる。
1991年 - 翌年の欧州選手権の予選通過を決めていたが、この年の夏にスロベニアとクロアチアが連邦から離脱、両国の選手抜きで本大会に臨むことになった。
1992年 -
3月27日 - ボスニア・ヘルツェゴビナの連邦離脱を受けて、ユーゴ軍がサラエボに侵攻。オシムは直前に仕事のため次男を伴いベオグラードに赴いたため戦火を免れる事が出来たが、夫人と長女はサラエボを脱出することが出来なくなった。
5月21日 - ユーゴ軍のサラエボ侵攻とユーゴ分裂に抗議する意味を込め、パルチザンとユーゴ代表の監督を共に辞任。この後、国連の制裁決議を受けて欧州サッカー連盟(UEFA)、国際サッカー連盟(FIFA)はユーゴ代表チームの国際大会からの締め出しを決定する。
1992-1993年 - ギリシャのパナシナイコスの指揮を執る。この間戦火のサラエボに夫人と長女を残してのギリシャ赴任であった。
1993年 - オーストリアのSKシュトゥルム・グラーツ監督に就任。翌1994年、夫人・長女との再会を果たす。グラーツではUEFAチャンピオンズリーグに3度出場。
2002年 - グラーツ監督を辞任。
2003年 - ジェフユナイテッド市原監督に就任。
2005年 - ジェフユナイテッド市原・千葉にてJリーグヤマザキナビスコカップ優勝。
2006年 - 日本代表監督に就任。

イビチャ・オシム 監督としての実績・評価

イビチャ・オシム ユーゴ代表時代
オシムは、ユーゴスラビア紛争終結後もわだかまりの残る旧ユーゴ構成諸国家内各民族の間で、今なおどの民族からも尊敬を集め得る人物の一人であるといわれている。これは数々の困難を乗り越えてユーゴスラビア代表に栄光をもたらした功績によるものである。

彼が代表監督に就任する直前のユーゴ代表は、チトーの逝去に伴う各民族のナショナリズムの勃興に並行するような形で、試合の開催場所によってチームの構成が大きく変わる有様だった。つまり、ベオグラードで試合をする際にはセルビア人中心の構成に、ザグレブで試合をする時はクロアチア人中心の構成にといった具合にである。オシムはこうした民族的な配慮を排除した上で、必要ならば11人全員をコソボのアルバニア人で揃えると言って憚らなかった。完成したチームは日本でも有名なドラガン・ストイコビッチ、のちにACミランで10番を背負うデヤン・サビチェビッチ、スレチコ・カタネッツらを擁したスター軍団であった。

1990年ワールドカップ当時、各民族のスターばかりのバランスやチームとしての総和を無視した起用を強いようとするマスコミに対して、オシムは初戦ドイツ戦で敢えてその通りの起用をし完敗させてみせ、次の試合ではバランスなどを優先したチーム編成を行って勝利し、意趣返しを行った。これによりマスコミが大人しくなっただけでなく、ユーゴスラビア国民も民族エゴ丸出しでは良くないと知ったのである。以降は勝利を重ね、準々決勝で「天才」と称されるディエゴ・マラドーナが率いるアルゼンチン相手に2人欠きながらも120分間無失点のドローに持ち込み、PK戦で敗れた。

オシムが作り上げた最後のユーゴ代表は、1990年のワールドカップでは準々決勝で敗退したものの、2年後の欧州選手権では優勝候補の1つになるであろうという評価を得た。1991年にスロベニアとクロアチアが連邦を離脱した後も、欧州選手権出場に向けた努力は続けられた。チーム内にも各民族間の対立が持ち込まれ、チームの団結と維持に多大な労力を必要とした連邦末期にあってもその姿勢は変わらなかった。しかし、その奮闘は叶わず国の解体に合わせてユーゴ代表も崩壊した(参考:ユーゴスラビア代表の崩壊)。1992年の欧州選手権にユーゴが出場できていれば優勝していたであろう、と言う者は現在も多い。


イビチャ・オシム グラーツ時代
オシム就任以前のSKシュトゥルム・グラーツは、オーストリア・ブンデスリーガの中位から下位に甘んじており、かつ財政難の状況にあった。グラーツはオーストリアの第2の都市でありながらサッカーはどちらかといえば他都市に遅れを取っており、シュトゥルム・グラーツはグラーツァーAKと同じく1部と2部リーグを行ったり来たりするクラブだった。オシムはこのクラブに規律と戦術を持ち込み、無名の若手を起用して当時オーストリアリーグでは一般的でなかった走るサッカーを実践し、徐々に成績を上げていき、まもなく優勝候補の常連となった。

就任2年目となる1995-96年シーズンにはリーグカップ優勝、そして4年目の1997-98年シーズンにはリーグ優勝を果たした。この時のメンバーには後にジェフ千葉に移籍することとなるマリオ・ハース、名古屋グランパスエイトでプレーしたイヴィツァ・ヴァスティッチがいた。特にクロアチア出身である後者はオシムの指導で飛躍的な成長を遂げ、オーストリアリーグを代表する選手となった。

グラーツでの名声を確たるものとしたのは、2000-01年シーズンの三度目のチャンピオンズリーグへの挑戦である。グラーツは1次リーグでレンジャーズ、ガラタサライ、モナコと同組に入り、これを首位で通過。2次リーグでバレンシア、マンチェスター・ユナイテッド、パナシナイコスと同組で3位となり決勝トーナメント進出はならなかったが、この活躍は評価に値するものであった。

しかし、主力を放出していくうちに年々成績を下げ、最後は二人三脚で名声を築いたはずのカリスマ的オーナー、ハネス・カルトニックと対立した状態となり、2000-01年シーズン終了後、クラブから追われるように辞任して去った。カルトニックとは給料不払いなどの契約問題および名誉毀損問題で裁判沙汰となり係争中である。(給料不払いについてはオシムが勝訴[要出典])


イビチャ・オシム ジェフ千葉時代
グラーツを去った後、オシムは新しい挑戦として日本にやってきた。肉体面では「走力」、精神面では「哲学」の二面的アプローチ、「賢く走る」「危険なサッカー」をキーワードとした指導で、降格危機・低迷から脱したジェフ市原をさらに改革した。

2003年、当時21歳の阿部勇樹をキャプテンに抜擢、1stステージで初優勝王手まで勝ち進む。しかし首位攻防戦となったアウェイ静岡2連戦で13節:ジュビロ磐田戦に引き分け、14節:清水エスパルス戦ではプレッシャーによる大敗を喫したことにより、王手をかけながらも初優勝を逃した。また2ndステージでは14節:大分トリニータ戦で引き分けたことにより、実質的な優勝の可能性を失った。しかし1stステージ3位・2ndステージ2位・年間通算成績3位とクラブ最高の成績を記録。そのサッカーは多くのサポーター、サッカーファンを魅了し、彼の名声を高めることになった。

2004年、崔龍洙、中西永輔を放出し、経験・身体的に弱い若手中心となり、戦力ダウンは避けられないと見られていた。又、この年は主力選手の怪我も重なった。しかしながら結果としてタイトルは取れなかったものの2ndステージでは2位、年間通算成績は4位と前年とほぼ同等の成績を残すことができた。資金・選手層に乏しいジェフにおいて、この好成績は、オシムの監督手腕の高さによるものと評価されている。

2005年、村井慎二、茶野隆行、サンドロ、マルキーニョス、ミリノビッチを放出したが、巻誠一郎が日本代表に初選出、水野晃樹、水本裕貴が、ワールドユース出場を果たすなど、頼もしい存在に成長した事で戦力低下を感じさせなかった。ヤマザキナビスコカップでは準決勝で浦和レッズを倒して決勝戦に進出。決勝ではガンバ大阪と延長、PK戦と激闘を制しチームに初のタイトルをもたらした。

戦術的には「古い」「時代遅れ」と言われる3バック、スイーパーシステム、マンツーマンディフェンスを用いるが、日本の事情に合わせて採用しているという説もある。

2006年、以前から試験的に採用していた2バックを実際に使用しているが、これは単に選手名鑑でDF登録されている選手を2名だけ起用しているにすぎない。対戦相手を鑑て、当日のサッカーを決めるということは変っていない。シーズン途中の7月に代表監督への就任が決まり、監督を辞職。


イビチャ・オシム 日本代表監督

イビチャ・オシム 就任問題
1次リーグ敗退という結果でワールドカップドイツ大会から選手達が帰国した2006年6月24日、帰国報告会見の中で、日本サッカー協会(JFA)会長川淵三郎が、ジーコの後任候補の一人としてオシムと交渉中であることを発言(参考:オシム騒動)。ジェフ千葉側は交渉の事実を否定したが、翌日になってジェフ千葉社長淀川隆博が交渉の事実を認めた。このとき、オシム本人は休暇中のためオーストリアの自宅に戻っていたが、川淵発言後、オシムの自宅前にマスコミや日本人サポーターが連日押しかけ、コメントを聞いたり贈り物を渡す姿が日本でも報道された。

6月29日に再来日したオシムは、「代表監督に興味はあるが、今はジェフ千葉との契約が残っている」とコメント。7月1日夜にJFA技術委員長の田嶋幸三、淀川、オシムの三者会談が行われた。その席で、JFAの強い要請とオシム本人の希望により、ジェフ千葉監督退任と代表監督就任が決まった。7月21日、正式に就任。


イビチャ・オシム チーム作りの特徴

イビチャ・オシム 人選
代表戦の度に積極的に新戦力を召集しており、前監督ジーコが在任後半に、決まったメンバーを重視していたのとは対照的である。アテネ五輪予選・本選に出場したいわゆる「谷間の世代」の選手ではオシム政権になってから田中マルクス闘莉王、鈴木啓太が抜擢され、中軸選手として重用されている。またそれ以下の世代の若手(北京五輪を目指す世代)も相次いで召集されている。ただし、オシム自身は「代表は試合ごとにコロコロとメンバーを変えるものではない」と考えており[1]、現在はさまざまな選手をテストしている時期だとも考えられる。実際、ユーゴスラビア代表時代はかなり固定化されたメンバーで戦っていたのである。

FWの人選においては所属クラブでの調子・実績を重視しており、この点も代表チームでの実績・序列を重視したジーコと大きく異なる。FWには我那覇和樹、播戸竜二など好調な選手が相次いで召集されており、逆にジーコ政権時代に重用された柳沢敦・玉田圭司などは所属チームでの得点が伸びないこともあって[要出典]外されている。

中村俊輔、松井大輔などヨーロッパのリーグでプレーする選手(いわゆる海外組)については、所属クラブでのプレーを優先させ成長を促す意味で、2006年は一度も召集することはなかった。もっとも、ヨーロッパ遠征など、海外組のコンディションに影響の無い試合での召集の可能性をオシムは示唆しており、Jリーグでプレーする選手(いわゆる国内組)と海外組との融合によってどのようなチームが出来上がるのか、注目されている。

ジーコ政権下では一般にも知名度のあるスター選手が数多く召集されたが、南アフリカW杯を担う若手中心のオシム政権になってからは知名度の高い選手が少なく、代表戦中継のテレビ視聴率が下がっている[要出典]。そのためか、「オシムになってから代表の人気が低下した」と、一部メディアにはオシムの人選に批判的なものもある。


イビチャ・オシム 戦術
ジェフ時代と同様に、「賢く走る」ことをテーマに掲げている。そのため、90分間走り続けるスタミナはもちろんのこと、戦術理解力も重要視される。そのため、就任1年目の召集選手にはジーコ時代から召集されていた阿部勇樹、巻誠一郎のほかに山岸智、羽生直剛というかつての教え子も多く含まれている。これについては「教え子に対する贔屓」という批判の声もある。もっとも、代表監督が特定クラブから多くの選手を招集し、クラブでの連携をチーム作りに生かす手法は数多く取り入れられている。(ただし、この手法は通常、国内でもトップレベルの強豪と言われるチームで行われることが多く、中堅~上位クラスのジェフ千葉から多く選ばれているのは、世界の趨勢からすると少数派である)

もう一つ特徴的な事項として、「ディフェンスの選手にもビルドアップの能力、攻撃力を要求する」というものがある。2006年の最終戦となったサウジアラビア戦で起用された3バックはレギュラーに怪我人もあったことで、田中マルクス闘莉王、今野泰幸、阿部勇樹の3人であった。今野・阿部はいずれも本職はボランチの選手であり、闘莉王もDFとしては攻撃を好む選手である。彼らが攻撃参加をするためポジションチェンジする際、相手のディフェンスの的が絞りにくくなるという利点がある。サウジアラビア戦の2点目も、攻め上がった今野のクロスを我那覇が合わせることで生まれた。当然、彼らが攻め上がった後に中盤の選手がディフェンスのカバーに入ることが重要であり、その能力に長けている鈴木啓太は全試合で起用されている。


イビチャ・オシム オシム語録
質問者が不用意に「走るサッカー」について質問すると、オシムは「サッカーで走るのは当たり前です」と切り返す。そうした場面が多々見られるように、試合後のオシムの記者会見や雑誌、新聞等に語られる彼の言葉は非常にウィットに富んでおり、サッカーが哲学的に語られる。これがサポーターだけではなく、またサッカー界だけでもなく、一般紙や教育の現場などでも評判を呼んだ。これが「オシム語録」と呼ばれるようになり、ジェフ千葉の新しい名物として定着した。

ジェフ千葉の公式サイトにそうしたオシムの発言を集録した「オシム語録」のページが設けられ、サイトの訪問者数は飛躍的に増加した。これに注目したクラブ側も、2003年シーズンの1stステージ第15節の浦和レッズ戦では「オシム語録」をプリントしたうちわを来場者に配って好評を博すなど、営業面でも「オシム語録」を活用するようになった。

各試合後の会見では、単に質問者がからかわれている場面もまま見受けられ、オシムのコメントを真に受けて、そのまま何にも考えずに紙面に掲載してしまうと、その真意を伝え切れないことになる。また、(練習場のある)市原までオシムの取材に出かけた記者が半泣きで帰ってきた、という逸話が時々紙面に掲載されることがあったように、オシムは一部マスコミにとっては「インタビュアー泣かせ」の取材相手である。こうしたオシムとマスコミとのやりとりがサポーターの失笑を買うこともあるが、そこからは、日本のスポーツジャーナリズムの幼稚さが透けて見える、という意見も聞かれる。オシム自身は複数の外国語に堪能であるが、記者会見やインタビューは基本的に母語のセルビア・クロアチア語で行っているので、取材者にはその原語を確認するくらいの作業が必要である。

このようなオシムとのやりとりによって、最初は面食らうばかりだった記者たち(「千葉番」のスポーツ記者など)もまた「成長」する糧を得てきたのであり、また、原語を理解できる数少ないライター達の中には、質問の途中でおちょくるコメントをしたオシムに「最後まで聞いてから答えて頂きたい」と逆襲した者もいる。そのような真摯な質問者に対するオシムの対応は、往々にして丁寧である。

なお、スポーツジャーナリスト以外への受け答えは温厚でありながら、非常に慎重である。これはオシムが各所で語っているとおり、かつて経験したユーゴ内戦の時期に「マスコミが戦争を始めさせる」という様を見せ付けられてきたことに起因するものである。

オシムの日本代表監督就任以降、その動向とともに「オシム語録」もさらに大きな注目を集めるようになった。サッカー選手やサッカー関係者、それを取り巻くサッカー・ジャーナリズムやビジネス界にまで、オシムの言葉がどのような影響を与えていくのか。「オシム語録」は今なお現在進行中である。

■代表的な語録

故障者が続いたチーム状況について
「ライオンに襲われた野うさぎが逃げ出すときに肉離れしますか?準備が足りないのです。」[2]
シーズン中にチームに休みを与える際に
「休みから学ぶものはない」[2]
要田勇一の活躍について
「要田はヨーダではない」
「アイディアがない人間にもサッカーはできるが、サッカー選手にはなれない。」
■その他の語録

記者に「選手時代に来日した際と現在とで日本サッカーは変わりましたか?」と質問されて
「日本サッカーは40年前とで比べ物にならないくらい進歩した。しかしあなた方マスコミは40年間まるで進歩していない。」
日本代表監督就任会見で記者の「ワールドカップでの失望[3]をどのように払拭するのか?」という質問に対して
「失望するには物事を楽観視する必要があり、日本人が楽観視したのは相手の情報を得ていなかったのか相手の情報を得ていながら相手を見くびってしまったかのどちらかであり、自分たちの実力を正しく認識していれば失望はしなかったはず。」
Jリーグ2006年第33節で浦和レッズ(リーグ1位)は攻めの姿勢を欠き引き分け、一方追いかけるガンバ大阪(2位)は積極的な攻撃で勝利し、優勝チームの決定が最終節までもつれ込んだ事について
「一生懸命にエサを探すニワトリだけが、エサにありつける。」

イビチャ・オシム 人物・エピソード

イビチャ・オシム 日本との関係
オシムは親日家であると言われ、その影響から日本に興味を持った選手がいるとも言われている。
1964年、東京オリンピックに出場するユーゴスラビア代表の一員として来日した。このとき、生まれて初めてカラーテレビを鑑賞して感激したらしい。また農村をサイクリングしていたところ、見ず知らずの外国人にいきなり梨を振舞ってもてなす日本人の歓待に触れ、感激して、親日家になったと言われている。オシムの友人によれば、帰国してからしばらくはその話しかしていなかったというほど印象が強かったらしい。
1991年7月20日、パルチザンがキリンチャレンジカップに招かれ、オシムは監督として27年ぶりに来日した。このとき、日本代表を相手に勝利を収めるが、日本のサッカーレベルが向上していたことに驚いたとされる。
日本に来てから魚好きになり、自宅付近には行きつけの魚屋もある。日本酒も好む。

イビチャ・オシム 愛称・異名にまつわる逸話
一般的によく紹介されるイビチャの名称は短縮型で、正式名は Ivan (キリル文字で Иван)、日本語読みでは「イヴァン」である。ジェフ千葉での登録名は「イビチャ・オシム」。(なお「イビチャ」の原語により近い日本語表記は「イヴィツァ」)
選手時代には「シュトラウス」の異名をとった。テクニックとその独特のリズム、ボール捌きがまるでヨハン・シュトラウス2世が作曲したワルツを踊っているかのように華麗であったことを由来とする(ちなみにドイツ語の「ヨハン」は、オシムの名前である東スラヴ・南スラヴ諸語の「イヴァン」に当たる)。190cmの長身ながら繊細なボールタッチを持つパスの名手として知られ、ボールを持ったら離さないとも言われた。
愛称の1つに「シュワーボ」(「ドイツ野郎」の意)がある。オシムによればこれは少年時代からのもので、当時の自身のブロンドの髪、更に父方の祖父と祖母がドイツ系(スロベニアのマリボル近郊出身の祖父は、そのルーツはドイツのシュヴァーベン(シュワーベン)地方で、オシムの祖母はミュンヘン出身のドイツ人)で、家族がドイツ語を使いこなしていたことなどが由来だという。プロになってからも彼のルーツへの敬意を表する意味で、そして親しい間柄の人からは今でも呼ばれることがある。なお、オシムがパルチザン・ベオグラードの監督を辞任した際、選手をはじめ多くの関係者が「シュワーボ!オスタニ(残れ)!」と叫んで別れを惜しんだというエピソードがある。

イビチャ・オシム その他の逸話
趣味は料理、相撲観戦(琴欧洲のファン)、カードゲーム(レミ、ラミーの一種)。
もしサッカー選手、監督になっていなかったら数学の教授になっていたかもしれない、ただ、その場合はユーゴ内戦の時期を無事に過ごせなかったかもしれない、と語っている。
自身について「今で言うマルチカルチャーな環境で育った」という。父方の祖父と祖母はドイツ系で、母方は祖父がポーランド人、祖母はチェコ人である(なお、オシムはユーゴ分裂後の人種分類では「クロアチア人」であるが、本人はそういう区分を嫌っている)。また少年時代から所属したジェリェズニチャルも、当時ボスニアに住む民族が一緒くたにプレーしている環境であった。
母国語のセルビア・クロアチア語(旧ユーゴ人に言わせると「ややボスニアなまりがある」という)のほか、ドイツ語、フランス語、更に英語も話せる。記者会見は母国語だが、それ以外では英語などを使うこともある。
PK戦が嫌い。ユーゴ監督時代、1990年ワールドカップのアルゼンチン戦、PKでは監督の力も及ばない、運命を偶然にゆだねるものであるとしてPK戦を見ずしてロッカーに引き下がってしまったが、結果は5人中3人が外し敗戦。ジェフ千葉時代、2005年のナビスコカップ決勝でPK戦を見ないでロッカーに引き下がってしまったのも同じ理由。勝利に終わった試合後のインタビューで、PK戦にいい思い出が無い、と語っている。
就任したクラブチームすべてにカップ戦のタイトルをもたらしており、解任されたことが一度もない。
日本での親友はユーゴ代表監督時代から親交がある祖母井秀隆(ジェフ千葉在籍時のゼネラルマネージャー)で、視察などの際に送迎してもらうほどであった。
母国でチャリティー活動も行っている。
大の電車嫌い。

イビチャ・オシム 関連情報

イビチャ・オシム 関連人物
アマル・オシム(長男。ジェフ千葉時代、父であるイビチャの下でコーチを務めた)
ミハイロ・ペトロヴィッチ(グラーツ時代にオシムの下でコーチを務め、現在も師弟関係にある)
間瀬秀一(ジェフ千葉時代にオシムの通訳を務めた)

イビチャ・オシム 関連項目
サッカーユーゴスラビア代表
サッカー日本代表

イビチャ・オシム 参考(関連)書籍
『オシムの言葉 - フィールドの向こうに人生が見える』
木村元彦著、集英社インターナショナル/集英社、ISBN 4797671084
『Das Spiel des Lebens』
Gerald Enzinger/Tom Hofer/Ivica Osim 著、Deuticke im Paul Zsolnay Verlag、ISBN 3216305945
『イビチャ・オシムの真実』
ゲラルト・エンツィンガー/トム・ホーファー著、平陽子訳、エンターブレイン、ISBN 4757731043
※上記『Das Spiel des Lebens』(2002年刊)の翻訳に、オシム自身の語りによるジェフ千葉~日本代表監督就任までを追加したもの。
『オシムが語る』
木村元彦監修、シュテファン・シェンナッハ/エルンスト・ドラクスル著、小松淳子訳、集英社インターナショナル/集英社、ISBN 4797671548


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