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SUWA

諏訪 高広(すわ たかひろ、1975年8月31日-)は闘龍門からフリーに転向、現在はプロレスリング・ノアで活躍する日本のプロレスラー。鹿児島県川辺郡川辺町出身。180cm、95kg。鹿児島県立薩南工業高等学校卒業。そのプロレスラーとしてのキャリアにおいて、リングネームSUWAとして最も知られる。

受身の名手で、硬派な風貌を持ち、怒ると誰にも止められない危険な性格。

経歴
高校卒業後東京の建設会社に就職し、アニマル浜口ジムに通い体作りをしてリングスの入団テストを受けるが不合格。その後ウルティモ・ドラゴンが設立したプロレス学校・闘龍門の募集に合格し、同期生の黒木克昌(マグナムTOKYO)、大島伸彦(現CIMA)、藤井達樹(ドンフジイ)と先発隊としてメキシコへ渡り、大島・藤井の2人とルード(悪役)ユニットC-MAXを結成(後にTARUとなる多留嘉一が加入)。

1997年に正式デビュー。1999年日本に逆上陸後、大暴れぶりで団体の「強さの象徴」と言われたが、怪我に悩まされた。普段はコミカルな試合が多いフジイと衝突したことがあり、一時ユニットは空中分解、SUWAも会社を無断欠勤するという事件が起きている。その後復帰したものの、処罰として第1試合での試合を義務付けられた。フジイとは後に和解し、ユニットも元通りとなる。闘龍門での晴れ舞台は2004年2月6日、マグナムTOKYOを破ってのUDG3代目王者となった時であった。この時は怖いマグナム(「川崎モード」と言われている)を引き出している。新団体DRAGON GATEには1シリーズだけ参戦し同年8月22日、退団した。

その後はフリーランスとしてプロレスリング・ノアに参戦。参戦早々、丸藤正道&KENTAが持つGHCジュニアタッグ王座に挑戦するなど、暴れぶりと無鉄砲さは変わらない。一方、時折ノアの試合解説も行っており、リング上での暴れっぷりとは対象的に冷静な解説はファンから高い評価を得ている。

現在はノアのシリーズにフル参戦しており、会社の備品を無断で使用したり、差し入れを勝手に食べたりするなどしたため、2005年の選手会興行に強引に参加させられた事や、2006年に海外遠征へ派遣された事からも、給与形態を除けば実質は所属選手扱いのようだ。

ほぼ純血で行われるノアの選手会興行やプロレスリング・セムにも参加している。また、同年3月に永源遙が引退したことを受けて「これからの第一試合はボクが引き継ぎます」と宣言し、8月には通常ノア所属の若手・中堅選手が派遣されるヨーロッパへも遠征した。2006年初旬、かつての盟友TARUが主戦場とする全日本プロレスへの進出を仄めかす発言を残していたが、11月には逆にVOODOO-MURDERSの面々をセムのマットへ呼び込み、その勢いのまま本家ノアの12月10日武道館大会にVOODOO-MURDERSのメンバーと組み田上明組と対戦した。

しかし、同大会の敗北後、マイクアピールにてノアに「思い出作りありがとう御座いました」という感謝の言葉を述べ、続けて2007年春にレスラーを引退する事を発表した。

2007年1月21日武道館の、ノアでのラストマッチではSUWA・高山善廣・鈴木みのる組VS丸藤正道・力皇猛・KENTA組の豪華6人タッグが組まれたが、味方の高山善廣・鈴木みのるに対してブルーボックスで攻撃するなど暴走ファイトを展開し、最後は味方からも含めフィニッシュ・ムーブ5連発を喰らいマットに沈んだ。2月9日ウルティモ・ドラゴンと初タッグを組んでTAJIRIと対戦。2007年2月17日の全日本プロレス両国大会への出場(同団体初参戦)が決定し、佐々木健介らと対戦する。

wikipediaより
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