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バレンシア

バレンシア(バレンシア語:València、スペイン語など:Valencia)は、スペインの都市。バレンシア州の州都で、バレンシア県の県都。人口は約80万人でスペイン第3位。バレンシア都市圏(es)の人口は173万人に上る。

地中海に面し、温暖な地中海性気候で雨量も少ない。観光地としては世界遺産に登録されているラ・ロンハや国立陶器博物館、カテドラルなどがあり、3月に開催される火祭りは著名。パエリャ発祥の地でもある。

経済
バレンシアはここ数十年高い経済成長を遂げており、おもに観光や建設業に刺激されている。

バレンシアは地中海でもっとも物流の多い港の一つであり、スペインの輸出の20%を担っている。おもな輸出品は食料品、家具、陶器タイル、織物、鉄製品である。バレンシアの工業は、金属、化学、繊維、造船、醸造などからなる。失業率はスペインの平均よりも低い。中小の工場も地域の産業では重要な位置を占めている。

郊外にはフォードの工場があり、マツダが2003年から自動車の生産を開始している。

バレンシアの 歴史
紀元前137年にローマ人によって建設され、「ワレンティア」(Valentia 、強さ・活力の意)と名付けられた。それまでは「エデタニア」(Edetania)と呼ばれていた。紀元前75年にポンペイウスとセルトリウスの争いによって破壊されたが、再建された。

バレンシアは西ゴート王国、次いでイスラム教徒に支配された。1094年、エル・シドに征服されたが、彼が死ぬとムラービト朝に奪回された。1238年、アラゴン王ハイメ1世がこの地を征服し、以降はキリスト教国の領土となった。ハイメ1世が建てたバレンシア王国は、アラゴン王国の一部を構成した。

15世紀から16世紀には、バレンシアは地中海でもっとも重要な都市の一つであった。ローマ教皇カリストゥス3世とアレクサンデル6世を輩出したボルジア家はバレンシアの出身である。チェーザレ・ボルジアは17才でバレンシア大司教に任命されている。

18世紀のスペイン継承戦争では、バレンシアはオーストリアの推すカール大公の側についた。1706年、イギリス軍がバレンシアに入城したが、アルマンサの戦いでフランス・スペイン軍が勝つと、イギリス軍は撤退しバレンシアは自治権を失った。

スペイン内戦では、共和国政府はバレンシアを臨時の首都としたが、フランコ軍により包囲された。フランコ時代にはバレンシア語の会話・教育が禁じられた。スペインの民主化後、1982年にバレンシア州が自治州となり、現在では逆にバレンシア語の教育が義務化されている。

1957年、市内を流れるトゥリア川が大洪水を起こした。このため川の流路を市の南側に変える工事が行われ、排水された旧トゥリア川の跡は7kmにわたる公園となった。1996年には旧トゥリア川跡に芸術・科学都市が建てられた。

2006年6月、バレンシア地下鉄脱線事故が発生し、40人を超える死者が出た。

バレンシア

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