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朝青龍 明徳

朝青龍 明徳(あさしょうりゅう あきのり、昭和55年(1980年)9月27日 - )は、モンゴル国ウランバートル市出身の力士で、第68代横綱。モンゴル人。本名Долгорсүрэнгийн Дагвадорж(Dolgorsuren Dagvadorj;ドルゴルスレン・ダグワドルジ)。高砂部屋所属。愛称はドルジ。身長184cm、体重148kg。得意技は右四つ、寄り、突っ張り、星座は天秤座、血液型はO型、趣味は音楽鑑賞。特技は乗馬。

朝青龍明徳 来歴
次兄のドルゴルスレン・スミヤバザルはブフ(モンゴル相撲)のアヴァルガ(モンゴル横綱)、三兄のセルジブデはリングネーム「ブルー・ウルフ」のプロレスラー(新日本プロレスに所属していた)。相撲勘が非常に良く、相手に応じて寄り、投げ、突き押し、足技などを繰り出す。足腰が強靱。15歳でブフ(モンゴル相撲)を始め、ナーダムの相撲少年の部で優勝した。1997年に朝赤龍とともに日本の明徳義塾高校に相撲留学し、2年後に退学して角界に入門した(後に卒業が認められた)。2001年に新入幕し、翌年9月にモンゴル出身の力士として初めて大関に昇進し、同年11月場所、翌年1月場所に連続優勝して場所後に第68代横綱に昇進した。
朝青龍 明徳

中田浩二

中田浩二 プレースタイル
センターバック、スイーパー、サイドバック、ミッドフィルダーと数多くのポジションをこなす、いわゆるユーティリティプレイヤー。どのポジションからでもロングパスを送ることができ、またミドルシュートも強烈である。ヘディングも強く、得点能力も高い。2002年日韓ワールドカップのトルコ戦で失点したコーナーキックに繋がるパスミスを冒し、このシーンが大会後も繰り返し放映された為、日本人のファン・サポーターには簡単なミスをするというイメージがついて回る。しかしながら各ポジションで守備、攻撃の役割を無難にこなすことが出来るため、彼の存在自体が重要である。


中田浩二 経歴
1987年 神奈川県横浜市立南戸塚小学校
1988年 - 1992年 鳥取県米子市立義方小学校
1992年 - 1995年 鳥取県米子市立後藤ヶ丘中学校
1995年 - 1998年 帝京高校
1998年 - 2004年 鹿島アントラーズ(日本)
2005年1月 - 2006年1月 - オリンピック・マルセイユ(フランス・リーグ1)
2006年2月 - 現在 FCバーゼル(スイスリーグ1)
中田浩二

マリノス 乾貴士

マリノス 乾貴士
プレイスタイル
身長169cm/体重59kgと決して恵まれた体格ではないが、切れ味鋭いドリブルと効果的なスルーパス、およびトリッキーなプレイを駆使して攻撃を操るゲームメーカータイプの選手である。 あの高速ドリブルはJリーグでもトップクラス!

経歴
セゾンFC所属時から現野洲高校のサッカー監督である山本佳司の指導を受ける。 2004年に野洲高校に入学。高校2年生で左ウイングのレギュラーになり青木孝太らとともに活躍、全国高校サッカー選手権大会優勝に貢献する。 2006年には18歳にしてU-21日本代表に選出され、2試合に途中出場を果たした。 2007年から横浜F・マリノスへ入団。


wikipediaより
マリノス 乾貴士

SUWA

諏訪 高広(すわ たかひろ、1975年8月31日-)は闘龍門からフリーに転向、現在はプロレスリング・ノアで活躍する日本のプロレスラー。鹿児島県川辺郡川辺町出身。180cm、95kg。鹿児島県立薩南工業高等学校卒業。そのプロレスラーとしてのキャリアにおいて、リングネームSUWAとして最も知られる。

受身の名手で、硬派な風貌を持ち、怒ると誰にも止められない危険な性格。

経歴
高校卒業後東京の建設会社に就職し、アニマル浜口ジムに通い体作りをしてリングスの入団テストを受けるが不合格。その後ウルティモ・ドラゴンが設立したプロレス学校・闘龍門の募集に合格し、同期生の黒木克昌(マグナムTOKYO)、大島伸彦(現CIMA)、藤井達樹(ドンフジイ)と先発隊としてメキシコへ渡り、大島・藤井の2人とルード(悪役)ユニットC-MAXを結成(後にTARUとなる多留嘉一が加入)。

1997年に正式デビュー。1999年日本に逆上陸後、大暴れぶりで団体の「強さの象徴」と言われたが、怪我に悩まされた。普段はコミカルな試合が多いフジイと衝突したことがあり、一時ユニットは空中分解、SUWAも会社を無断欠勤するという事件が起きている。その後復帰したものの、処罰として第1試合での試合を義務付けられた。フジイとは後に和解し、ユニットも元通りとなる。闘龍門での晴れ舞台は2004年2月6日、マグナムTOKYOを破ってのUDG3代目王者となった時であった。この時は怖いマグナム(「川崎モード」と言われている)を引き出している。新団体DRAGON GATEには1シリーズだけ参戦し同年8月22日、退団した。

その後はフリーランスとしてプロレスリング・ノアに参戦。参戦早々、丸藤正道&KENTAが持つGHCジュニアタッグ王座に挑戦するなど、暴れぶりと無鉄砲さは変わらない。一方、時折ノアの試合解説も行っており、リング上での暴れっぷりとは対象的に冷静な解説はファンから高い評価を得ている。

現在はノアのシリーズにフル参戦しており、会社の備品を無断で使用したり、差し入れを勝手に食べたりするなどしたため、2005年の選手会興行に強引に参加させられた事や、2006年に海外遠征へ派遣された事からも、給与形態を除けば実質は所属選手扱いのようだ。

ほぼ純血で行われるノアの選手会興行やプロレスリング・セムにも参加している。また、同年3月に永源遙が引退したことを受けて「これからの第一試合はボクが引き継ぎます」と宣言し、8月には通常ノア所属の若手・中堅選手が派遣されるヨーロッパへも遠征した。2006年初旬、かつての盟友TARUが主戦場とする全日本プロレスへの進出を仄めかす発言を残していたが、11月には逆にVOODOO-MURDERSの面々をセムのマットへ呼び込み、その勢いのまま本家ノアの12月10日武道館大会にVOODOO-MURDERSのメンバーと組み田上明組と対戦した。

しかし、同大会の敗北後、マイクアピールにてノアに「思い出作りありがとう御座いました」という感謝の言葉を述べ、続けて2007年春にレスラーを引退する事を発表した。

2007年1月21日武道館の、ノアでのラストマッチではSUWA・高山善廣・鈴木みのる組VS丸藤正道・力皇猛・KENTA組の豪華6人タッグが組まれたが、味方の高山善廣・鈴木みのるに対してブルーボックスで攻撃するなど暴走ファイトを展開し、最後は味方からも含めフィニッシュ・ムーブ5連発を喰らいマットに沈んだ。2月9日ウルティモ・ドラゴンと初タッグを組んでTAJIRIと対戦。2007年2月17日の全日本プロレス両国大会への出場(同団体初参戦)が決定し、佐々木健介らと対戦する。

wikipediaより
SUWA

セルティック

セルティック(Celtic Football Club)は、中村俊輔が所属しているチームで2007チャンピオンズリーグではミランに敗戦しています。
スコットランド・グラスゴーを本拠地とするサッカークラブチームです。

セルティック(Celtic Football Club)は、スコットランド・グラスゴーを本拠地とするサッカークラブチーム。名称のセルティックとは、ケルト人、あるいはケルトの、ケルトに属するを意味する。ケルト系のアイルランドと同じく、チームカラーに緑と白、エンブレムにあしらわれたシャムロックとケルト色を打ち出している。

1888年に創立され、スコティッシュ・プレミアリーグに所属。同じグラスゴーを本拠地とするグラスゴー・レンジャーズと2強を形成し、そのライバル関係は「オールドファーム・ダービー」と呼ばれている。レンジャーズはアングロ=サクソン系で英国国教会派(プロテスタント系)の英国連合を支持する連合主義者 (ユニオニスト)の支持が多く、セルティックはカトリック系でケルト人の末裔であるスコットランド人(ゲール人)の支持が多い。レンジャーズとセルティックの関係は宗教的なもののみならず、英国連合の政治的、民族的な関係をも含む複雑な背景がある。

セルティック

ACL(AFCチャンピオンズリーグ)

ACL(AFCチャンピオンズリーグ)

ACL AFCチャンピオンズリーグ(AFC Champions League) は、アジアサッカー連盟(AFC) が主催するクラブの国際大会。略称はACL。2002年-2003年シーズンに発足した。それまでは各国のリーグ優勝クラブによるアジアクラブ選手権、カップ戦優勝クラブによるアジアカップウィナーズカップと、この2大会の優勝クラブによるアジアスーパーカップの3大会があったが、これらを統合してアジアの実力ナンバー1クラブを決定する大会として行われるようになった。優勝クラブには50万USドルの賞金が贈られると同時に、同年度12月に開催されるFIFAクラブワールドカップの出場権が与えられる。

歴史
1967-68年度シーズンにアジアチャンピオンクラブズトーナメントとして第1回大会が開かれ、以後1969-70年度シーズンを除いて1971-72年シーズンまでの4回開かれたが、その後一時中断。1985-86年度シーズンにアジアクラブ選手権として再開されるようになった。

大会の発想としては、UEFA主催のチャンピオンズカップをモデルに、アジア各国のクラブチームのレベルアップを図る目的があった。出場資格は各国リーグ戦の前年度シーズン(日本は日本サッカーリーグ→Jリーグ)の年間優勝チーム並びに、前回の当大会優勝チームがエントリーできた。但し、1993-1994年・第13回に出場したヴェルディ川崎については、1992年が日本リーグからJリーグへの移行期間でレギュラーリーグが行われなかったので、その年に唯一開催されたJリーグの公式戦・ナビスコカップの優勝チームが、そのまま国内リーグ戦優勝チームと見なされて出場した。

2002-2003年度シーズンよりアジアカップウィナーズカップ、アジアスーパーカップと共に統合され、大会名もAFCチャンピオンズリーグとなった。

ACLとしての第1回はSARSやイラク戦争の影響もあって決勝戦が当初予定から半年も延期されたが、アル・アイン(UAE) がBECテロ・サーサナ(タイ)を得失点差の末に下して記念すべき初代チャンピオンの座を獲得した。


ACL

髙橋 大輔

髙橋 大輔(たかはし だいすけ、1986年3月16日 - )は、日本の男子フィギュアスケート選手。岡山県倉敷市出身。倉敷翠松高等学校卒。関西大学文学部在学中。血液型A型。 日本人男子初の世界ジュニア選手権(2002年)の優勝者。またトリノオリンピック日本代表である。

たかはし だいすけ
髙橋 大輔 基本情報

国籍: 日本

出身地: 岡山県, 倉敷市

身長: 165 cm

体重: 59 kg

コーチ: 長光歌子

振付師: ニコライ・モロゾフ

所属: 関西大学

ISU パーソナルベスト
SP+FS トータル: 247.93 2006 NHK杯
ショートプログラム: 84.44 2006 NHK杯
フリースケーティング: 163.49 2006 NHK杯
最近の結果:
大会名 ポイント 順位 年
全日本選手権 256.08 優勝 2006
グランプリファイナル 224.83 2位 2006
NHK杯 247.93 優勝 2006
スケートカナダ 208.21 2位 2006
トリノオリンピック 204.89 8位 2006
髙橋 大輔

桑田真澄

桑田「エンジョイした」

3月 4日 -- パイレーツとマイナー契約している桑田真澄がレッズとの オープン戦に登板し、3打者を遊ゴロ、三振、三振に打ち取った。
「きょうは十分エンジョイした」と感想を語った桑田は 3回から 2番手として投げ、最初の打者を遊ゴロに打ち取り、次の打者を変化球で三振、3人目の打者を内角直球で三振に仕留めた。

「マウンドに立てるだけで幸せだった。」- 桑田



桑田真澄

辻村明須香

大会初日、“あすみん”こと辻村明須香の手は震えていた。ティの上にボールを乗せられないほど震えていた。開幕戦への強い思いに体が自然と反応した。
 昨年、初シード獲得のチャンスを逃し、予選会でも失敗している辻村が、今年ツアーに出場できるのは主催者推薦の8試合程度ととても少ない。


辻村明須香

沢屋敷 試合

K-1の新星・沢屋敷に“ヒデの風格”

沢屋敷純一は自分の記事が載る日刊スポーツを手に写真に納まる 新星・沢屋敷純一(22=チームドラゴン)が「K-1のヒデ」になる。本戦初出場でジェロム・レバンナを下した快挙から一夜明けた5日、喜びを見せるどころか、クール&クレバーを貫いた。周囲からは早くも「大物ハンター」として英才教育、トップ選手とのビッグマッチ限定でスターに育てる案が浮上。WORLD GP開幕戦出場の可能性まで出てきた。低迷するK-1日本勢の救世主として、期待は高まる一方だ。

 クールな話しぶりだった。沢屋敷は、快挙に沸く周囲をいぶかしげに見ていた。「昨日の試合は作戦がはまってよかった。実力を付けて、世界と肩を並べたい」。世界舞台を目指す22歳には、驚く結果ではなかった。
日刊スポーツより


沢屋敷 試合

前田日明

前田日明

来歴

前田日明 少年時代
少年時代、ウルトラマンがゼットンに倒されたのを見て、打倒ゼットンを志し少林寺拳法を習い始める。北陽高校時代は少林寺拳法と空手とバイクに明け暮れた。元在日韓国人の三世で、民族名は高日明(コ・イルミョン、???)。現在は日本に帰化している。韓国訪問時に在日として理不尽な扱いを受けたことから帰化を決意した。前田自身によれば、先祖は李氏朝鮮期に宮廷で高官の地位にあったとか。日明の名前は祖父が命名したものであり、デビュー当時は「前田明」の名前であったが、祖父への思いから日明の表記に変更したと、『週刊プレイボーイ』のインタビューで発言している。


前田日明 新日本プロレス
1977年に、後にタイガーマスクとして活躍することになる佐山聡にスカウトされ新日本プロレスに入団。同年8月25日、長岡市厚生会館の山本小鉄戦でデビュー。藤原喜明によると前田はアントニオ猪木に憧れて入団したわけではなく「肉が沢山食べられるから」という理由で佐山の誘いに乗ったと言うことである。実際、猪木が見るに見かねて前田に「何してもいいから来い」とスパーを試みたところ、前田は猪木に急所蹴りと目つぶしをして、怒った猪木にひっくり返されて逆十字を極められ、「なに考えてんだ!」と怒鳴られた事がある。※これは、後に本人が麻生秀孝(サブミッション・アーツ・レスリング)との対談で話している。

その後将来のエース候補として渡英し、クイックキック・リーとして活躍。IWGPトーナメント欧州代表として帰国。新日本プロレスの象徴的存在であったカール・ゴッチコーチの後押しもあり、一躍人気者となる。日本再デビュー戦の相手はポール・オンドーフ。また、藤波とのタッグ名は「フレッシュコンビ」。


前田日明 旧UWF~新日本プロレス
新日本プロレスの新世代エースとして活躍するも、1984年に第一次UWF旗揚げに参加。同団体の電撃解散を経て、1986年に新日本に復帰。長州力の呼びかけのもと藤波辰爾らと共に新世代軍を結成。アントニオ猪木、坂口征二、マサ斎藤ら旧世代軍と抗争を繰り広げる。旧来のプロレススタイルを根底から否定しかねないUWFのスタイルに危機感を覚えた新日本プロレスは、一番人気の前田潰しを画策。アンドレ・ザ・ジャイアントとのシュート・マッチを強行するも、前田はアンドレを戦意喪失にまで追い込む。また、新日本プロレスは空手家でWKA全米チャンピオンのドン・ナカヤ・ニールセンらをぶつけるも、前田は結果・試合内容共に圧勝。この日以降、新日ファン内での前田人気は頂点を極めることとなる。その後長州が新世代軍の解散を宣言したことを受け、1987年11月19日後楽園ホールでのUWF軍対維新軍の6人タッグマッチで、木戸修にサソリ固めを決めている長州に前田が顔面にキックを食らわせ右前頭洞底骨折、全治1ヶ月の重傷を負わせる。このことを理由に、新日本プロレスは前田に無期限出場停止の処分を下す。その後、出場停止の解除の条件として、メキシコ遠征を行うよう指示されたが、UWFのファイトスタイルとメキシコのルチャ・リブレとでは噛み合う筈も無く、拒否した事により1988年2月1日に新日本プロレスから解雇される。


前田日明 第二次(新生)UWF
第二次(新生)UWFは、1988年5月に後楽園ホールにて「STARTING OVER」と銘打ち旗揚げ。超満員に膨れ上がった旗揚げ戦には、当時顧問の肩書きだったカール・ゴッチ等、多くのプロレス・格闘技関係者が来場した。当時のメンバーは前田の呼びかけに応じ、新日本プロレスとの契約を結ばず参じた高田延彦(当時、高田伸彦)、山崎一夫。そして同じく若手の中野龍雄、安生洋二、宮戸成夫。藤原喜明、船木誠勝、鈴木みのるは翌年五月に新日本プロレスより移籍合流し、それに田村潔司、垣原賢人、富宅祐輔等「新人」も加わった。対戦は基本的に同門の日本人対決が多く、「異種格闘技戦」も行われ、後半飛躍的に力を伸ばした船木が所謂「前高山」の三強に迫ったものの、やや閉塞感は拭えなかった。

新生UWFでは独自の「ルール」が施行された。第一次UWFで佐山が提起したルールを、ランキング制を除き、事実上採用したものではあった。その概要は、場外乱闘、ロープワークを排除。スリーカウントはなし。関節技によるギブアップか、蹴り、投げ、掌底によるテン・カウントのKO、五度のダウン、もしくは、三度のロープ・エスケープで一度のダウンと算定する事による、(ポイントアウトとしての)TKO、というスポーツライクなものであった。俗に言う「UWFスタイル」とは、このルールに則り闘う事であるから、いかにこのルールが彼等UWFの選手達にとって、重きを成したかが窺えよう。事実、後に三派に分裂するUWFは、独立した三派それぞれが先ず真っ先に、このUWFルールに改変を加えた「独自」ルールを作成、発表する事に心血を注いだのであった。

さて、「従来のプロレス」から電撃的に離脱する事となった前田には、時代の寵児として多くの注目が集まっていた。その「イメージ」自体は、旧来のプロレスマスコミに加え、格闘技誌面よる歓呼の声、反論の声も含めた強い関心の元、文字通り爆発的に膨れ上がったのである。そして当時まさに創刊されたばかりの『格闘技通信』は「プロレスという言葉が嫌いな人この指とまれ」と、前田を表紙に抜擢し劈頭を飾った。既存のプロレスとの差別化をはかる戦略は、プロレスの社会認知を望むファンから絶大な支持を得る。月一回を原則としたUWFのライブ・チケットは、極めて入手困難という意味で、「プラチナ」化したのであった。

然し、順風満帆の季節は短かった。前田と神新二社長との間で団体の方向性、金銭的な面で深刻な確執が発生。1990年10月、前田は大阪での船木誠勝戦直後に、試合後の荒い息のままフロントを舌鋒激しく非難。これを受けたフロントにより、出場停止処分を受けてしまう。この一連の前田と会社上層部との確執・対立は前田と所属選手間にも波及。翌1991年初頭に、前田は自宅マンションでの選手集会に於て、新生UWFの解散を宣言した。その際、高田派、藤原派が独立。一人でも選手が欠ければ第三次UWFは断念すると決めていた前田は、結果的に孤立する仕儀となる。


前田日明 リングス
たった一人での団体旗揚げ
新生UWF解散後の1991年春、たった一人で総合格闘技団体リングスを旗揚げ、同年5月に横浜アリーナで旗揚げ戦を行った。時のスタッフの若林太郎(現修斗協会理事)によれば、初期のリングスは、真剣勝負と作り試合をミックスさせる興行形式を取っていたとされる(この点に不満を持ち、完全真剣勝負への移行を若林太郎は前田に直訴するが、月一回の興行形態の維持が前提のリングスにあっては実現は難しく、若林はリングスを去ったとされる)。旗揚げ戦より当時新興のWOWOWの支援・放映を前田は勝ち得、以後長く、リングスの月一回の興行はこのWOWOWで同時生放送される事となる。更には、UWF時代の人脈から、オランダのクリス・ドールマンの全面協力を得る事に成功、リングス・オランダが設立された。UWFインターナショナル(Uインター)から程なく移籍した長井満也以外に、(山本宜久・成瀬昌由等の当時の新弟子は除き)日本人選手が全く所属しなかった初期の段階に於て、月一回の興行を成立させる為に、このリングス・オランダ勢の協力・参戦は切っても切り離せないものであった。また、空手団体の正道会館の石井館長はリングスに自団体の空手選手を派遣し、佐竹雅昭は貴重な日本人ヘビー級選手として活躍した(石井館長はリングス参戦によって大型興行のノウハウを蓄積し、それが後のK1の飛躍へとつながった。この点について前田は「アイデアを盗まれた。やられた」と述懐している)。

前田重傷の影響
当初のエースはもちろん前田であったが、札幌での旗揚げ第二戦を前にした練習に於て、前十字靱帯を断裂する、膝の大怪我を負ってしまう。その後前田はしばらく重々しいニーブレスをつけて強行出場を続けるが、1991年12月に初参戦し、有明コロシアムで対戦した「リングス・ロシア」所属のヴォルク・ハンが登場するのを境に、膝を狙われる機会が増え、敗北を喫する光景が見られるようになった。このこともあり、前田は手術、長期欠場を決意する。エース不在の(興行的にも大きな)「穴」は、当時WOWOWのCMに「サイボーグ」のイメージで抜擢され、人気も高かったリングス・オランダの「ディック・フライ」や前出の「ヴォルク・ハン」、成長著しかった長井満也、成瀬昌由、山本宜久等が埋め、そこに高阪剛、坂田亘も加わった。1996年にはUインターを脱退した田村潔司が電撃参戦、リングスデビュー戦でディック・フライに鮮やかに勝利する。この頃より、リングスは旗揚げ当初より続いた外国人頼りのカードから、ようやく脱却に成功したといえるだろう。

幻のヒクソン戦
一方、格闘技界を巡る時流はグレイシー一族の出現・活躍により、急速にVT(バーリトゥード)方式が隆盛を極めるようになってゆく。当初はそのスタイルを拒絶した前田だったが、時流に抗し得ず、リングスの興行でも特別ルールとしてVTルールの試合を実験的に導入。しかし、リングス内ではVTルールでリングス勢はヘンゾ・グレイシーやモラエスになすすべもなく完敗した。その時点でも前田本人が柔術勢と戦うことはなく、前田ファンの間にさえ不満の声が聞こえ始める。ところが1998年に、かつての盟友・高田延彦が柔術のヒクソン・グレイシーに敗北。これを機に、ついに前田はヒクソンとの対戦を宣言した。だが、当時のヒクソンは破格のギャランティーを望む事でも知られ(六千万円とも一億円を超えるとも言われる)、ヒクソンは資金力に勝るPRIDEでの高田との再戦を選択。前田とヒクソンとの対戦は幻に終わる。

リングス活動停止
1999年に前田は引退。一部の関係者によると、それまでは真剣勝負とそうでない試合が混在していたとも言われたリングスが、KoKルール導入以降に100%真剣勝負路線へと移行したとされる。つまり、従来のリングス・ルールから、寝技時の顔面殴打不許可以外はきわめてVTに近い、KoKルールを導入する運びとなった(ルール的にはVT路線前の修斗ルールに酷似している)。しかし、スタッフ・日本人選手・外国人有力選手を次々とPRIDEに引き抜かれる。前田引退による興行人気低下も重なって、2002年にリングスは活動を停止。前田は表舞台から姿を消す。リングスには現在PRIDEで活躍するエメリヤーエンコ・ヒョードル、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラらが出場していた。前田が心血を注ぎ築き上げたリングスネットワークの成果である。ちなみにリングスオランダ、リングスロシアは独自活動を行い、2006年現在もそれぞれの国で存続している。

なお、世界的なリングス・ネットワークを越える構想と組織化は、未だどこの団体・興行も実現していない。


前田日明 ビッグマウス(ビッグマウスラウド)
2005年、元新日本プロレスで現ビッグマウス社長の上井文彦に請われ、氏が旗揚げする新プロレスイベントにスーパーバイザーとして参画。同時に、かつての盟友であり新生UWF分裂で袂を分かった船木誠勝と歴史的和解。ビッグマウスラウドの旗揚げ戦・第二戦は記録的な客入りとなる。しかし2006年1月4日に行われた新日本ドーム興行の結果等が引き金となり、前田上井の蜜月時代は終わる。前田は「BMLが既存のプロレスをしていても仕方ない。新日本では『やるだけやって、ノーコンテストで帰って来い』と柴田と村上に告げたのに、二人とも普通のプロレスをやって来た。村上は情けない結果に終わり、柴田も相手選手の顔面も蹴れなかった」等と発言。2006年2月26日 新生ビッグマウスラウド旗揚げ記念大会・徳島興行でビッグマウスを脱退。前田より提案されていた新たなプロレススタイル「スーパーUWF」が、方向性の違いや資金の問題などの問題で上井に却下されたことや、団体の資金難で道場も用意できなかったことなどを理由として、前田は船木と共に脱退。今後は船木と共に、「総合格闘技で勝てる日本人」の育成に努めると発表した。


前田日明 HERO'S
ビッグマウス・K-1との提携で、「HERO'S」(総合格闘技イベント)発足時より「スーパーアドバイザー」として参画。しばしば記者会見等、公の場に姿を現している。(HERO'S興行とライバル関係にあると目される)PRIDEから、2006年5月3日に行われたHERO'S代々木第一体育館に於て桜庭和志が電撃移籍。その際、前田は桜庭選手と並び、ファイティングポーズをとった。この事からも分る様に、単に実際のスーパーバイザーという肩書きのみならず、HERO'Sの持つ「イメージ」は前田日明の世界観が色濃く投影される場として、ファン・関係者には認識されている。また、そうであればこそ、一部マスコミ・ファンの間では、対峙する一方の雄・PRIDEの「イメージ」を担う高田延彦と照らし合わせて、「前田・高田」という新日の寮生時代からの浅からぬ因縁を底流に持つ、(よく考えれば極めてプロレス的な)「ライヴァル・ストーリー」を想起し、今後の両興行の行く末に注目していると思われる。

また、看板としての表の顔だけでなく、オーディション等による選手の発掘、レフェリングやルール適用の徹底化を図る等で活躍。また、所英男選手らのトレーナーも行っている。中でも所選手に対する前田のその献身ぶりは、かつての怖い先輩であった前田をよく知る田村潔司をして驚かしめ、「俺がもしその場に居たら(所を)殴っている」と云わしめるほど。前田は自らを「あしたのジョー」の名トレーナー丹下段平になぞらえるなど、やる気満々と言ったところである。ともすれば厳しい面のみが強調される前田だが、HERO'Sで再起を目指すかつての弟子・山本宣久の事も「直してあげたい」と発言する等、弟子への愛情は深いようである。格闘技への思いは強く、タレントの金子賢がHERO'Sに参戦することに対して厳しく批判。その様子が連日ニュース番組やワイドショー等で取り上げられた結果、HERO'Sに注目が集まり高視聴率をもたらした。


前田日明 主な戦歴
1986年4月29日、アンドレ・ザ・ジャイアントとのプロレスでアンドレが試合放棄(津市体育館)。ワールドプロレスリングで放送される予定の試合だったがお蔵入りとなり(最近ようやく封印が解かれた)、この試合の映像は長年プロレス裏ビデオとして知られてきた。シュートマッチの代表とされている(シュートマッチとはプロレスのリングで行われる真剣勝負のことであり、興行主催者・選手合意のもの、偶発的なものなどがある。アンドレ戦は一応双方合意)。
1986年6月大阪城ホールにて藤波辰爾と対戦し両者KOの引き分け。前田は通常のプロレスではタブーとされる顔面への蹴り技を連発し、藤波を大量出血させた(但し、試合自体は名勝負として、当時賞を受けるに至っている)。
ドン・ナカヤ・ニールセンとの「異種格闘技戦」で勝利し、この頃から「格闘王」と通称されるようになった。またそれ以上に、「格闘王」という言葉が持つ象徴的な「イメージ」を、衰えたりとは云え根強い人気を誇っていたアントニオ猪木からほぼ奪う事に成功したという意味で、この試合が前田の戦歴中で占める意味は決して小さくない。
1999年2月21日、引退試合にて、レスリングでオリンピック3連覇のアレクサンドル・カレリンとの対戦を実現させた(結果は前田の判定負け)。

前田日明 タイトル歴
ヨーロッパヘビー級王座
UWFヘビー級王座
元はWWF(現WWE)インターナショナルヘビー級王座だったが、旧UWFとWWFの関係が消滅したと同時に改称される。
IWGPタッグ選手権(パートナーは高田延彦)

前田日明 得意技
キャプチュード・・・前田日明の代名詞とも言える変形フロントスープレックス(スロイダー)。入場テーマ曲のタイトルをそのまま技の名前として採用した。膝を痛めてからはほとんど使えなくなった。ゴッチ伝授の12種類のスープレックスの1つであるデアポートスロイダーと同じと言われているが、真相は不明である。
キック・・・派手なフライング・ニール・キック他、空手出身らしく多彩なキック技を操った。
各種スープレックス・・・12種類のスープレックスをカール・ゴッチから伝授されたと言われている。
その12種類とは当時のプロレス雑誌で公開された名称によると、ジャーマン・スープレックスホールド、ドラゴン・スープレックスホールド、リバース・アームサルト、ダブルリスト・アームサルト、ウンターグルフ、サルト、リバース・サルト、スロイダー、ハーフハッチ、ダブルアームロック・サルト、デアポート・スロイダーである。

だが実際に試合に使ったのは、スロイダー・風車固め・フルネルソン(ドラゴン)・ハーフハッチ・ダブルリストアームサルトなど数種類である。

各種関節技
大車輪キック・・・前田が放つキックの中でも必殺技といえる縦回転のニールキック。1986年の大坂城ホールIWGP予選にて、藤波を大流血に追い込んだ事で有名である。

前田日明 趣味
釣り
読書。ブレイク前の養老孟司と対談した際に、まるで子供のように次々と質問を浴びせていたこともあり、知識欲が人一倍強い。なお、戦記物、登山物などノンフィクションが好みで、小説は読まないとか。
日本刀の収集・研究。テレビ番組『オーラの泉』出演時、愛蔵の織田信長由来の刀を手放すよう説得されて困った表情に。
鉱物の収集。
日本刀に限らず、骨董品を見て回るのが好きらしい。
矢沢永吉の大ファン。
航空機好き。テレビ番組所萬遊記に出演した際、司会の所ジョージに「一緒にムスタングに乗りましょう」と誘うほど。
昔から飛行機物のオンラインゲームにはまっており、今も自ら飛行隊を編成し、毎日のようにプレイしているとかいないとか。雑誌のインタビューで具体的なゲーム名を挙げたこともあり、彼の存在は某ゲームのプレイヤーの間では公然の秘密となっている。
大の巨乳好き。「最強の巨乳は前田日明が決める!」という題名で行われたリングスのイメージガールオーディションのために『リングの魂』(テレビ朝日)に出演した際、オーディションに参加した巨乳のビキニ女性の乳をマジックペンの先でツンツンしたこともある。
かつては斉藤由貴ファンを自称していた。

前田日明 豆知識
夢は零式艦上戦闘機で太平洋を横断する事と語っている。
元帝国海軍中尉であり敵機を通算64機を撃墜したエース・パイロットであった坂井三郎のことを心から尊敬しており、坂井本人からも「息子」と呼ばれていた。そのせいか、葬儀の際には人目をはばからず号泣したという。
非常に右翼的な言動を行い、戦前の日本の植民地支配(ルーツである朝鮮でのそれも含めて)、アジア・太平洋戦争についてもかなり肯定的である。しかしその一方でもし日本と韓国が戦争になったら、在日を守ってくれるほうに立つとユリイカ増刊、プロレス特集号において語ったように、自らの出自から来る割り切れなさも表明している。
『ウルトラマン』で怪獣ゴモラが大阪城を壊した翌日、その様子を確認に行ったが特に変化が見られなかったため、近くで掃除をしていた男性に訊いたところ「皆が徹夜で修理した」との回答をもらった。子供の夢を壊さないように答えてくれた男性に今でも感謝しているという。ちなみに当時『ウルトラマン』は現実の出来事だと考えており、将来の夢は「東京に行って科学特捜隊に入隊すること」だったそうである。
トラブルに巻き込まれやすい(「起こし易い」とも言える)。
ライバル団体パンクラス社長が自団体の選手と密談。これを引き抜き工作としてホテルのロビーで胸倉を掴むなどし、民事・刑事両方で告訴され、敗訴(同席選手は「前田さんは暴行を働いていない」と証言)。
1994年には、UWF、リングス、パンクラス等への批判記事を雑誌に掲載したフルコンタクトKARATE編集長を女子便所に連れ込み説教。
元弟子でもある安生洋二と、リングスとUWFインターとの対抗戦の交渉決裂後に罵りあう(この際、「自宅を襲撃する」などの脅迫めいた発言をしたとの説もある。)。FIGHTING TV サムライ開局のパーティーでは安生を裏拳で小突き(レスラーやマスコミ等が周囲にいる仲での出来事である)1999年末には、会場において、安生に「前にやられた時のお返し。」突如として背後から襲撃される(安生は略式裁判で罰金刑)。ちなみに罵り合いから双方の事件まではお互いに何年か期間が空いている。安生によると期間が空いたのは「それまで会う機会がなかったため。会ったらやり返すつもり(自分が殴られた時は『パーティー』という場であることを考え、応戦を思いとどまったそうである。)だった。」とのこと。ちなみにかつては「俺を倒したい奴は後ろからでも闇討ちでもやってこい。叩きのめしてやる。」と豪語していたが、安生に不意打ちを食らってからは言っていない。(安生は「反撃してこないのに驚いた」とコメントしている)なお、この事件の直後はしばらく知人の家で過ごし、表舞台には顔を出さなかったため、「更なる襲撃を恐れたのではないか」という噂が飛び交った。(当時、前田と確執があった選手が多数いた他、業界では安生に対し同情的なコメントが多かった)
米国でリングスで渉外マネジメントを任されていた「女性(一説に前田の恋人とされる)」を殴打し逮捕されるという報道が東京スポーツの誌面を飾ったが、これは虚偽の報道である事が後に判明。なお、この誤報事件以前から、東京スポーツと前田の仲は不仲を極めている。
新日本プロレス時代、道場に入門にやって来た山崎一夫に同伴していた山崎の姉をナンパしたが、木村健吾に止められた。
かつて、石田えりら数人の女優らとの浮名を流した過去がある。現在は「交際するなら普通の人がいい」とか。
天龍源一郎と全日本プロレスの武藤敬司の二人は前田がプロレスラーとして認めている。無我ワールド・プロレスリングの西村修に対しても、前田の師であるカール・ゴッチの世話を続けていることに大変感謝している。
新人時代の坂田亘を控え室で制裁した映像が存在している。この映像は、ネット上で「弟子をカメラの前でリンチした動画」として、ある恣意的な意味も込められて出回っている。但し、これは「次の試合がショッぱかったら…」と前田が前大会当時に解説席にて「公約」していたもので、実際の放送時にもカットされずに放映された。苦労してその日の大会開催へと漕ぎつけたファン組織に対しての申し訳無さからの行動とも言われている。
2006年に結婚、2007年3月3日に自身のブログで発表。

前田日明 入場テーマ曲
KATANA
ダンバインとぶ
キャプチュード(最も知られる代表的な入場テーマ)"Captured" by Camel(from album "Nude")
JUST A HERO

前田日明 著書
『格闘王への挑戦』講談社、1988年、ISBN 4-06-204081-6
『パワー・オブ・ドリーム』角川書店、1988年、ISBN 4-04-173701-X
『誰のために生きるか』PHP研究所、1992年、ISBN 4-569-53635-2
『最強の自分をつくる』PHP研究所、1994年、ISBN 4-569-54202-6
『真格闘技伝説 RINGS』ピンポイント、1994年、ISBN 4-87031-189-5
『無冠』集英社、1998年、ISBN 408780285X
その他、関連図書多数。

wikipedia より

前田日明

週刊ゴング

週刊ゴング

週刊ゴング(しゅうかん-)は、日本スポーツ出版社が発行する週刊のプロレス専門雑誌。一般的に「ゴング」「週ゴン」と呼ばれる。毎週水曜日に発行される。


週刊ゴング 概要
ベースボール・マガジン社でプロレス&ボクシングの編集長をしていた竹内宏介を日本スポーツがヘッドハンティングし、竹内を編集長・総責任者として1968年に月刊誌「月刊ゴング」として創刊。当初はプロレスだけでなくボクシングも扱った格闘技専門誌だった。1982年にボクシング部門を月刊ワールドボクシングとして分割、プロレス専門誌化される。1984年に週刊化され現在の誌名に変更。

最大の特徴は特定のレスラーへの傾倒ぶりで、特に1999年に「GK」こと金沢克彦が編集長(現在は退社しフリーライター)に就任して以降、長州力贔屓が顕著に現れる。基本的に長州が所属している団体がメインで扱われ、他の団体で大興行が行われたり大きな事件が起こった時も長州関連の事柄が表紙で扱われるほど。新日本プロレスに迎合した内容が多かった事から「新日広報誌」と揶揄される事もある(同様のケースが元週刊プロレス編集者の安田拡了にも見られるが、こちらは編集長では無い為に誌面構成全体が購買者のニーズからかけ離れたものになる事はない)。ライバルの週プロ編集長がターザン山本だった時代に週プロが各方面で取材拒否を受けていた影響から売上げで優勢に立っていたが、現在は親密な関係にある新日本の弱体化からやや劣勢である。劣勢のあまり前出のライバル誌元編集長ターザン山本氏に対談や連載を持たせるなど、今までの歴史を否定する支離滅裂な行動をすることも多く、そのためかゴングの歴史の中で最も中立的な立場にいた小佐野景浩が編集長だった頃の時代を懐かしむ読者も多い(小佐野もジャイアント馬場に可愛がられ、また天龍源一郎の番記者でもあり、三沢光晴とは親友の間柄であったが、文面に於いては特別全日本プロレスを贔屓することもなく、中立を貫き、それは同社を退社した現在も変わらない。現在のプロレスライターとしては最も信用の高い人物とも言える)。

上記の様に新日本に傾倒した記事を取り上げていたものの、他団体へのあからさまなバッシングは行わなかった為、取材拒否等を受ける事もなく今に至っているが、かつて週刊プロレス(実質的にはベースボール・マガジン社)が主催したプロレス興行『夢の懸け橋』に関しては「プロレスマスコミが興行を行うのはどうしたものか?」と批判し、取材も一切行わなかった。しかしながら2006年になって女子プロレス興行「レディゴン祭り」、インディー団体を集めたインディーサミットを開催、過去の姿勢はどこへ行ったのかと批判する読者もいる(ちなみにクラッシュギャルズブームの最中、月刊(当時)ゴングは女子プロレスは取り扱わないというポリシーを貫いていた。その後、紙面刷新とともに取り上げるようになった)。

出会い系サイトなどのエロ系広告やヤミ金融の広告が増えてきている点も、他のプロレス雑誌とは異なるゴングの特徴である(プロレス専門紙ファイトにも同じ特徴があったが、こちらは2006年に廃刊した)。

2007年2月、代表取締役社長の前田大作容疑者がコンピューター関連機器会社「アドテックス」(東京都港区)の民事再生法違反事件で逮捕された事に関連し出版の継続を断念、3月7日発売の1167号を持って廃刊となると一部マスコミが報じネット上で話題となったが、3月3日付け公式サイトにて「多少の部数なり、コストなり下げて発行は致しますが、廃刊という事実はございません。」と発表された。



週刊ゴング

坂谷真史

坂谷選手

経歴・人物
1999年11月11日、三国競艇場でデビュー。2003年1月、新鋭王座決定戦にてG1初出場、2003年3月、総理大臣杯競走にてSG初出場を果たした。2007年1月に唐津競艇場で行われたG1全日本王者決定戦で優勝戦に出場し3着になるなど、福井支部期待の若手選手であった。妻の佐々木裕美も競艇選手。好きな競艇場は江戸川競艇場であった。


坂谷真史 訃報
2007年2月26日、GⅠ第50回住之江周年記念競走6日目(最終日)3R一般戦において、5号艇6コースからの出走。2周1マーク、2号艇福島有樹との激しい2番手争いで差しハンドルにより抜きを試みた際、6号艇山田豊との接触により転覆。事故艇を回避していた3号艇中澤和志の位置に浮上し巻き込まれた。競走後は大阪市立総合医療センターへ搬送され、集中治療室で治療を受けたが、12時54分に死亡が確認された。享年26歳。



坂谷真史

ダルビッシュ

ダルビッシュ 有(だるびっしゅ[Darvish] ゆう、

概要
母親は日本人、父親はイラン人である。父親は元サッカー選手。そのため現在はイランと日本の2つの国籍を持っているが、22歳までにいずれかの国籍を選択しなければならないとしている国籍法の規定により、近く日本国籍を選択すると言われている。「有」は、イスラム教のカリフ「アリー・イブン=アビー=ターリブ」に因む。弟が二人いる。エイベックスとマネジメント契約をしている。

高い実力とスター性を持ち、日本球界に対する拘りが強くメジャーリーグに興味が無く、日本に留まる事を公言。日本を代表する投手として期待される。好きな言葉と決め台詞は「いつか必ず道は開ける。俺は、やるぜ!」である。

2006年までは変化球に頼って小手先でかわすピッチングが主体だったが、WBC日本代表壮行試合で肩を痛める。それを悪化させてしまうのが得意の変化球・シンカーであった。これをきっかけにシンカーを封印したダルビッシュは試行錯誤を繰り返しながら06年シーズン後半から下記の様なピッチングに切り替えた。するとそれが功を奏し、現在にいたる。

2006年からは、主にスライダー、高速スライダーを筆頭にカーブ、ツーシーム、フォーク、カットボール、シュート、チェンジアップなどの多彩な変化球を使ってカウントを稼ぎ、追い込んだら最高球速153km/hのストレートをウイニングショットとして使い、打者を捻じ伏せるピッチングに切り替えた。

最高球速推移(km/h):中学3年144、高校1年147、高校2年149、高校3年150、プロ1年149、プロ2年153





ダルビッシュ プロフィール
身長・体重:195cm・85kg
投打:右投右打
血液型:A型
出身地:大阪府羽曳野市
球歴:東北高等学校-北海道日本ハムファイターズ(2004年ドラフト1巡)
年俸:7200万円+出来高1300万円(推定)




ダルビッシュ 来歴

ダルビッシュ ドラフト指名前・生い立ち~高校野球まで
小学校2年生から野球を始め、常に同世代の野球少年たちを牽引する存在として歩んできた。羽曳野ボーイズで全国大会ベスト8、世界大会3位という成績を収め、鳴り物入りで東北高等学校に入学する。

入学後は投手として活躍。3年生の時で、投げない時には外野手を守った。1年生の時から高井雄平(東京ヤクルトスワローズ)の後をついでエースに。195cmの長身から繰り出す直球は当時から150km/h近くを計測。他、計7種類の変化球(シンカー、スライダー、カーブ、フォーク、シュート、チェンジアップ、ナックル)と抜群のコントロールを駆使して、2年春に甲子園初出場、2年夏には同学年の真壁賢守と共に投げぬき、見事に準優勝を勝ち取る。その後3年春、3年夏と4季にわたり甲子園に出場。3年春の熊本県立熊本工業高等学校戦ではノーヒットノーランを達成する。センバツでのノーヒットノーランは史上12度目で(継投を除く)、金沢高校の中野真博(東芝)以来10年ぶりの快挙だった。ノーヒットノーランは夏の大会で1998年決勝の松坂大輔(横浜高校)まで23度記録されているが、春夏通算35度で東北地方のチームがマークしたのは初めて。最後の夏の甲子園では、3回戦で千葉経済大学付属高等学校に敗れた。その試合の最終打者となって見逃し三振に倒れ、試合終了。優勝は果たせなかったものの、この活躍により、高校No.1ピッチャーとしての地位を確立する。また、強気な発言とクールな顔立ちから、甲子園では既に女性ファンの注目を集めていた。

2004年ドラフト高校生では、涌井秀章(西武ライオンズ)・佐藤剛士(広島東洋カープ)と並ぶ目玉投手。メジャーリーグの球団も獲得の意思を示す(父親の意向が強かった)が、本人は日本球界を希望し、秋季国民体育大会終了後にプロ志望届を提出し受理された。

高校通算成績:登板67、投球回332 1/3、奪三振375、防御率1.10

甲子園通算成績:登板12、完投7、完封4、投球回92、奪三振87、四死球27、自責点15、7勝3敗、防御率1.47

センバツ:登板4、完投2、完封1、投球回30、奪三振29、四死球 7、自責点9、2勝1敗、防御率2.70
選手権 :登板8、完投5、完封3、投球回62、奪三振58、四死球20、自責点6、5勝2敗、防御率0.87




ダルビッシュ 2004年ドラフト
2004年11月17日、ドラフト会議において日本ハムがダルビッシュを1位指名。他にダルビッシュを指名した球団は無かった。結果としてこの時点で日本ハムが単独で交渉権を獲得。「日本ハム・ダルビッシュ有」が誕生することがほぼ確実となった。そして12月17日、父親同席のもと、2004年ドラフト指名選手の中で最後に仮契約を結んだ。契約内容は契約金1億円、年俸1500万円+出来高5000万円(推定)という、最高評価を受けている。

キャンプ開幕当初は、自主トレーニング中に痛めた右ひざの関節炎の影響もあり、2軍でのスタートとなったが、キャンプ会場の東風平町にはスーパールーキーの雄姿を見ようとファンがごった返す盛況となった。

しかし、2月20日、2月22日発売の写真週刊誌に載せられた写真で、キャンプ休日に那覇市内のパチンコ店で未成年にもかかわらず喫煙していたことが判明(本来は未成年者であるために名前を出すか迷ったそうだが、既に1人のプロであるとして球団と学校側の判断により実名が公開された)。「ワルビッシュ」と揶揄され、各種メディアに取り扱われた。球団は同日、本人に対して、2月21日に鎌ケ谷市の球団寮へ送還・無期限謹慎と謹慎中のボランティア活動を命じる処分を言い渡した(2月28日の12チーム合同新人研修会は出席)。また、これを受けて東北高校は2月22日に本人を停学処分とした(3月1日の卒業式は停学処分期間中でまだ十分でないとして参加させず。3月8日、停学解除を以って他の生徒より1週間遅れで卒業)。ダルビッシュはそれ以前(2004年9月)にも喫煙している写真が週刊誌に掲載され、高野連より厳重注意処分を受けたことがあった。





ダルビッシュ プロ入り後

ダルビッシュ 2005年(1年目)
2005年6月15日、広島東洋カープ戦(セ・パ交流戦、札幌ドーム)でプロ初登板初先発し、9回途中まで2失点の好投で高卒ルーキーとしては松坂大輔(西武)以来6年振り12人目の初登板初勝利を挙げる。

プロ2戦目、6月27日、西武ライオンズ戦でその松坂と投げ合い、打線の援護を受け松坂に投げ勝ち、史上4人目の初登板から2連勝を飾った。

7月30日、釧路市民球場でのオリックス・バファローズ戦に先発。21歳年上の吉井理人と投げあったが7回3失点でプロ初黒星を喫した。8月19日、スカイマークスタジアムにおいて吉井と再度投げあい、この時は6回2失点で勝利投手となった。

9月18日、東北楽天ゴールデンイーグルス戦の一場靖弘との問題児対決(本人が命名)で2安打プロ初完封勝利。高卒ルーキーの完封勝利は1999年の松坂大輔(西武)以来、6年ぶり。ドラフト制後(1966年以降)は14人目で、日本ハムでは1984年6月30日の津野浩以来。

9月24日、オリックス戦で8安打を浴びながら要所を締め7回1失点に抑え日本ハムとしては球団初の高卒ルーキー5勝目を挙げた。前身の東映時代からは1966年の森安敏明(11勝)以来、39年ぶりの快挙。

最終的に14試合に登板し5勝5敗、防御率3.53。黄金ルーキーの意地を見せた。





ダルビッシュ 2006年(2年目)
2006年4月6日、福岡ソフトバンクホークス戦(東京ドーム)でシーズン2度目の先発。シーズン一番乗りの完封勝利投手となり、シーズン初勝利を挙げた(同日、オリックスのルーキー平野佳寿も千葉ロッテマリーンズ戦で完封勝利を挙げたが、それよりも約9分前にダルビッシュが完封勝利を挙げた)。

5月18日、阪神タイガース戦(甲子園)の5回表にレフト前にプロ初安打を放った。試合前に先輩の新庄剛志から打撃用の手袋をもらい、試合後ダルビッシュは「読み勝ちです。新庄さんのおかげで打てました」と話した。

5月30日、読売ジャイアンツ戦(セ・パ交流戦、札幌ドーム)で同年シーズン最多となる142球を投げ6安打2失点で完投勝利。10代投手の巨人戦完投勝利は、1990年7月14日の川崎憲次郎(当時ヤクルトスワローズ)以来16年ぶり。

6月6日、阪神タイガース戦(札幌ドーム)では毎回三振を奪い、プロ入り初となる二桁奪三振(計12奪三振)で完封勝利する。初回先頭バッターに早々四球を与えるも、その後は6回2死までランナーを1人も出さず、7回1死までノーヒットピッチング、136球を投げ被安打2、四死球1とプロ入りしてから一番良い内容だった。なお、毎回奪三振は1999年の岩本勉以来日本ハムでは8人目、前身の東映も含めると10人目の記録。10代投手の毎回奪三振は1999年9月2日の松坂大輔(18歳11ヶ月)(西武)以来7年ぶり8人、9度目の記録。球団としては東映時代の1962年・尾崎行雄(17歳6ヶ月)、1967年・森安敏明(19歳4ヶ月)に次ぎ3人目、39年ぶりの記録。

9月2日、西武ライオンズ戦に先発。同期入団の涌井秀章との初対決となったが、6回途中3失点ながらも打線の援護とリリーフ陣の奮闘で、自身初の2桁勝利を挙げた。

9月27日、福岡ソフトバンクホークス戦(札幌ドーム)では6回からプロ入り後初のリリーフ登板。先頭打者にヒットを打たれたがその後2イニングを完璧に抑え、シーズン中の多彩な変化球を主体としたスタイルとはまた違い、150km/hのストレートを中心に据えた本格派投手の一面も見せた。

10月11日、プレーオフ第2ステージ対福岡ソフトバンクホークス戦(札幌ドーム)に先発、初回に1点を取られるが(当時)自己最速の151km/hを記録するなど9回138球11奪三振で完投勝利を挙げた。プレーオフでの完投勝利は同年10月7日の松坂大輔に続いて史上2人目。この勝利で25年ぶりのリーグ優勝に王手をかけた。

中日ドラゴンズとの日本シリーズで第1戦と第5戦に登板した。10月21日の第1戦では2回以降、逃げのピッチングを見せるなどで精彩を欠き、チームも敗れてしまい敗戦投手となってしまった。しかし、10月26日の第5戦ではレギュラーシーズンと同等かそれ以上の気迫ある投球がよみがえり、自己最速の153km/hを記録するなど、中日を7回1/3、106球、失点1に抑え、勝利投手となり、この勝利で北海道日本ハムは前身の東映以来44年ぶり2度目の日本一を決めた。20歳以下の投手(20歳2ヶ月のダルビッシュ)がシリーズで勝ったのは1968年の堀内恒夫(巨人・20歳9ヶ月)以来。1956年の稲尾和久(西鉄)が19歳4ヶ月で勝利投手になったのに次ぎ、2番目に若い日本一決定試合の勝利投手となった。

11月12日、アジアシリーズ決勝・台湾代表La Newベアーズ戦(東京ドーム)に先発し、スライダーを軸に8回途中まで投げ1安打10奪三振で無失点、大きく飛躍した今季の集大成にふさわしい投球で勝利投手となり、シリーズのMVPも獲得し、一気にアジアの頂点も極めた。

5月30日対読売ジャイアンツ4回戦(札幌ドーム)から10連勝(継続中)。日本ハム投手の2桁連勝は1962年尾崎行雄10連勝、1981年間柴茂有15連勝、1982年工藤幹夫14連勝、1987年西崎幸広10連勝、以来19年ぶり5人目。高卒2年目以内の2桁連勝は、1966年に高卒1年目の堀内恒夫(巨人)が13連勝して以来、40年ぶり5人目の記録。球団記録としては東映時代の1962年・尾崎行雄以来44年ぶりの快挙。10月11日のプレーオフの勝利を含めれば11連勝(参考記録)。

最終的に25試合に登板し12勝5敗、防御率2.89(ポストシーズンは4試合に登板し3勝1敗、防御率1.53)。高卒2年目にして早くも飛躍の年となり、ファイターズも含め、日本のエースへの階段を昇り始めた。





ダルビッシュ エピソード
父ファルサは有に何をさせようかと迷っていた。3歳のころ枕元に野球とバスケットとサッカーのボールを並べた。有が最初に手に取ったのが野球のボールだった。それが野球人生の始まりだった。
父ファルサの実家は事業を手広く扱っている名家であり、ファルサ本人は野球人口が1,000人未満とされるイラン野球連盟の顧問に就任、現職。なお父と母は留学先の米国で知り合い結婚、学業終了後日本を生活拠点としたのは当時、イラン・イラク戦争やイラン革命が続発したイランと治安・経済状況が良好だった日本と比較し後者を選んだほうが賢明との判断による。
父ファルサが共同経営するジャイレックス(兵庫県・芦屋市)が「ダルビッシュ」の名称の商標登録を出願、2004年8月に特許庁に受理されている。
2005年1月30日、地元大阪のホテルで行われた「励ます会」に出席。その席で中学時代に所属したボーイズリーグ「オール羽曳野」にマイクロバス購入のため200万円を寄付した。
2006年2月24日のWBC日本代表壮行試合(ヤフードーム)で、12球団選抜の先発投手を務めたのがダルビッシュだったが、右肩痛発生で2回途中7失点で降板。シーズンへ向けて暗雲が立ち込めたが、ダルビッシュ自身は「あれをきっかけに今季は肩に負担のかかるシンカーを封印し、その代わりにカットボールを増やした。これが効果的だった。肩のケアに気を使うようにもなったし、肩のトレーニングを増やしたのも、投球に良い影響を与えていると思う」と話した。
2006年7月7日の西武ライオンズ戦(インボイスドーム)では先発を任されたが、ビジター用のユニフォームを札幌ドームのロッカーに置き忘れ、八木智哉のユニフォームを借りて登板した。ダルビッシュはこの失態に動じることなく、7回1失点の好投でチームを勝利に導いた。この日の日本ハムは前身の東映フライヤーズが1961年9月に達成して以来のチーム11連勝(球団タイ記録)がかかった試合だった。ちなみにそのとき本人は「これで負けたら最悪だ」とコメントしている。その1週間後、7月15日の福岡ソフトバンクホークス戦(ヤフードーム)では半袖アンダーシャツを宿舎に忘れてしまい、長袖シャツで登板した。この試合でもダルビッシュは7回無失点と好投した。
ダルビッシュが投げるナックルボールは名前にちなみセファット・ナックルと呼ばれていた。
同期入団の涌井秀章(西武)とは、一緒に食事をする、携帯メールを送るなど仲が良い。また、1期下の炭谷銀仁朗や涌井と帯同し、3人で行動していることも多い。ダルビッシュは涌井に強いライバル心をもち、シーズン中も勝ち数がどちらが上かなどを気にするが、涌井の方はダルビッシュをライバルとは思わず親友だと感じていると述べている。
2006年(2年目)のシーズンは屋外球場との相性が悪かった。この年に屋外で先発した7試合の成績は1勝2敗、防御率7.12。5回もたずにKOされた6試合中、5試合が屋外だった。その反面、ドーム球場では18試合で11勝3敗、防御率1.81(ポストシーズンも含めれば22試合で14勝4敗、防御率1.76)。ちなみにプロ2年間の時点で屋外球場で勝ち星を取れた球場は阪神甲子園球場とスカイマークスタジアムの2球場のみ。兵庫県の屋外球場とは相性が良かった模様。
2006年夏、東北高校時代から熱中したゲームソフト実況パワフルプロ野球の関係者に会い、キャラクター設定を「直球150km/h以上にして、すべての変化球を加えてください」と頼んだ。協議の結果、まったく打てなくなるという結論で不採用になった。




ダルビッシュ 成績

ダルビッシュ レギュラーシーズン
年度 登板 先発 完投 完封 投球回 勝 敗 被安 被本 与四 与死 奪三 失点 自責 被打率 防御率 年俸(円)
05年 14 14 2 1 94 1/3 5 5 97 7 48 3 52 37 37 .277 3.53 1500万
06年 25 24 3 2 149 2/3 12 5 128 12 64 6 115 55 48 .237 2.89 3000万
07年 7200万
通算 39 38 5 3 244 17 10 225 19 112 9 167 92 85 .253 3.14 11700万

一軍初登板:2005年6月15日、対広島東洋5回戦(セ・パ交流戦、札幌ドーム)(先発)
一軍初奪三振:同上(打者:グレッグ・ラロッカ)
一軍初勝利:同上
一軍初完投:2005年8月6日、対西武13回戦(札幌ドーム)
一軍初完封:2005年9月18日、対東北楽天20回戦(最終戦)(札幌ドーム)
一軍初二桁奪三振(計12奪三振):2006年6月6日、対阪神3回戦(セ・パ交流戦、札幌ドーム)
一軍初毎回奪三振:同上
一軍初リリーフ:2006年9月27日、対福岡ソフトバンク20回戦(最終戦)(札幌ドーム)




ダルビッシュ ポストシーズン
プレーオフ

年度 対戦チーム 登板 先発 完投 完封 投球回 勝 敗 被安 被本 与四 与死 奪三 失点 自責 防御率
06年 ソフトバンク 1 1 1 0 9 1 0 7 0 3 2 11 1 1 1.00

日本シリーズ

年度 対戦チーム 登板 先発 完投 完封 投球回 勝 敗 被安 被本 与四 与死 奪三 失点 自責 防御率
06年 中日 2 2 0 0 13 1/3 1 1 13 0 7 1 12 4 4 2.70

アジアシリーズ

年度 対戦チーム 登板 先発 完投 完封 投球回 勝 敗 被安 被本 与四 与死 奪三 失点 自責 防御率
06年 La New 1 1 0 0 7 0/3 1 0 1 0 2 0 10 0 0 0.00





ダルビッシュ オールスター
フレッシュオールスターゲーム

年度 球場 登板 先発 投球回 勝利 敗戦 被安 被本 与四 与死 奪三振 失点 自責 防御率
05年 宮崎 1 1 2 0 0 1 0 0 0 2 0 0 0.00

パ・リーグオールスター東西対抗

年度 球場 登板 先発 投球回 勝利 敗戦 被安 被本 与四 与死 奪三振 失点 自責 防御率
06年 草薙 1 1 3 0 0 5 0 0 0 2 3 1 3.00





ダルビッシュ タイトル
日本シリーズ優秀選手賞
1回 (2006年)
アジアシリーズMVP
1回 (2006年)
フレッシュオールスターゲーム優秀選手賞
1回 (2005年)




ダルビッシュ スポーツに関する賞
報知プロスポーツ大賞
1回 (2006年)


ダルビッシュ

中村俊輔

セルティックMF中村俊輔(28)が、ACミラン戦で「ストライカー」になる。17日のアバディーン戦で、中村は「10枚の壁」を破るFK弾を決め、2-1の勝利の原動力になった。だが、チームは負傷者が続出して「FW欠乏症」に陥った。20日の欧州チャンピオンズリーグ(CL)ACミラン戦では、中村の得点力がさらに求められることになった。

 中村が「FW欠乏症」のセルティックを救う。アバディーン戦でFWのVOヘッセリンク、ビーティーが太もも裏を痛めて途中交代。ミラーは試合中、ベンチ脇で副審と激突して額に裂傷を負った。さらにジュラフスキ、ライオルダンは既に戦列離脱しており、ミラン戦を前に主力級5人が負傷という事態に陥った。



中村俊輔
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中村 俊輔
名前
愛称 シュンスケ、ナカ
カタカナ ナカムラ シュンスケ
ラテン文字表記 NAKAMURA Shunsuke
基本情報
国籍 日本
誕生日 1978年6月24日
出身地 神奈川県横浜市戸塚区
身長 178cm
体重 70kg
血液型 O型
選手情報
在籍チーム セルティック
ポジション MF
背番号 25
利き足 左
代表歴
キャップ 63
得点/失点 16(歴代10位)

■Template(■ノート ■解説)■サッカー選手pj
中村 俊輔(なかむら しゅんすけ、1978年6月24日 - )は、神奈川県横浜市出身でスコティッシュ・プレミアリーグ、セルティック所属のサッカー選手。ポジションはミッドフィルダー。

身長178cm。体重70kg。血液型はO型。

略歴
兄の影響を受けて横浜市立深谷台小学校入学と同時に深園FCに入団、サッカーを始める。市立深谷中学時代、日産(現横浜F・マリノス)のジュニアユースに所属し、全国優勝に貢献するなどエースとして活躍するが、背が小さい事でユースへの昇格が出来ず、桐光学園に進学しサッカー部に所属することなる(同級生には川崎フロンターレの佐原秀樹がいる)高校時代は練習に明け暮れ、現在の彼の武器であるキックの精度などを磨いた。高校2年では全国高校サッカー選手権で活躍、脚光を浴びた。高校3年では山本昌邦率いるU-20日本代表に、高校生としてただ一人召集されてアジアユースに出場。またこの年の全国高校サッカー選手権では準優勝を収めた。

1997年、横浜マリノスに入団。徐々に実力を発揮しクラブの主力選手に成長。同年のワールドユースに出場し、1998年初頭にはA代表合宿に初参加。その後U-23代表に招集され、2000年のシドニーオリンピックに主力として出場し、アメリカ戦でアシストを決めるなどベスト8進出に大きく貢献。さらに同年、A代表に招集され、アジアカップでは左サイドで存在感を示し、日本代表選手として定着した。 JリーグでもMVPを受賞する活躍を見せた。

2002年5月、日韓W杯直前の親善試合では直接フリーキックで得点をあげる活躍で、本大会メンバーへの召集が有力視されていたが、代表合宿で痛めていた足首のケガが長引いたことや、当時の日本代表監督であったトルシエの選考基準に合致しなかったことなどで落選した。(後にトルシエは、俊輔のメンバー落ちを4月には決めていたとインタビューで語っていた)なお、クラブ側の売名行為と言われたレアル・マドリードへの移籍は立ち消えとなった。ケガが癒えた直後の同年7月、イタリアのセリエA のレッジーナに移籍し、3シーズンに渡ってクラブの1部残留に尽力した。2002年には、ワールドカップ落選の苦境を乗り越えセリエAで活躍する物語が、道徳の授業を受け持つ教職員の「参考書」で取り上げられた。

日韓W杯終了後、新しく代表監督に就任したジーコ監督がチームの柱に指名。絶対的信頼を与えられて試合に出場した。2003年コンフェデレーションズ杯のフランス戦では、ゴールキーパーのバルテズの逆を突くフリーキック(このゴールは俊輔が覚えている限り2番目の出来である。ちなみに一番は2000年の親善試合のスロバキア戦でのフリーキック、マンチェスターユナイテッド戦での決勝トーナメント進出のフリーキックは3番目の出来だったらしい。)、ジダンのマルセイユルーレットならぬ、横浜ルーレット(俊ターンとも言う)など、レキップ紙において『宝石のように輝いていた』、スティーブ・ペリマン曰く「彼の左足は豆の缶詰を開けることが出来るだろう」(よく曲がる)などと評された。

2004年2月、タレントの経験がある元ペットショップ店員と結婚。同年12月、第1子誕生。所属チームにてレギュラー選手とは言えない中、2005年7月、数あるオファーの中から、本命と言われたスペインのクラブではなく、セリエAから見れば事実上の都落ちであるスコティッシュ・プレミアリーグの強豪セルティックへ移籍。移籍初年度からリーグ優勝と国内カップ戦優勝の2冠を獲得した。

2006年4月、フットボールスクール『Shunsuke Park Soccer School』を出身地横浜に開校。

同年6月、ドイツW杯出場を果たす。グループリーグ第1戦のオーストラリア戦で、自身のワールドカップ本大会初得点をあげる。続くグループリーグ第2戦のクロアチア戦、第3戦のブラジル戦では、精彩を欠き非難の対象になってしまった。チームは2敗1分で決勝トーナメント進出は成らなかった。 またドイツワールドカップ期間中、スペイン移籍かセルティック残留かとその去就にも注目されたが、6月14日、2006-07シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ出場権を得ているセルティックに残留することを選んだ。

同年9月、2006-07シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ(以下CL)出場を果たす。グループリーグ第1戦、オールドトラフォードで開催されたマンチェスター・ユナイテッド戦では、フリーキックで日本人初となる得点を挙げる(前身のチャンピオンズカップでは奥寺康彦が得点している)も3-2で敗れた。

同年11月のCL・対マンチェスター・ユナイテッド戦では、決勝点となる個人通算2得点目のフリーキックを決めセルティックは現行のチャンピオンズリーグとなって初、また日本人選手としても初のチャンピオンズリーグ決勝トーナメント進出が決定した。


中村俊輔 プレイスタイル
 長短のパスを交換しながら攻撃を組み立てることを好み、広い視野と高い戦術眼そして左足の正確なボールコントロールで決定的なチャンスを作り出すことができるゲームメーカー的な選手である。プレースキックの名手であり、鋭く曲げて直接ゴールを狙うこともピンポイントのキック精度でゴールをアシストすることも得意とする。走るスピードや競り合いの強さは弱いが、運動量の多い選手でボールを受けるため広く動き、柔軟にポジションチェンジもおこなう。突破力も非凡で切り返しを織り交ぜた緩急のあるドリブルを得意とする。守備面ではカバーリングやマーキングなどで長い距離を走り守備意識は高いが守備は不得意である。イタリアでは所属するレッジーナにおけるポジションの問題や度重なる怪我などで挫折を味わったこともあったが、監督交代を境にして監督・チームメイトからの信頼を得始め、イタリアでも時折良いプレーを見せた。現在はゴードン・ストラカン監督の全幅の信頼の下、そのパスセンスは現地サポーターの心をしっかり掴んでいる。ドイツワールドカップ後、オシム監督が新たに日本の代表監督に就任してからか、そのプレースタイルを転換しつつあり、前に前に行く意識が強くなった。その後、スコットランドでのリーグ戦で俊輔自身初のハットトリックも達成した。しかし、まだ、90分フルに走れる体力はなく、そのため試合が終わった後の筋トレ、体力トレーニングは欠かせない。また、上述のとおり守備が弱く、オシム監督は中村のウィークポイントに上げている(ちなみにジーコ監督と違い、海外組優遇時代は終わり、うまい選手は中村の他にもJリーグにもいっぱいいて、例えば中村憲剛、小野伸二などを挙げ、中村俊輔を競わせようとしている。しかしジーコ時代、特に中村俊輔が優遇されていた時代はもう終わったのである)。でも、スコットランドリーグでの中村に対しての厳しいマークを中村は体でぶつかっていくのではなく(まともにいったら吹っ飛ばされそうになるほど体格の差がある)、相手のマークを交わしたり、緩急付けた動きをして対応することによって、体格差をカバーしている。また、守備も緩急を付けた動きで体格差をカバーしている。しかし、UEFAチャンピオンズリーグのホームとアウェーのマンチェスターユナイテッド戦は半分以上は守備に費やす結果になり、また、スコットランドでのリーグ戦と違い、上述の守備もやらせてもらえず、ほとんどマークのクリスティアーノ・ロナウドを追いかけるために走り回っていたといってもよい。


中村俊輔 語録
「悔しいと思ったら、また強くなれると思う」(2002年W杯の代表メンバー落選後のコメント)
「いつか…、ワールドカップに出られなかったことが良かったと思えるくらい上手くなる」(同上)
「これからの俺を見てくれ」(同上)
「誰よりも練習する事。それが必ず自信になる」(世界にはなつシュート)
「目標を作らない、上へ上へ」 
「全てはプレーで見せればいい。それが、プロフットボーラーの使命である。」
「ジーダじゃなかったからね。」(05年コンフェデレーションズカップ・ブラジル戦でミドルシュートを決めた際)
「ヒーロー?年取ってくると、そういうのは気にしなくなってくる。余韻は(クールダウンする)ジムで終わる」
「ヒデさんすごい。」
「アシストじゃなくてゴールを決めたい。」

中村俊輔 代表歴
U-20日本代表
1996年 第30回AFCユース選手権韓国大会(ベスト4)
1997年 第9回FIFAワールドユースマレーシア大会(ベスト8)
U-23日本代表
2000年 第17回シドニーオリンピック(ベスト8)
サッカー日本代表
2000年 第12回アジアカップレバノン大会(優勝)
2003年 第6回コンフェデレーションズカップフランス大会(グループリーグ敗退)
2004年 第13回アジアカップ中国大会(優勝)
2005年 第7回コンフェデレーションズカップドイツ大会(グループリーグ敗退)
2006年 第18回ワールドカップドイツ大会(グループリーグ敗退)

中村俊輔 タイトル
1999年Jリーグベストイレブン
2000年JリーグMVP、ベストイレブン
2000年AFCアジアカップレバノン大会、同ベストイレブン
2003年FIFA コンフェデレーションズカップ、ブロンズシューズ
2004年AFCアジアカップ中国大会、同ベストイレブン、同MVP
2005-2006 スコティッシュプレミアリーグ
2005-2006 スコットランドリーグカップ

中村俊輔 出場記録
1997年3月8日 - Jリーグ初出場(ナビスコカップ予選リーグ)-ヴェルディ川崎戦(国立競技場)
1997年5月3日 - Jリーグ初ゴール(1stステージ第6節)-ベルマーレ平塚戦(三ツ沢競技場)
1998年11月14日 - ハットトリック達成(2ndステージ第17節)-ベルマーレ平塚戦(横浜国際競技場)
2000年2月13日 - A代表初出場(アジアカップ予選)-シンガポール戦(マカオ)
2000年2月16日 - A代表初ゴール(アジアカップ予選)-ブルネイ戦(マカオ)
2002年8月18日 - セリエA初出場、初ゴール(イタリア杯予選)-ターラント戦(ターラント)
2005年8月6日 - スコティッシュ・プレミアリーグ初出場(スコティッシュ・プレミアリーグ第2節)-ダンディー・ユナイテッド(セルティックパーク)
2005年8月28日 - スコティッシュ・プレミアリーグ初ゴール(スコティッシュ・プレミアリーグ第5節)-ダンファームリン(イースト・エンド・パーク)
2006年9月13日 - UEFAチャンピオンズリーグ初ゴール(グループリーグ第一戦) - マンチェスター・ユナイテッド戦(オールド・トラフォード)CL本戦における(92年のCL統合後)日本人の初ゴール。
2006年11月22日 - UEFAチャンピオンズリーグ(グループリーグ第5節) - マンチェスター・ユナイテッド戦(セルティック・パーク)CL本戦において、日本人通算3ゴール目(本人2ゴール目)をあげる。

中村俊輔 所属チーム
1985-1991 - 深園FC
1991-1994 - 日産FCジュニアユース
1994-1997 - 桐光学園高校
1997-2002.7 - 横浜マリノス/横浜F・マリノス
2002.8-2005.7 - レッジーナ(セリエA)
2005.8-現在 セルティック(スコティッシュ・プレミアリーグ)

中村俊輔 個人成績
年度 チーム リーグ NO. リーグ戦 ナビスコ杯 天皇杯 イタリア杯 リーグ杯 CL※ 計
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
1997 横浜 J1 25 27 5 3 0 1 0 - - - - - - 31 5
1998 横浜 J1 25 33 9 4 1 - - - - - - - - 37 10
1999 横浜 J1 10 26 7 4 0 3 1 - - - - - - 33 8
2000 横浜 J1 10 30 5 4 1 2 0 - - - - - - 36 6
2001 横浜 J1 10 24 3 6 1 1 0 - - - - - - 31 4
2002 横浜 J1 10 8 4 - - - - - - - - - - 8 4
2002-2003 レッジーナ セリエA 10 32 7 - - - - 4 1 - - - - 35 8
2003-2004 レッジーナ セリエA 10 16 2 - - - - 2 0 - - - - 18 2
2004-2005 レッジーナ セリエA 10 33 2 - - - - - - - - - - 33 2
2005-2006 セルティック S・プレミア※ 25 33 6 - - - - - - 2 0 - - 38 6
2006-2007 セルティック S・プレミア※ 25 - - - - - - - - - - 6 2 - -
J1通算 - - - 148 33 21 3 7 1 - - - - - - 176 37
セリエA通算 - - - 81 11 - - - - 6 1 - - - - 86 12
S・プレミア通算 - - - 33 6 - - - - - - - - - - - -

※S・プレミア=スコティッシュ・プレミア ※CL=UEFAチャンピオンズリーグ


中村俊輔 CM出演
adidas
『サッカー狂症候群 中村俊輔篇』(2002年)
『+10 中村俊輔+10 vs デルピエロ+10篇』(2006年) - アレッサンドロ・デル・ピエロとの共演
『JOSE+10』(2006年)
ファミリーマート
アダムス「リカルデント」(2003年)
大塚製薬「オロナミンC」(2005年)- 上戸彩との共演
コナミ
「ウイニングイレブン9」(2005年) - ジーコとの共演
「ウイニングイレブン10」(2006年)-ジーコとの共演
ヤマダ電機(2006年)
『For Your JUST篇』
『ヤマダに新戦力篇』
シュガーレディー(2006年) - 稲本潤一との共演
TOYOTA「トビラを開けよう」キャンペーン(2006年)
AIDEM「iのある仕事を」キャンペーン(2006年)

中村俊輔 書籍
2005年 Ciao!―中村俊輔イタリア日記 (ソニーマガジンズ、中村 俊輔)

中村俊輔 関連書籍
2000年 中村俊輔―世界へはなつシュート (旺文社、北条 正士)
2001年 シュンスケ!―中村俊輔ファンタジスタへの予感 (小学館)
2001年 天才レフティー中村俊輔 (ラインブックス、中村俊輔担当記者グループ)
2002年 中村俊輔 飛翔 (ラインブックス、中村俊輔担当記者グループ)
2002年 中村俊輔 リスタート (文藝春秋、佐藤 俊)
2003年 黄金のカルテット 中村俊輔物語 (汐文社、本郷 陽二)
2003年 海を渡ったヒーローたち―中村俊輔・稲本潤一・小野伸二・中田英寿 (汐文社、本郷 陽二)
2003年 『プライド』 中村俊輔 オフィシャルドキュメントブック (ソニー・マガジンズ、藤沼 正明)
2004年 中村俊輔 栄光への疾走 (鹿砦社、中村俊輔取材班)
2005年 SHUNSUKE 中村俊輔 イタリアの軌跡 (朝日新聞社、アルフレード・ペドゥッラ)
2006年 中村俊輔フォトブック 「NAKAMURA SHUNSUKE」 (ワニマガジン社、横内 禎久)

中村俊輔 DVD
SHUNSUKE
FANTASISTA Shunsuke Nakamura IN SCOTLAND GLASGOW
中村俊輔の“I Love Soccer”サッカー教室〈永久保存版〉
中村俊輔DVDバイオグラフィー 2002-2005
セルティック 2005 - 2006シーズン リーグチャンピオンへの軌跡




中村俊輔

キネシオテープ

キネシオを巻くとか貼るというのはどういうことでしょう

キネシオテープは張るだけの自然療法

「キネシオテーピング法」は、自然療法のひとつです。
伸縮性のあるテープを痛いところや凝っているところなどに貼って、人間の自然治癒力を促進させ、障害を和らげたり治したりします。
使用するテープは「キネシオテープ」と呼ばれ、一定の伸縮性と、体にフィットする粘着性があります。
このテープの伸縮率は筋肉(皮膚)のそれと同じ30~40%に設計されているので、別名「人工筋肉テープ」とも呼ばれます。


体に貼るだけだから、貼り方がとても大切です

処方は体に貼るだけですので、とても簡単です。それゆえに、貼り方が大きなポイントになります。
コツは、テープは伸ばさず、筋肉(皮膚)の方を伸ばして貼ることです。
テープを走らす方向は、筋肉の流れと同じ方向です。これさえ覚えておけばOK。
テープのサイズは色々あり、切り込みの入っているものもあるので、体のどの部分にでも使えます。幅広タイプにハサミを入れてもかまいません。
ちょっと慣れれば、誰にでも簡単に貼ることが出来ます。背中などの手がまわらない所でなければ、人の手を借りなくても一人で大丈夫です。

斎藤佑樹

チョコっと意外?佑ちゃん0個
 あれれ…、佑ちゃんのチョコレートは0個? 早大の練習に参加中の早実・斎藤佑樹投手(18)が14日、待望のバレンタインデーを迎えたが早大安部寮にはチョコレートの贈り物は届かなかった。この日は午前中に早実の授業に出席したが「早実の女の子にはもらわなかったです…っていうかもらってないです。登下校中もありません」と意外な事実を披露した。取材中に女性記者から1つ受け取ったが、予想外の静かなバレンタインだった。

 この日はあいにくの雨で、早大グラウンドに訪れたファンは多い日の10分の1にも満たないわずか11人。うち女性ファンは夫婦連れの3人だけだった。斎藤は「(チョコレートは)多ければ多いほどうれしいと思います」と男心を打ち明けたが、どこに消えたのか、連日グラウンドに詰め掛ける佑ちゃんファンの姿はなし。応武篤良監督(48)も「ちょっと意外でしたね」と苦笑いだった。
nikkansports.com

第88回全国高等学校野球選手権大会
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第88回全国高等学校野球選手権大会は、2006年8月6日~8月21日までの16日間にわたって甲子園球場で行われた全国高校野球選手権大会である。

早実・斎藤佑樹 脅威のスタミナ

大会記録
2者連続本塁打
大阪桐蔭 - 謝敷正吾(3年)、中田翔(2年)が横浜戦の8回に記録
早稲田実 - 船橋悠(3年)、斎藤佑樹(3年)が福井商戦の6回に記録
1イニング全員得点 清峰(光南戦の8回に記録)
9番打者の2試合連続本塁打 青森山田-野田雄大 =史上2回目
9回の1イニング8得点 帝京 =大会新記録
4点差からの逆転サヨナラ勝利 智弁和歌山 =大会新記録
個人1試合2本塁打
福井商 - 吉村圭司(3年)、福岡戦の1回裏と8回裏に記録
智弁和歌山 - 廣井亮介(3年)、八重山商工戦の5回表と9回表に記録
智弁和歌山 - 馬場一平(3年)、帝京戦の2回裏と4回裏に記録
チーム1試合5本塁打 智弁和歌山(馬場2、上羽、廣井、橋本)=大会新記録
1試合7本塁打 智弁和歌山 - 帝京(準々決勝)智弁和歌山5(馬場2、上羽、廣井、橋本)、帝京2(塩沢、沼田)=大会新記録
勝利投手、敗戦投手とも投球数1 智弁和歌山 - 帝京(準々決勝)智弁和歌山(松本)、帝京(杉谷)=史上初
1大会通算60本塁打=大会新記録
個人最多投球回数 早稲田実 - 斎藤佑樹(3年)69回=大会新記録


斎藤佑樹

東京マラソン

18日の東京マラソン、男子の有力選手が抱負
 東京マラソン(18日)に出場する男子の有力選手が15日、東京都内で記者会見し、アテネ五輪5位の油谷繁(中国電力)は「(今夏の)世界選手権に出場するのが第一目標。優勝して代表を決めたい」と意欲を示した。

 2時間9分30秒を切って日本人1位になると、大阪で開催される世界選手権の代表に決まる。東京都庁前から東京ビッグサイトまでの新コースについて、油谷とドーハ・アジア大会4位の入船敏(カネボウ)は「優勝すればタイムはついてくる」と手応えを話した。初マラソンの徳本一善(日清食品)は「先頭にどこまでついていけるか」と抱負を述べた。

 世界歴代2位の2時間4分56秒を誇るサミー・コリル(ケニア)は「ケニア選手にとっても世界選手権の選考レース。いい結果を出したい」と意気込んだ。〔共同〕
nikkei net

東京マラソン
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東京マラソン(とうきょうマラソン)は、2007年に第1回大会が行われる予定の、アジア最大規模(参加者3万人)を目指すマラソン大会。正式名称は「東京マラソン2007 (英文名:Tokyo Marathon 2007)」である。


概要
これまでの東京でのマラソン大会は、東京国際マラソン(読売・産経が隔年ごとに主催)と東京シティロードレース(東京新聞主催)の2つがあったが、それらを一つにまとめて市民参加型のマラソンをしようと2007年2月18日に第1回大会が行われる。主催は日本陸上競技連盟と東京都、共催(予定)は、フジテレビジョン、産経新聞社、読売新聞グループ本社、日本テレビ放送網(以上中継は隔年だが、中継担当でない年も共催には参加)、東京新聞。「東京マラソン」の名称は、日本陸上競技連盟によって商標登録(第4952187号)されている。


東京マラソン コース
東京都新宿区の東京都庁舎をスタートし、飯田橋、皇居、日比谷を通り、品川、銀座、日本橋、浅草寺雷門前などで折り返し、築地、有明の東京ビッグサイトがゴール(42.195km)。


東京都庁第一本庁舎(START)




皇居




品川駅




銀座





日本橋(実際に通過するのは茅場橋)




雷門




築地市場




東京ビッグサイト(GOAL)






東京マラソン スタート
(以下全て日本時間表記)

9:05 - 車いす
9:10 - マラソン(42.195kmおよび10km)

東京マラソン 制限時間
42.195km - 7時間
10km - 1時間40分

東京マラソン 参加ランナー受付

受付場所の東京ドーム(文京区)。大会当日のスタート地点は東京都庁(新宿区)。多数の一般参加の応募を受け、抽選となった。その結果、当選し、申し込みを完了した参加予定者も、下記のとおり開催の前々日か前日の指定時間に受付を完了しなければならず、大会当日の受付は一切ない。

受付時間
2月16日(金) - 10:00~20:00(大会前々日)
2月17日(土) - 10:00~20:00(大会前日)
受付場所
東京ドーム(文京区)

東京マラソン テレビ放映
東京国際マラソンに引き続きフジテレビ系(奇数年)、日本テレビ系(偶数年)がテレビ放送する。 第1回は9:00~11:40にフジテレビ系列全国ネットで放送される。


東京マラソン ネット・モバイル配信
今回、フジテレビは東京マラソンの全完走ランナー(7時間以内)のゴールシーンを インターネット動画配信を駆使して”録画中継”。 PCは10分刻みで順次公開、モバイルは2分刻み。(公開までに多少の時間がかかる) 無料配信。(モバイルはパケット使用料が必要)


東京マラソン 歴代優勝者
※優勝者の氏名・国籍・所属は当時のものである。

回 日付 氏名 国籍・所属 記録 備考
1 2007年2月18日


東京マラソン 特別協賛
東京メトロ

東京マラソン 協賛
スターツ/スターツグループ
アシックス
大塚製薬
セイコー
トヨタ
コナミスポーツ&ライフ
JTB
セブン-イレブン
東京ビッグサイト


東京マラソン

星野仙一

星野監督が日本ハム訪問、練習試合視察  野球日本代表の星野仙一監督が15日、代表コーチ陣とともに沖縄県国頭村での日本ハム―サムスン(韓国)の練習試合を視察、監督就任後、初めて試合を視察した。

 星野監督は昨年の日本一球団を「ここにはいい選手が多い。若い選手が伸びている」と評価。昨季新人王の八木の投球などを見守った。
スポーツ報知

星野仙一
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星野監督乱闘①

星野 仙一(ほしの せんいち、1947年1月22日 - )は、岡山県倉敷市出身のプロ野球選手・プロ野球監督、野球解説者。2007年1月、野球オリンピック日本代表監督に就任。任期は北京オリンピック後まで

来歴・人物
血液型はO。投打は右投右打。愛称は「仙さん」「仙ちゃん」「闘将」「燃える男」。あるいは単に「仙」とも呼ばれる(かつては、お仏壇屋のテレビコマーシャルにも出ていたので、親しみをこめて「お仙公」とも言われた)。

父・仙蔵は戦前、三菱航空機製作所(後の三菱重工水島)の工場長を務めていたが、仙一出生の三ヶ月前に脳腫瘍で死去。母・敏子(本名・とし)は仙蔵の縁で工場の寮母として働く傍ら、仙一と二人の姉を育てた。阪神タイガースの筒井壮は甥(筒井の実母が仙一の2番目の姉)にあたる。

現役時代は中日ドラゴンズで投手として活躍し、現役引退後は、NHKの野球解説者を経て、中日・阪神の監督を歴任。監督時代に中日で2回、阪神で1回のリーグ優勝を果たしたが、一度も日本一になれなかった。優勝3回で日本一なしは西本幸雄に次ぐ。また、現役時代にも2度リーグ優勝しているが、日本一経験はない。現在は阪神のシニアディレクターとして活躍しており、テレビ各局の野球中継にゲスト解説で招かれることもある。

アマ時代
高校時代は、強豪の岡山県立倉敷商業高等学校で甲子園出場を目指したが、高校3年生の夏、東中国大会の決勝戦(米子市営湊山球場)で、鳥取県の米子南高校に敗れて出場を逃す(当時は複数県からの1校代表制)。卒業後、明治大学政治経済学部に進学した。ヤクルトスワローズで活躍した松岡弘は、高校時代の後輩にあたる。また、県内の一年後輩には後の大洋ホエールズのエース・平松政次がおり、高校時代に直接対決したこともあるという。
明治大学では一年生から一軍メンバーとして活躍し、東京六大学リーグで通算23勝、ノーヒットノーラン1回という記録を残した。が、田淵幸一・山本浩司・富田勝ら「法大三羽ガラス」率いる法政大学に阻まれ、一度もリーグ優勝には届かなかった。読売ジャイアンツで活躍した高田繁は、大学の一年先輩にあたる。
大学時代は島岡吉郎監督を「オヤジ」「明治大学野球学部島岡学科出身」と慕い、その後の人生に大きな影響を受けた。当時の全共闘による校舎封鎖を実力で解除する為に、島岡の命を受けて野球部の同僚と共にバリケードへ殴り込んだというエピソードもある。

現役時代
1968年のドラフト会議で水原茂監督率いる中日ドラゴンズから1位で指名され、1969年入団。入団3年目の1971年に肘を痛めてから速球は影を潜めたが、かわりに変化球を駆使し、先発・リリーフとして活躍。板東英二の唄う『燃えよドラゴンズ!』(1974年版)で「♪星野仙一強気の勝負~」と唄われた、闘志をむき出しにする気合の投球で、中日投手陣のエースとして君臨した。与那嶺要監督時代の1974年には最多セーブのタイトルと沢村賞を獲得し、巨人のV10を阻むチーム20年ぶりの優勝に大きく貢献した。近藤貞雄監督時代の1982年、自身2度目のリーグ優勝を機に現役を引退。現役時代の通算成績は、146勝121敗34セーブ。その後は1983年から1986年までNHKの解説者を務めた。
ドラフト会議に際しては、巨人から事前に1位指名を約束されていた(正確には田淵幸一を1位指名できなかった場合に星野を1位指名するという約束だった)。が、巨人はこの約束を反故にして島野修を1位に指名(それを知った星野が「ホシとシマの間違いじゃないか」と言ったエピソードは有名である)。この出来事が、現役時代から指導者時代に至るまで一貫する打倒巨人のポリシーを形成させたと言われる。通算成績でも、長嶋茂雄・王貞治らが活躍したV9時代を含む巨人を相手に、35勝31敗と勝ち越しを記録。セ・リーグを代表する巨人キラーとしてその名を轟かせた(なお、対巨人戦30勝以上を記録する投手の中で勝ち越しているのは平松政次、川口和久と星野のみ。その中の最高勝率は星野である)。
現役時代から、先輩には「礼儀正しい」、後輩には「面倒見がいい」と人望が厚かった。当時は後輩から「怖い兄貴」という印象を持たれていたようである。KOされた後輩投手を怒鳴りつけた後、すぐ「気分転換して来い!」とポケットマネーを渡したという話や、優勝した時に自腹でクラブを一件貸し切りにしてチームメートに振舞った話、日本語も何もわからずその身一つで来日した郭源治を公私に渡って面倒を見続けていた話など、人間関係に関する逸話は数知れない。
昭和40年代の漫画・アニメ『巨人の星』にも、背番号22(入団当時、1970年まで)の星野が登場して名を残している。
1969年10月10日、巨人の金田正一投手は対中日戦で通算400勝を達成したが、その試合の敗戦投手である。
1975年9月10日の広島東洋カープ戦(広島市民球場)、本塁上のタッチプレーを巡り、捕手の新宅洋志と走者の三村敏之が激しく言い争った。普段温厚な三村が激怒したとあって広島ベンチから選手が飛び出し、やがて観客も入り乱れての大乱闘へと発展。この時、試合を観戦しに来ていた当時中学生の風見しんごが、この騒ぎに乗じて星野に砂をかけたという。後年風見が『ザ・ベストテン』に出演した時、スタジオから星野(当時中日監督)に生電話をかけてこの時の話をしたら、星野は「あのときのガキはお前だったのか」としっかり覚えていた。
珍プレーの魁ともいえる、宇野勝によるヘディング事件の時の投手としても知られる(1981年8月26日、対巨人戦(後楽園球場)、打者は山本功児)。宇野のエラーを見た星野は怒りのあまりグラブをマウンドに叩きつけたが、この星野の激怒がなかったら、このプレーもここまで有名にならなかった可能性がある。この時星野は、後輩の小松辰雄と「どちらが先に巨人を完封するか」と食事を賭けて競っていたらしい。この試合は宇野のエラーまで無得点に抑えていたが、エラーで点を奪われたため完封が消え、そのため星野は激怒したという。最終的にこの試合は、エラーで失った1点のみに抑えて完投勝利を飾っている。
引退試合となった1983年の阪急ブレーブスとのオープン戦に、先発として登板。先頭打者の福本豊にレフト前ヒットを打たれマウンドを去る。その際、マウンドへ花束を届けに行ったのは、親友である歌手の小田和正だった。
NHK解説者時代には、「抱かれたい男」NO.1に選ばれたことがある。人気が全国区になったのは現役時代ではなく、この解説者時代からである。

中日監督時代
1987年、前年のシーズン途中で休養した山内一弘の後任として中日監督に就任。ロッテオリオンズからの落合博満を獲得するなどの大規模なトレードを断行し、チームカラーを一新した結果、1988年に中日を6年ぶりのリーグ優勝に導いた。中日から生え抜きの監督としての優勝は、星野が初めてのことである。1991年限りで勇退し、高木守道へバトンタッチする。その後は、再びNHK解説者・日刊スポーツ評論家を務める。
NHK解説者時代の1994年、任期満了で退陣が噂されていた高木守道監督の後任として再就任を要請されるが、「高木さんがやったほうがいい」と固辞。しかし高木監督が1995年のシーズン途中で辞任し、1年間で監督が2回入れ替わる(高木→徳武定祐→島野育夫)などしてチーム成績が低迷してしまい、1996年に監督復帰。1997年にはナゴヤドームが完成するも、愛妻・扶沙子が開幕前に死去。チームも開幕から低迷し、高木監督時代の1992年以来5年ぶりとなる最下位に転落。しかし2年後の1999年、11年ぶりとなる自身2度目のリーグ優勝を果たす。2001年、4年ぶりにBクラスに転落。この年、山田久志投手コーチ兼ヘッドコーチにバトンタッチして監督を勇退した。
監督時代は、鉄拳制裁も辞さない島岡吉郎式の熱血指導を行っていた。怒号を響き渡らせながら選手を殴りつけるのは日常茶飯事で、時にはナゴヤ球場の扇風機やロッカーといった備品にも怒りをぶつけ、その様子はテレビ番組でも取り上げられたほどだった。これを一番受けたのは中村武志だと言われ、星野が若い時には顔が変形するほど殴られていたという。しかし監督生活で最も愛した選手も中村といわれ、中村もまた星野を師と仰いでおり、その師弟関係は深い。
鉄拳制裁を受けないようにするには、結婚すれば良いらしい(本人談)。選手の家族に無様な姿を見せないように配慮する、ということである。ただし阪神監督時代の2002年に、既婚者であった矢野輝弘をベンチ奥で殴ったことがある。
選手への恫喝・罵声は日常茶飯事であったが、叱り飛ばした選手に対して即座にフォローするのを決して怠らなかった。エラーなどミスをした選手にも、後に必ずそのミスを返上するチャンスを与えていた。また、選手や裏方の家族の誕生日に花束や指輪などのプレゼントを贈るなど、非常に細やかな心配りを見せることでも有名である。
しかし「失敗してもチャンスは与える」反面、「プロは結果を残さなければ去るべし」という冷徹なポリシーも持ち続けていた。1995年にドラフト1位で入団した金森隆浩が2年目に先発し、1イニング2本の満塁ホームランを打たれ10失点で降板したときは、「もう2度と俺の目の前に姿を見せるな!」と言い放ち、その後台湾にトレードに出した(ただし1年で中日に復帰)。また、負け試合で登板して7失点した入団2年目の山田貴志を、その年限りで解雇したこともある。
監督就任当初はよく乱闘を起こしていたため「暴れ星野」と呼ばれ、「プロ野球珍プレー・好プレー大賞」でも先頭を切ってベンチを飛び出す様子がよく映されていた。「乱闘のときベンチにいるやつは罰金だ。止める役割でもいいから全員グラウンドに出て来い!」と言ったとされる話はよく知られている。しかしグラウンドを離れたときは礼儀正しく人懐っこい性格だったため、敵チームや審判からの評判はむしろ非常に良いものだった。
試合に負けた時は悔しさをあらわにし、選手を煽ることもあった。2001年の阪神戦で八木裕選手に打たれて試合に敗れた時は「はちきに打たれた」、同年西武ライオンズから阪神に途中移籍した谷中真二に好投された時には「知らない奴に負けた」と発言している(八木のことは今でも「はちき」と呼んでいる。谷中については阪神監督就任の年のキャンプで「エースになれる逸材」と評価している)。
監督時代につけていた背番号77は、尊敬する監督の一人、川上哲治にあやかったものである。その采配は、熱血漢と言われる外見とは裏腹に、投手力をベースにバントやエンドランを多用する「緻密な野球」であった。場面によっては長距離打者にバントをさせることも多く、そういった面での評価は分かれているが、投手交代のタイミングには一貫して定評がある。
その一方で与田剛、森田幸一、上原晃、宮下昌己といった若手投手を酷使して潰したとされ、一部ファンから「キラー星野」と呼ばれ批判されていた。また他球団から田中幸雄、木田勇などを引き抜くもすぐに引退してしまったため、「投手の墓場」などと揶揄された事もあった。
中日の第2次監督時代から選手補強に関してはかなり積極的で、中でも当時FA制度や逆指名制度で怒涛の補強をしていた巨人に対しては、過剰とも言えるほど対抗意識を燃やしていた。宣銅烈、レオ・ゴメス、サムソン・リー、李鐘範ら有力外国人選手、明治大学の後輩である武田一浩、川崎憲次郎といったFA選手の獲得は、もちろんチーム補強の意味合いが第一とはいえ、「巨人に取られたくない」という感情も多分に入っていたのではと言われている。また、あまりの強引な補強ゆえか失敗もあり、「有力選手を金で集めまくって、結局巨人と同じじゃないか」という批判の声もあった。
大型補強を断行する一方、生え抜き選手を放出することも多かった。第一期監督時代には、大島康徳や牛島和彦、確執を噂された平野謙、中尾孝義、山田和利、音重鎮(第2次監督時代に中日復帰)、第2次監督時代では、前原博之、清水雅治、大豊泰昭、矢野輝弘、門倉健、鶴田泰、種田仁などを他球団に放出した。しかし最初の監督時代に生え抜き選手を多く放出したのは、「自分の現役時代を知る選手は使いづらい。できれば放出したほうがよい」という、川上哲治の考えから来ているものである。この件に限らず、川上の教えは星野の采配にかなり大きな影響を与えている。
明大の後輩(武田一浩や川上憲伸、小笠原孝)を自球団に誘いたがることでも知られているが、鳥越裕介は同じく星野の後輩であるにも関わらず、福岡ダイエーホークスに放出されてしまった。鳥越はこれを根に持っており、1999年のダイエー優勝祝賀会でのインタビューで星野に対して「あなたが放出してくれたことで優勝することができました」と発言、多くのファンから非難されていた。
選手にタイトルを獲らせるためには手段を選ばない一面もあった。1987年、小松辰雄が最多勝を争っていたときは、消化試合3試合に5回から投げさせて勝ち星を稼がせ、タイトルを獲得させた。しかしこれが悪印象となって、小松はこの年の沢村賞を逃すことになる。1991年には、最優秀防御率のタイトルがかかっていた今中慎二を、既に優勝が決まっていた広島戦のダブルヘッダーの1試合目で完投させ、2試合目にも今中を登板させた。1999年は、既に中日の優勝が決定し日本シリーズ出場が決まっていたにも関わらず、最多勝まであと1つと迫っていた野口茂樹をシーズン最終戦(対ヤクルト)に中4日登板させている。
1988年、外国人枠の関係で1軍の試合に出られなかったラルフ・ブライアントを近鉄バファローズへと放出。ブライアントは移籍後、6月下旬からの74試合で34本のホームランを放ち、以降も在籍8年間で3度のホームラン王を獲るという大活躍を見せた。当時中日の一軍には郭源治とゲーリー・レーシッチという有力な外国人が在籍し、また当時は出場選手登録出来る外国人選手は2名までだったため、ブライアントをレギュラーとして使わなかったのも仕方ない面はあるが、もしこの年中日がリーグ優勝を果たしていなければ、星野は「イチローを見抜けなかった」と言われるオリックス・ブルーウェーブの土井正三監督のように酷評に晒されていた可能性はある。余談だが、ブライアント、イチロー両選手が活躍していた当時の近鉄、オリックスの監督はいずれも仰木彬であった。
1996年オフに長嶋一茂が、当時巨人監督であった父の長嶋茂雄から戦力外通告を受けた事を聞いて「ミスターの息子は使えないよ。うちはいい選手もおるし、来ても守備出来る所がないよ」と獲得する意思のない旨をコメントしていた。結局一茂は、広島、近鉄、オリックスから獲得意向があったものの、右肘の状態が悪くその年限りで現役を引退している。
1999年は、1954年の西鉄以来45年振りとなる開幕11連勝を飾った勢いでそのまま首位を突っ走っていたが、シーズン終盤巨人の猛追にあい、1.5ゲーム差まで追い上げられた。しかしそこから一気に8連勝して突き放し、追いすがる巨人を何とか振り切って、最終的には6ゲームの差をつけて自身2度目のリーグ優勝を果たした。前半戦を首位で折り返しての優勝はチーム史上初で、これまでのジンクスをも打ち破った。もしこの時巨人に逆転優勝されていたら、V逸の責任を取る形で監督を解任されていたかもしれず、そうなれば後の阪神監督就任もなかったであろう。星野にとって、この2度目の優勝こそが監督としての評価を上げたと言っても過言ではない。
2000年5月6日、ナゴヤドームでの横浜ベイスターズ戦で、判定への不満から橘高淳審判に暴行を加えて肋骨を骨折させ、刑事告発される。詳しくは橘高の項を参照。

阪神監督時代
中日監督を勇退した直後の2002年、阪神タイガースの野村克也監督から後任監督への就任を要請される。周囲は反対したが星野はこれを受諾、中日監督時代からの片腕的存在であった島野育夫をヘッドコーチに迎え、チームの改革に取り組んだ。
就任1年目には4年連続最下位だったチームを4位に押し上げ、同年オフに選手の大量解雇を断行。同時に広島からFA宣言した金本知憲、テキサス・レンジャーズを自由契約になった伊良部秀輝を引き入れ、投打の大型補強を行った。翌2003年は、金本、伊良部、矢野輝弘、片岡篤史、井川慶、ジョージ・アリアスら主力選手の活躍により首位を独走、チーム18年ぶり、監督としては自身3度目のリーグ優勝を果たした。優勝時のインタビューでは、「あー、しんどかった」「(優勝を意識し始めたのは)今日です!」とコメントして、甲子園球場の観客を笑わせた。
ナゴヤドームで中日戦が行われた2003年7月27日、試合中に体調不良を訴えて倒れ、ベンチ裏で治療を受けた。その後も度々持病の高血圧や不整脈で体調を崩し、島野ヘッドコーチに「島ちゃん、あとは頼む」と試合を任せ、ベンチに座ったまま黙り込むことも多かった。2003年の日本シリーズ終了後、体力的な問題から監督を勇退。2004年1月1日に同球団のオーナー付シニアディレクターに就任した。また、同年5月31日には兵庫県より功労賞を受け、母校・明治大学の評議員にも就任。
2003年、巨人の原辰徳監督がフロントとの対立から辞任したことについて、「2年辞任なんてまだ早すぎる、オレの後(中日監督)を継いだ山田も2年で終わった」とコメント。対巨人最終戦終了後の花束贈呈で男泣きする原に対して、「くじけるな。また野球を一から勉強しろ」と応援の言葉を贈った。

勇退後
勇退後は阪神のシニアディレクターを務める傍ら、アメリカンホームダイレクトやキリンビバレッジ、大和證券、さくら不動産などのコマーシャルに出演し、タレントとしても活動。2004年10月からは大阪人間科学大学の客員教授にも就任している。
2004年8月~9月放送『NHK人間講座』(NHK教育テレビ)では、月曜日担当の講師として、「人を動かす 組織を動かす」と題した講義を行っていた。また、同年のアテネオリンピックのジャパンコンソーシアム製作の開会式ゲストと野球中継の解説者として出演。TBSによる2005年のマスターズゴルフトーナメントの放送にもゲスト出演した。
2005年1月2日にTBS系で放送された『星野仙一物語~亡き妻へ贈る言葉』では、かねてから親交のあった石橋貴明が星野役を演じていた。扶沙子夫人役は黒木瞳、娘役は内山理名と上原多香子がそれぞれ演じた。また、1988年12月31日に放映された「泣くなセン!燃える男 星野仙一物語」では、東幹久が星野を演じている。
2005年8月、巨人の次期監督候補として名前が挙がった。しかし9月10日、2006年も阪神に残留する予定である事を公式に表明。
2005年12月20日、名古屋レインボーホールにて、NHK「居酒屋の星野仙一」の収録を兼ねて、親友である小田和正のコンサートステージにゲストとして呼ばれる。小田からは「芸のないゲスト」と紹介され、ステージ上では現役時代や監督時代の話になり、熱烈な野球ファンである小田から「プロ野球投手・星野仙一」に対する素朴な質問を受け、約7000人の観客を前にして真摯に答えていた。
球界に幅広い人脈を持つ一方、政財界やマスコミ、芸能界との交流も深い。前述の石橋貴明、小田和正や、明石家さんま、鳳蘭と親交があり、鳳の紫綬褒章受賞記念パーティにも駆け付けている。この他にも、阪神ファンの紺野美沙子、渡辺謙、中日ファンの峰竜太、加藤晴彦といった芸能人や、テレビ朝日の渡辺宜嗣、元東海テレビの吉村功、CBCの久野誠、毎日放送の角淳一らアナウンサーとも交流がある。元NHKの実況アナウンサーの島村俊治とは旧知の仲で、星野の娘の結婚式にも出席した間柄である。また、東京都の石原慎太郎知事とは中日監督時代から親交があり、石原は星野のことを「仙ちゃん」と呼んでいる。
中日投手時代の先輩にあたる板東英二は、板東の方が6歳年上であるにも関わらず、監督勇退後も星野を「監督」と呼んで敬意を表し、敬語で接することもある。星野も板東のことを「板ちゃん」と呼び、気軽な付き合いをしている。
田淵幸一、山本浩二とは、大学時代から同学年の親友同士として知られている。現役・監督時代には、遠征の際に互いの家に泊まることもしばしばあったという。田淵が星野政権下で阪神の打撃コーチに就任したときは「友達関係を一切捨てる」と言っていたが、星野勇退に伴ってコーチを辞任した時は「これでようやく前みたく『仙ちゃん』と呼んで普通に話せるよ」と笑っていた。ただし、田淵はユニフォームを着ているときでも監督・星野に対して挑発したり、敬語を使っていても嫌味を言ったりしていたようである。また、星野仙一を追いかけたテレビ番組内で、シーズン中の広島でのカープ戦の後、星野・田淵・山本浩二の三人が焼肉店で飲む場面に密着したことがあったが、完全に友達同士の会話であった。
2007年1月25日、王貞治監督を引き継いで、2008年北京オリンピックの野球日本代表の監督に就任することが決まった。(但し、形式的には五輪日本代表チーム監督と、ワールド・ベースボール・クラシック日本代表チーム監督は違うため、長嶋茂雄読売巨人軍終身名誉監督からの引き継ぎ扱いとなる)

発言
2003年8月5日、阪神の監督として神宮球場のヤクルト戦に乗り込み(しかし試合は雨天中止)、その時の新聞記者とのやり取りの中で、神宮球場の隣の国立競技場で行われるサッカーの親善試合・FC東京対レアル・マドリード戦について、「サッカーはTシャツと短パンでできる競技。野球の方が厳しい」と発言。多くのサッカーファンや関係者から「雨で中止になる野球の方が甘い」「ユニフォームだけで何を判断できるのか」と批判された。また前日には「デビッド・ベッカム(レアルの人気選手)よりこっち(野球)のほうが人気がある」と発言している。
2004年に「アテネオリンピック選手派遣問題」が起こると、各球団の派遣選手数の制限撤廃を訴えた。選手の派遣に消極的だった中日の落合博満監督に「世の中には不公平が付きものだ」と選手の派遣を促したが、当事者の一人であるヤクルトの若松勉監督は「監督を辞めた人だからこそ言えるんだ」と反論していた。
2005年11月12日、井川慶が2004年オフに続きポスティング制度でのメジャーリーグ移籍希望をほのめかしたことについて、「残るというのなら残ればいいし、行きたいと言ってきたら行かせればいいんじゃないかと言っている」と発言。しかし同時に「もっと修行して、技術を磨く方に専念する方がいいんだが」とも語っている。一方、その前日に更新した自身の公式サイトで井川について「チームの中に入ってこない。チーム内の精神衛生を悪化させるだけで、チームにとって本当に大切かということだ」「精神衛生?大事な試合でビシッと抑えていない。優勝したと言ってもファンが認めてくれていないだろう」と、自らの夢の実現に凝り固まった井川を引き留めるのはチームにとってマイナスであると述べ、岡田彰布監督との意見の相違を際立たせている。
星野が監督だった時代から岡田彰布コーチ(当時)との意見の食い違いは頻繁にあったようで、他のコーチ陣も星野派と岡田派に分かれていたと言われている。しかし、星野の前任である野村克也元監督に冷遇された岡田を、次期監督含みで一軍コーチに就任させたのは星野であり、自分が監督を辞めたあとのために、岡田を指導者として一人前に育て上げようともしていた。
2006年4月、オリックス・バファローズの清原和博が、デッドボールに対する報復予告とも取れる発言を行ったことに対し、「清原は内角攻めが苦手だったり、他のバッターがよけられるボールをよけられなかったりするところがあるわけだけれど、それを自分の技術や対応力に帰してものをいうのではなく、『今度当てたら誰でも、命を懸けてマウンドに突っ走ってそいつをぶっ倒す!』なんていうことをいったら、ヤクザと同じでそれは“脅し”だ」と批判している。
2006年6月、村上ファンドの村上世彰社長の逮捕について「天罰だ」と発言。これに対し村上側から抗議を受けたが、星野の反論はマスコミを通じて表されていない。
NHK総合テレビのプロ野球中継において「巨人が弱くなったのが視聴率低迷の理由だとは思わないか」と実況のアナウンサーに問われ、「その考え方は時代遅れだと思う。巨人さえ強ければいい時代は終わったんですよ」
山本浩二、田淵幸一、大野豊にコーチ就任を依頼する際、大野には「アテネオリンピックでの経験を生かさしていただきたい」とごく一般的な就任要請であったが、山本には「わかってるやろな」、田淵には「行くぞ」だけであったと、山本、田淵両名は記者会見で明らかにしている。
2007年2月9日、京都の「財界セミナー」で『夢と勇気を育む人づくりとリーダーの役割』と題して講演した際、「韓国、台湾は兵役免除と引き換えにメジャー選手を代表チームに呼べる。日本はそうはいかない」「日本も徴兵制を作ってくれ、といいたくなる」と発言。

獲得タイトル・表彰
最多セーブ(1974年)(セ・リーグの初代最多セーブ投手である)
沢村賞(1974年)
最高勝率(1975年)
正力松太郎賞(2003年)

通算成績
500試合登板 146勝121敗34セーブ 1225奪三振 防御率3.60


星野仙一

サッカー 日本代表 発表

サッカー日本代表候補発表、清水の藤本ら6人が初
 日本サッカー協会は14日、ことしのスタートとなる合宿(15―19日・千葉県)に参加する日本代表候補28選手を発表した。阿部勇樹(浦和)巻誠一郎(千葉)ら中心選手のほか、昨年のJリーグ新人王に輝いたMF藤本淳吾(清水)やGK川島永嗣(川崎)MF橋本英郎(G大阪)MF相馬崇人(浦和)FW矢野貴章(新潟)とU―22(22歳以下)日本代表のGK林彰洋(流通経大)の6選手が初招集された。

 昨年のワールドカップ(W杯)代表メンバーの中沢佑二(横浜M)も名を連ねた。中村俊輔(セルティック)高原直泰(フランクフルト)ら欧州組は選ばれなかった。

 選手は15日に千葉市内のホテルに集合し、16日から練習を開始する。〔共同〕 (18:03)


川淵三郎氏が初戦のア ルゼンチン戦でまさか の活躍

サッカー日本代表選出選手
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サッカー日本代表選出選手(サッカーにほんだいひょう せんしゅつせんしゅ)は、サッカー日本代表国際Aマッチ出場選手の一覧である。

引退選手
津田幸男 (1951)
田村恵 (1951)
有馬洪 (1951)
加藤信幸 (1951)
則武謙 (1951)
松永碩 (1951)
村岡博人 (1954)
山路修 (1954)
岡田吉夫 (1951-1954)
宮田孝治 (1951-1954)
杉本茂雄 (1951-1954)
井上健 (1954)
賀川太郎 (1951-1954)
二宮洋一 (1951-1954)
加納孝 (1951-1954)
渡部英麿 (1954)
川本泰三 (1954)
大埜正雄 (1954)
生駒友彦 (1955)
三村恪一 (1955)
木村現 (1954-1955)
田中雍和 (1955)
岡野俊一郎 (1955)
岡本久敬 (1955)
下村幸男 (1955)
松永信夫 (1954-1955)
福原黎三 (1955)
徳弘隆 (1955)
小林忠生 (1956)
岩谷俊夫 (1951-1956)
大村和市郎 (1956-1958)
大橋謙三 (1958)
岩淵功 (1955-1958)
高林隆 (1954-1958)
重松良典 (1958)
松本暁司 (1958)
佐藤弘明 (1955-1959)
北口晃 (1958-1959)
島谷征四郎 (1959)
鴇田正憲 (1951-1959)
橡尾健次 (1961)
二宮寛 (1958-1961)
志治達朗 (1961)
佐伯博司 (1959-1961)
川西武彦 (1959-1961)
佐々木康治 (1958-1961)
長沼健 (1954-1961)
平木隆三 (1954-1962)
桑田隆幸 (1961-1962)
内野正雄 (1955-1962)
古川好男 (1956-1962)
高森泰男 (1955-1963)
保坂司 (1960-1964)
西山孝朗 (1964)
小沢通宏 (1956-1964)
大石信幸 (1964)
川淵三郎 (1958-1965)
桑原勝義 (1965)
継谷昌三 (1961-1965)
泉政伸 (1965)
今西和男 (1966)
浜崎昌弘 (1966)
鈴木良三 (1961-1968)
上久雄 (1964-1968)
八重樫茂生 (1956-1968)
鎌田光夫 (1958-1969)
大西忠生 (1969)
渡辺正 (1958-1969)
松本育夫 (1966-1969)
国枝強 (1969)
川野淳次 (1968-1969)
原正文 (1970)
吉水法生 (1970)
木村武夫 (1966-1970)
桑原楽之 (1966-1970)
近江友介 (1970)
湯口栄蔵 (1969-1970)
二村昭雄 (1970)
大野毅 (1965-1971)
菊川凱夫 (1969-1971)
宮本輝紀 (1961-1971)
杉山隆一 (1961-1971)
上田忠彦 (1970-1971)
宮本征勝 (1959-1971)
片山洋 (1961-1971)
富沢清司 (1965-1971)
小林ジョージ (1972)
崎谷誠一 (1971-1972)
日高憲敬 (1972-1973)
山口芳忠 (1964-1973)
小畑穣 (1970-1973)
平沢周策 (1972-1974)
河野和久 (1974)
横山謙三 (1964-1974)
船本幸路 (1967-1975)
高田一美 (1970-1975)
足利道夫 (1971-1975)
大仁邦彌 (1972-1976)
吉村大志郎 (1970-1976)
松永章 (1973-1976)
小城得達 (1963-1976)
森孝慈 (1966-1976)
高林敏夫 (1974-1976)
今村博治 (1976)
古前田充 (1976)
川上信夫 (1970-1977)
横谷政樹 (1974-1977)
荒井公三 (1970-1977)
釜本邦茂 (1964-1977)
藤口光紀 (1972-1978)
西野朗 (1977-1978)
関口久雄 (1978)
細谷一郎 (1978)
佐藤長栄 (1978)
望月豊仁 (1978)
古田篤良 (1971-1978)
石井茂巳 (1974-1979)
藤島信雄 (1971-1979)
渡辺三男 (1974-1979)
中村一義 (1979)
渡辺由一 (1979)
河内勝幸 (1979)
植木繁晴 (1979)
保田道夫 (1979)
加藤光雄 (1979)
瀬田竜彦 (1973-1980)
落合弘 (1974-1980)
今井敬三 (1974-1980)
清雲栄純 (1974-1980)
岸奥裕二 (1979-1980)
小見幸隆 (1978-1980)
永井良和 (1971-1980)
高原郁夫 (1980)
田島幸三 (1979-1980)
坂下博之 (1980)
加藤好男 (1980-1981)
須藤茂光 (1979-1981)
長谷川治久 (1978-1981)
鈴木康仁 (1980-1981)
福田豊和 (1981)
園部勉 (1978-1981)
山野孝義 (1980-1981)
副島博志 (1980-1981)
小松晃 (1981)
山本昌邦 (1980-1981)
山口悟 (1981)
伊藤直司 (1981)
加藤正明 (1981)
沖宗敏彦 (1981)
野村貢 (1981-1982)
川勝良一 (1981-1982)
吉川亨 (1983)
吉田弘 (1981-1983)
尾崎加寿夫 (1981-1983)
風間八宏 (1980-1983)
田口光久 (1975-1984)
斉藤和夫 (1976-1984)
田中孝司 (1982-1984)
前田秀樹 (1975-1984)
金田喜稔 (1977-1984)
碓井博行 (1974-1984)
菅又哲男 (1978-1984)
横山正文 (1979-1984)
坪田和美 (1981-1984)
内山篤 (1984)
池内豊 (1981-1985)
田中真二 (1980-1985)
長沢和明 (1978-1985)
内山勝 (1985)
岡田武史 (1980-1985)
池田司信 (1985)
与那城ジョージ (1985)
戸塚哲也 (1980-1985)
越田剛史 (1980-1985)
石神良訓 (1984-1986)
木村和司 (1979-1986)
谷中治 (1984-1986)
松木安太郎 (1984-1986)
柱谷幸一 (1981-1986)
金子久 (1986-1987)
加藤久 (1978-1987)
宮内聡 (1984-1987)
越後和男 (1986-1987)
奥寺康彦 (1972-1987)
倉田安治 (1986-1987)
松浦敏夫 (1981-1987)
中本邦治 (1987)
草木克洋 (1988)
藤代伸世 (1988)
手塚聡 (1980-1988)
西村昭宏 (1980-1988)
松井清隆 (1984-1988)
菅野裕二 (1988)
原博実 (1978-1988)
浅岡朝泰 (1987-1989)
前田治 (1988-1989)
梶野智幸 (1988-1989)
森正明 (1988-1989)
望月聡 (1988-1989)
名取篤 (1988-1989)
水沼貴史 (1984-1989)
松山吉之 (1987-1989)
佐野達 (1988-1990)
谷真一郎 (1990)
菊原志郎 (1990)
大榎克己 (1989-1990)
信藤克義 (1987-1990)
森下申一 (1985-1991)
佐々木雅尚 (1988-1991)
反町康治 (1990-1991)
阪倉裕二 (1990-1991)
永島昭浩 (1990-1991)
平川弘 (1985-1992)
勝矢寿延 (1985-1993)
吉田光範 (1988-1993)
三浦泰年 (1993)
今藤幸治 (1994)
浅野哲也 (1991-1994)
佐藤慶明 (1994)
小倉隆史 (1994)
岩本輝雄 (1994)
本並健治 (1994)
遠藤昌浩 (1994)
森山佳郎 (1994)
大嶽直人 (1994)
山田隆裕 (1994)
武田修宏 (1987-1994)
松永成立 (1988-1995)
堀池巧 (1986-1995)
名塚善寛 (1994-1995)
都並敏史 (1980-1995)
柱谷哲二 (1988-1995)
福田正博 (1990-1995)
ラモス瑠偉 (1990-1995)
礒貝洋光 (1995)
山口敏弘 (1994-1995)
菊池新吉 (1994-1995)
長谷川健太 (1989-1995)
神田勝夫 (1995)
野口幸司 (1995)
前川和也 (1992-1996)
沢田謙太郎 (1995-1996)
森保一 (1992-1996)
鈴木正治 (1995-1996)
土橋正樹 (1996)
長谷川祥之 (1995-1996)
酒井直樹 (1996)
前園真聖 (1994-1997)
小島伸幸 (1995-1997)
路木龍次 (1996-1997)
高木琢也 (1992-1997)
本田泰人 (1995-1997)
黒崎比差支 (1989-1997)
森山泰行 (1997)
渡辺毅 (1997)
柳本啓成 (1995-1997)
増田忠俊 (1998)
中村忠 (1995-1998)
井原正巳 (1988-1999)
田坂和昭 (1995-1999)
相馬直樹 (1995-1999)
呂比須ワグナー (1997-1999)
北澤豪 (1991-1999)
安藤正裕 (1999)
澤登正朗 (1993-2000)
城彰二 (1995-2001)
中田英寿 (1997-2006)

サッカー 日本代表 発表 現役選手
林健太郎 (1995)
下川健一 (1995-1997)
鈴木秀人 (1997)
山口素弘 (1995-1998)
小村徳男 (1995-1998)
下田崇 (1999)
斉藤俊秀 (1996-1999)
吉原宏太 (1999)
岡野雅行 (1995-1999)
大岩剛 (2000)
平野孝 (1997-2000)
平瀬智行 (2000)
三浦知良 (1990-2000)
米山篤志 (2000)
小島宏美 (2000)
上野良治 (2000)
北嶋秀朗 (2000)
高桑大二朗 (2000)
海本慶治 (2000)
酒井友之 (2000)
伊東輝悦 (1997-2001)
望月重良 (1997-2001)
名波浩 (1995-2001)
上村健一 (2001)
藤本主税 (2001)
廣山望 (2001)
市川大祐 (1998-2002)
波戸康広 (2001-2002)
明神智和 (2000-2002)
戸田和幸 (2001-2002)
森島寛晃 (1995-2002)
西澤明訓 (1997-2002)
中西永輔 (1997-2002)
名良橋晃 (1994-2003)
秋田豊 (1995-2003)
森岡隆三 (1999-2003)
服部年宏 (1996-2003)
中山雅史 (1990-2003)
永井雄一郎 (2003)
山下芳輝 (2001-2003)
曽ヶ端準 (2001-2003)
都築龍太 (2001-2004)
山田暢久 (2002-2004)
山田卓也 (2003-2004)
奥大介 (1998-2004)
石川直宏 (2003-2004)
黒部光昭 (2003-2004)
西紀寛 (2004)
松田直樹 (2000-2005)
藤田俊哉 (1995-2005)
鈴木隆行 (2001-2005)
大久保嘉人 (2003-2005)
楢崎正剛 (1998-2005)
三浦淳宏 (1999-2005)
茶野隆行 (2004-2005)
土肥洋一 (2004-2005)
松井大輔 (2003-2005)
箕輪義信 (2005)
川口能活 (1997-2006)
田中誠 (2004-2006)
長谷部誠 (2006)
宮本恒靖 (2000-2006)
中澤佑二 (1999-2006)
加地亮 (2003-2006)
福西崇史 (1999-2006)
阿部勇樹 (2005-2006)
遠藤保仁 (2002-2006)
佐藤寿人 (2006)
三都主アレサンドロ (2002-2006)
小笠原満男 (2002-2006)
小野伸二 (1998-2006)
本山雅志 (2000-2006)
久保竜彦 (1998-2006)
巻誠一郎 (2005-2006)
坪井慶介 (2003-2006)
今野泰幸 (2005-2006)
駒野友一 (2005-2006)
村井慎二 (2005-2006)
茂庭照幸 (2003-2006)
稲本潤一 (2000-2006)
中村俊輔 (2000-2006)
柳沢敦 (1998-2006)
高原直泰 (2000-2006)
大黒将志 (2005-2006)
玉田圭司 (2004-2006)
中田浩二 (2000-2006)
田中隼磨 (2006)
栗原勇蔵 (2006)
田中マルクス闘莉王 (2006)
鈴木啓太 (2006)
中村直志 (2006)
坂田大輔 (2006)
山瀬功治 (2006)
小林大悟 (2006)
我那覇和樹 (2006)
田中達也 (2005-2006)
羽生直剛 (2006)
梅崎司 (2006)
水本裕貴 (2006)
山岸智 (2006)
播戸竜二 (2006)
二川孝広 (2006)
中村憲剛 (2006)
高松大樹 (2006)

サッカー 日本代表 発表 関連項目
サッカー日本代表
日本人サッカー選手一覧
オリンピックサッカー日本代表選手
ドーハの悲劇 (1994 FIFAワールドカップ・アジア地区最終予選日本代表)
マイアミの奇跡 (1996 アトランタオリンピック日本代表)
ジョホールバルの歓喜 (1998 FIFAワールドカップ・アジア地区予選第3代表決定戦日本代表)
1998 FIFAワールドカップ日本代表
2002 FIFAワールドカップ日本代表
2006 FIFAワールドカップ日本代表


サッカー 日本代表 発表

ホワイトデー

トリンプ・インターナショナル、ホワイトデー商品に団塊世代向けギフトショーツを発売
Shall We Date?
ホワイトデーは旦那様が奥様をエスコート
~ホワイトデー向けショーツ発売~

団塊世代の夫婦を応援!!
恥ずかしがり屋のお父様にはお嬢様が橋渡し役に!


 「天使のブラ」「恋するブラ」などでおなじみ、トリンプ・インターナショナル・ジャパン株式会社(本社:東京都大田区平和島6-1-1、代表取締役:クリスチャン・トーマ、資本金:26億円)では、来る3月14日のホワイトデーにあわせて、団塊世代に向けたスペシャルパッケージ入りのギフトショーツを2月8日より全国のトリンプ製品取扱店で発売します。
 20年以上前からホワイトデー向けのギフトショーツを発売してきたトリンプでは、一昨年のホワイトデーは社内で選抜したイケメン社員がプロデュースしたホワイトデー向け女性用ショーツを、昨年は「TOKYOオヤジ」「AMERICAオヤジ」「ITALYオヤジ」というテーマで「カッコいいオヤジ世代」が贈る女性用ショーツを発売し、話題となりました。今年のホワイトデーは、いま何かと話題の団塊世代に向け、恥ずかしがり屋の男性も買いやすいギフトショーツを提案します。

●団塊の世代の夫婦が一緒に楽しみたいことは「国内旅行」や「映画鑑賞」
●今年のホワイトデー向けショーツは夫婦で楽しめるデートプラン付!

 2007年は団塊の世代の人たちがいっせいに退職を迎える最初の年として注目を集めています。トリンプでは、退職後一緒に過ごす時間が増える団塊世代の夫婦に向け、夫婦間のコミュニケーションツールとしてこのホワイトデー向けショーツを提案します。博報堂エルダービジネス推進室が団塊世代の夫婦に対して行った意識調査によると、退職後「夫婦で楽しみたいこと」として、男性、女性ともに上位にランクインしたのが、「国内旅行」や「映画鑑賞」、「食べ歩き」、「日常の買物や家事」、「音楽鑑賞・コンサート」でした。そこでトリンプでは、普段は無口で恥ずかしがり屋の団塊世代の男性が、ホワイトデーをきっかけに今までの感謝の気持ちをこめて、夫婦で楽しみたいと思っている「旅行」や「映画」などのデートに、奥様を誘えるようなギフトショーツを企画しました。

 ショーツはデートプランに合わせて4種類。「Movie Date」にぴったりなヨーロッパの恋愛映画を彷彿させるようなフェミニンなレースタイプ、「Concert Date」にぴったりなフォーマルドレスもきれいに着こなせるおなかおさえの機能付きタイプ、「Sports Date」におおすすめの吸湿速乾機能に優れたタイプ、そして「Travel Date」には旅行先などでの寒さ対策にもぴったりな発熱繊維を使用したタイプです。


●下着売場に近づけない団塊世代のお父様には、お嬢様が橋渡し役に!

さらに、「下着売り場はやっぱり恥ずかしくて買いに行けない」というお父様のために、お嬢様が橋渡し役を果たす ”Shall We Date?作戦プラン” もあわせて提案します!お嬢様がトリンプの店頭でカタログをゲット!そのカタログを家に持ち帰り、お父様は4種類の中から希望のデートプラン(商品)を選び、カタログに付いている購入依頼書にサインをします。お嬢様がその依頼書を持って代わりに買ってきてくれることで、恥ずかしがり屋のお父様も奥様へのプレゼントを手にすることができる、という仕組みです。このギフトスタイルは団塊世代の夫婦のコミュニケーションだけでなく、親子のコミュニケーションツールとしても一役買うこと間違いなしです。
(詳細は別紙をご覧下さい)


<ホワイトデー向けショーツ商品概要> 発 売:2007年2月8日
 添付資料をご参照ください。


<お客様のお問い合わせ先>
 フリーダイヤル 0120-104256(天使にコール)



ホワイトデー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

歴史
日本でバレンタインデーが定着するに従って、若い世代の間でそれにお返しをしようという風潮が生まれた。これを受けた菓子業界では昭和50年代に入ってから、個々に独自の日を定めて、クッキーやマシュマロ、キャンデー等を「お返しの贈り物」として宣伝販売するようになった。

この動きをキャンデーの販売促進に結びつけ、全国飴菓子工業協同組合(全飴協)関東地区部会が「ホワイトデー」として催事化した。1978年、全飴協の全国総会で「キャンデーを贈る日」として制定され、2年の準備期間を経て1980年に第1回の全国規模のホワイトデーが開催された。飴の材料である砂糖が白色だったため「白=ホワイト」から「ホワイトデー」と命名された。福岡市の老舗菓子屋「石村萬盛堂」が先に考案したとする説もある。

最近では、デパートなどが食品以外の贈り物なども販売促進しているが、菓子業界では、駅やデパートで手焼きクッキーを販売する「ステラおばさんのクッキー」が最も売上高の高い「ホワイトデー」の商品となっているようである。

いわゆるバブルの時代に、ホワイトデーの贈り物の平均金額は上がり続け、バレンタインデーに贈った額の3倍程度の相当額を、ホワイトデーの相場と考える女性が増えたが、近年は職場環境や慣行の変化などにより、バレンタインデー自体が「義理チョコ」から「本命チョコ」や女性自身のための「ご褒美チョコ」へ変化し、ホワイトデー自体も本命チョコに対する本命のお返しの贈り物との認識が増えている。

近年の日本女性の中には、バレンタインデーに女性が贈り物を贈るのは男尊女卑に由来するもので、これを男性から女性への贈り物をする日に改めるべきであるとの主張する者がいる。しかし、男女平等を目指すなら男女互いに贈る習慣に改めるとの主張でないと整合性がないためか、大きな声にはなっていない。また、バレンタインデー改変論者は、ホワイトデーについては言及していないことも、この意見が大きなものになっていない理由の一つであると考えられる。しかしマスコミなどでは、女性がバレンタインデーを望んでいないとする記事は繰り返し掲載されている。このような意見が一部とはいえ注目される理由の一つに、日本の女性には、日本独自の習慣を男尊女卑に直結しやすい者が多いことが挙げられる。

明治ミルクチョコパズル

ホワイトデー 由来
269年2月14日、兵士の自由結婚禁止政策に背いて結婚しようとした男女を救うために聖バレンタイン司教は殉教した。ホワイトデーを3月14日に定めた理由は、1か月後の3月14日、その2人が、改めて永遠の愛を誓い合ったと言われていることに由来する、と全飴協は説明している。


ホワイトデー 日本以外のホワイトデー
韓国でも日本の影響でホワイトデーが行われる。台湾でも行われるが、贈り物は様々である。韓国では更に4月以降も、各月14日にブラックデー、ローズデー等といった恋愛に関する行事が近年行われるようになった。


ホワイトデー

インパルス

インパルス堤下がバリ熱愛旅行
 お笑いコンビ「インパルス」の堤下敦(29)とファッション誌「JJ」のモデル土岐田麗子(22)が交際していることが16日までに分かった。2人は今月4日から約1週間、インドネシア・バリ島へ旅行した。

 出会いは昨年10月に放送された日本テレビのバラエティー「踊る!さんま御殿!!」(火曜後7・58)での共演。土岐田が「好きでした」と堤下に告白。番組司会の明石家さんま(51)が仲を取り持った。


インパルス (お笑い)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

メンバー
板倉俊之(いたくら としゆき、1978年1月30日 - )
兵庫県宝塚市生まれ、埼玉県志木市で育つ。B型。身長168cm、体重48kg。(プロフィール上48kgだが最近筋肉質になり、54kg(本人談))ボケ担当。
志木第2中学校卒業
中学時代はサッカー部で汗を流す
獨協埼玉高等学校卒。
2000年、フジテレビの番組「新しい波8」のオーディションでネタを酷評され、ノイローゼになるほど落ち込んだという。
2004年、「マンスリーよしもと」の「吉本男前ランキング」でガリガリの骸骨と言われていたが5位に輝いた。と、同時に「友達にしたくない芸人」2位に輝いた。
2006年、「マンスリーよしもと」の「吉本男前ランキング」でキングコング西野亮廣に次ぐ5位。
今は週に5回、ルミネの1ステと2ステの間でも行く位ボクシングにハマっている。
堤下敦(つつみしたあつし、1977年9月9日 - )
神奈川県横浜市出身。RhマイナスのB型。身長174cm、体重80kg。ツッコミ担当。
武相高等学校→関東学院大学中退。
ハンバーグなど、こだわって料理をする。(2006年ヨシモトファンダンゴTV「ヨシモト∞」)


略歴・概要
東京NSCの4期生。1998年12月にインパルスを結成。同期にはロバート・森三中・POISON GIRL BAND・コンマニセンチなど。
NSC時代は板倉がBコースの7番、堤下がBコースの38番だった。
舞台では漫才も披露するが、コントがメインである。ボケの板倉が演じる様々なキャラクターに堤下が鋭いツッコミを入れるスタイルで、ありふれた設定の中に非日常なキャラクターを投入して意外性を生むパターンが多い。ある種シュールな世界が高く評価され、「はねるのトびら」(フジテレビ系)のコントの土台になったネタもある。
以前2人はビジュアル的に地味と言われていたが、2003年から「エンタの神様」(日本テレビ系)に出演したこともあってブレークする。しかし、「笑いの金メダル」(テレビ朝日系)には、一切出演していない。この背景には、「爆笑問題のバク天!」(TBS系)で太田光が「笑いの金メダル」と「エンタの神様」を「クソ番組」と評し、インパルスの2人がその意見に賛同した経緯があり、多忙という理由もあるが、エンタの神様への出演も減ってきている。
最近は内村光良と共演機会が多く、可愛がられている模様。また、インパルス側からも「クイズ発見バラエティー イッテQ!」(日本テレビ系)にて、板倉は「内村さんと仕事すると、やりやすいんですよ」と内村が居ない所で発言していた。

出演している(いた)番組
テレビ番組
爆笑オンエアバトル
みちのくインパルス(ミヤギテレビ)
はねるのトびら(フジテレビ系)
~本人発信バラエティ~ てっぺん!(ヨシモトファンダンゴTV)
仁義換金(テレビ東京)
人間!これでいいのだ(TBS)
水野キングダム(東京MXテレビ)
内村プロデュース(レギュラー放送終了後は毎回出演)
ラジオ番組
インパルスのラジオパニック(ニッポン放送)
インパルスのガッチャガッチャ(水、文化放送「レコメン!」内)

DVD・ビデオ
「はねるのトびら」
「はねるのトびらII」
「はねるのトびらIII」
「はねるのトびらIV」
「おちゃらけソーセージ」
「球根」
「球根2」
「非売よしもと本物流」レンタル専用。HMVでも販売あり。
 2005年7月号・赤版には板倉主演ショートムービー「THE ZOMBIE TEACHERRRR」
 2005年8月号・赤版には板倉監督・主演ショートムービー「囚人29号」を収録。
 2005年10月号・赤版「デブだらけの大運動会」
 2005年12月号・赤版「デブだらけの大運動会2」では板倉が司会・堤下が競技者
 2006年3月号・赤版「芸人の休日のススメ」板倉の部屋に芸人が集まり、板倉の考えた「芸人人生ゲーム」で盛り上がる。


写真集
「男写」(2005年9月 ワニブックス)

CM
アサヒビール ビールテイスト飲料「ポイントワン」(2005年3月~)
アウトソーシング(主役バージョンは堤下のみ、板倉は北陽の虻川バージョンに出演、2005年)

TVドラマ
「整形美人。」(フジテレビ、ゲスト出演、2002年)
「ナースマンがゆく」(日本テレビ、堤下のみレギュラー・最終話に板倉がゲスト出演、2004年)
「危険なアネキ」(フジテレビ、第1話にゲスト出演、2005年)


インパルス

魔裟斗

彼女がいたから王者になれた…魔裟斗&心に聞く ―互いのどこが好き?
魔「食事面でも気を使ってくれたし、彼女がいたから世界王者になれたと思う。いろんな面でケアしてくれる人はなかなかいないですから」
心「私のことは一番よく理解してくれてます」

 ―心さんの得意料理は?
魔「鳥肉の根菜煮。料理っぽいです(笑い)」

 ―けんかはする?
魔「小さいけんかは毎日しますね。でも(お互い)寝て起きたら忘れちゃうタイプ。僕の門限は午前3時なんです」
心「(ドラマ撮影などで)朝早いんで。4~5時に帰ってこられると目が覚めちゃいますからね。私も仕事は続けます」

 ―魔裟斗選手は女性にもてるから心配では?
心「今まで続いてるってことは大丈夫だと思います」
魔「意外とまじめだよな、オレ」

 ―お子さんの予定は?
魔「将来的にできれば。頭を使う仕事をさせたいですね。格闘家のつらさはよく分かってますから」

 ―バレンタインデーは?
心「毎年あげてるんで今年もあげます」

(2007年2月14日06時00分 スポーツ報知)


魔裟斗(まさと、1979年3月10日 - )はK-1選手(ミドル級)である。身長175cm、体重70.0kg。血液型はO型。日本人初のK-1MAX世界王者。シルバーウルフ所属。本名小林雅人。キックボクサーでありながら、ボクシングセンスにも定評がある。千葉県柏市出身。両親の都合で柏市から埼玉県新座市へ引っ越す。

朝霞第四中学校卒。
埼玉栄高等学校に入学したが「雰囲気が俺と合わない」、キックボクシング部設立をめぐる対立等の理由で自主退学した。
2007年2月11日に女優・矢沢心と結婚。


魔裟斗


基本情報
本名 小林雅人(こばやし まさと)
あだ名 「反逆のカリスマ」
シルバーウルフ
階級 ミドル級(K-1)
国籍 日本
誕生日 1979年3月10日
出身地 日本国千葉県柏市
命日
死地
スタイル キックボクシング
プロキックボクシング戦績
総試合数 46
勝ち 40
KO勝ち 20
敗け 4
引き分け 2

ファイトスタイル
10代の頃にボクシングジムに通っていた魔裟斗は、元々はパンチを武器とする典型的なインファイターであった。しかし、近年では、左右両方のパンチのコンビネーション・キック・ひざ蹴りなどの打撃を放つスタイルへと変わった。ディフェンステクニックで相手が放つ大振りなパンチをかわし、カウンターを合わせる。最も得意とするブローは相手の右を左でブロックし、即左フックを返すというものである。
ボクサー時代にプロボクサーのプロテストを受験していたのだが、その受験当日にプレッシャーに耐えかねて失踪するというナイーブな一面も持っている。その頃のプロボクサー試験不合格の挫折のためかボクシングという競技に対して人並みならぬ執着心を示しており、よくボクシングを意識した発言を繰り返しており、他のMAX参戦ファイターの中でもファイトスタイルはボクシング技術を重視したものになっている。魔裟斗にとってボクシングという競技は過去の挫折経験の象徴である反面、年末興行などでたびたび参戦してくる参戦経験の少ない元ボクサーとの対戦を好んでいる傾向がある。
K-1 MAXの主役級の扱いを受けている魔裟斗は海外の選手から研究され狙われる立場であり、2004年ごろから判定決着が極度に増えてきている。(2004年は5戦5判定KO勝ちなし、2005年は3戦2判定1KO勝ち、2004~2006年(7月現在)を合算すると、12戦10判定2KO勝ち。

魔裟斗 来歴
2000年11月1日 ムラッド・サリ(王者、フランス)と対戦し2R0:48KO勝ちし、I.S.K.A.世界オリエンタルウェルター級王座獲得。
2003年 アルバート・クラウス(前年度王者、オランダ)を決勝戦で下し、「K-1 WORLD MAX 2003 世界一決定トーナメント」優勝。
2004年7月7日 「K-1 WORLD MAX 2004 世界一決定トーナメント」で決勝まで勝ち進むものの、決勝戦でブアカーオ・ポー.プラムックに敗れ連覇を逃し、準優勝。
2004年12月31日 山本“KID”徳郁とK-1ルールで対戦。激闘を繰り広げ瞬間最高視聴率31・6%を記録した。
2005年7月20日 「K-1 WORLD MAX 2005 世界一決定トーナメント」1回戦でマイク・ザンビディスと対戦し、ダウンを奪い判定勝ちしたものの、足を骨折し無念の棄権となった。(この大会ではこの後準決勝で対戦するはずだったアンディ・サワーが優勝した。)
2006年6月30日 「K-1 WORLD MAX 2006 世界一決定トーナメント」1回戦で小比類巻貴之に判定勝ち。2回戦でアンディ・サワーに判定で敗れベスト4。同年大晦日、ボクシング元世界王者崔龍洙と対戦予定だったが、チェが練習中に負傷してしまい、対戦相手がボクシング元日本ミドル級王者鈴木悟に変更。試合は鈴木得意の右ストレートが魔裟斗の顔面にヒットする場面もあったが、2Rで魔裟斗が執拗に放ったローキックで貫禄のKO勝ちを?ぎ取った。
2007年2月11日 - 予てから同棲中の女優・矢沢心と入籍。 結婚会見は、記念日でもある2月13日。

魔裟斗 魔裟斗発言集
努力している自分を隠す為か、インタビューでは「楽勝」「100%勝てる」「KOで倒す」「俺は強い」「相手の実力は大した事はない」など自信溢れる発言が目立つ。

具体的には、

「ラスベガスで試合がしたい。」
「ボクシング時代は米倉会長にチャンピオンと呼ばれてました」
「ホプキンスと闘いたい。いまのおれなら勝てる」
「へビー級もKO少ないし、既におれの戦いはヘビー」
「できない奴に発言権はない」
「PRIDEも盛り上がってる、格闘技で一番面白い。そしておれの試合」
「多分俺びっくりするんじゃないかなぁ・・・レベルの違いに・・・うん」
「人の倒し方を覚えた」
など他多数。

このような自信過剰、人を見下す言動が多いが、本人の弁によると初期の頃、TBSに要請されていったおり、真に受けて批判されてショックを受けた時期があった。小比類巻貴之を下した際の風貌が、正統派かつ努力系のイメージ漂う小比類巻とは正反対であり、ヒールのレッテルを貼られた為。


魔裟斗 戦績
プロキックボクシング: 46戦 40勝 20KO 4敗 2分
K-1: 49戦 42勝 21KO 5敗 1分

魔裟斗 獲得タイトル
全日本キックボクシング連盟ウェルター級王座
I.S.K.A.オリエンタル世界ウェルター級王座
K-1 WORLD MAX 2002 日本代表決定トーナメント優勝
K-1 WORLD MAX 2002 世界一決定トーナメント第3位
K-1 WORLD MAX 2003 日本代表決定トーナメント優勝
K-1 WORLD MAX 2003 世界一決定トーナメント優勝
K-1 WORLD MAX 2004 世界一決定トーナメント準優勝
K-1 WORLD MAX 2006 世界一決定トーナメントベスト4

魔裟斗 備考
テレビ朝日系『愛のエプロン』で、料理を披露した(味は薄かったらしい)。
細木数子から好かれている。
『ねるとん紅鯨団』に出演。ちなみに来栖あつことカップルが成立した。
現在のようなキャラになったのは、所属事務所社長のHARUに影響されたため。
「ミスターストイック」小比類巻貴之に「六本木で飲んでいる時バッタリ出会った」ことをメディアで暴露している。
小比類巻とはキック時代に対戦している。3回戦の前座扱いであったが、メイン、セミの試合のキャンセルが相次ぎ、繰上げでその日の興行のメインイベントになってしまった。結果は小比類巻が得意の膝蹴りで、キャリアの浅い小林雅人(本名名義)にKO勝ちしている。
この繰上げメインの試合を、雑誌「格闘技通信」(ベースボール・マガジン社)は急遽見開き2ページ、オールカラーで掲載した。繰上げの影響もあるが、この2人に何かを見出したのかもしれない。結果的にそれは正解になった。
この敗戦はお互いがK-1参戦後もしつこく扱われたが、K-1では魔裟斗が小比類巻にきっちりと判定勝ちしている。
地元では5対1で喧嘩に勝った等の伝説が残っているが、真実かどうかは定かでない。
かつては「反逆のカリスマ」なるギミックを与えられていたが、本人は好きではない。
大言を用いる事が多いが、周囲は揃って練習熱心であることを語る。
敗戦後失踪すると言う噂が有るが、勝敗に関係無く試合後は箱根へ温泉に入りに行く事を公言しており、失踪では無い。しかし、敗戦後は翌日の会見に姿を見せない事が多い為、失踪を心配するファンも多い。失踪を心配させる理由は、上記の通り会見のキャンセルと、インターネット等のメディアが「魔裟斗とジム関係者連絡を絶つ」と書き立てる為である。
母親の名前は雅子である。
魔裟斗主催の格闘イベントにて、一度だけ総合ルールで宇野薫とエキシビションマッチを行ったことがある。

魔裟斗 出演作品
はるちゃん6(2002年、東海テレビ)
武勇伝(2003年、アートポート)
IZO(2004年)
CM「DUBジュエリー」
現在GyaOで『K-1ファイタ- 魔裟斗のKING SPIRITS』というトーク番組(毎週水曜日更新)を持ち、視聴者から送られてくる悩みや質問に魔裟斗が答えたりしている。 ちなみにその番組内で魔裟斗は、相方の岡田真善や視聴者から「キング」と呼ばれている。



魔裟斗

福岡ソフトバンクホークス

ソフトバンクモバイルなど、ホークスオフィシャルモデル携帯電話を発売
「ホークスケータイ」3月上旬発売決定!
~ホークスファン必携!ホークス選手と「オソロ」のケータイ登場~


 ソフトバンクモバイル株式会社(本社:東京都港区、社長:孫正義)と福岡ソフトバンクホークス株式会社(本社:福岡県福岡市、社長:笠井和彦)、および福岡ソフトバンクホークスマーケティング株式会社(本社:福岡県福岡市、社長:笠井 和彦)は、共同企画により開発したホークスオフィシャルモデル携帯電話「ホークスケータイ(SoftBank 812SH)」を、3月上旬に発売することを決定いたしました。

 また、2月1日(木)より、福岡ソフトバンクホークス公式ファンクラブ「クラブホークス」有料会員限定「ホークスケータイ」オンライン予約を、2月5日(月)より、九州地区のソフトバンクショップ店頭にて「ホークスケータイ」の先行予約の受付を開始いたします。(宮崎キャンプ特別ショップ(宮崎市生目の杜運動公園内)では、2月1日から開始)

 「ホークスケータイ」は、本体表面にオフィシャルロゴを配置し、待ち受け画面やメニュー画面、着信メロディー、音声通話発着信時やメール送受信時の表示画面、電池レベル表示や電波状態表示などの細部にわたり、選手のオリジナル画像・動画や選手応援歌を活用したコンテンツを搭載したホークスファンのためのファン必携の携帯電話となります。



福岡ソフトバンクホークス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


福岡ソフトバンクホークス(ふくおかソフトバンクホークス、Fukuoka SoftBank HAWKS Baseball Club)は、日本のプロ野球の九州地方唯一の球団でパシフィック・リーグの球団のひとつ。本拠地は福岡Yahoo! JAPANドーム(福岡市中央区)。2軍の本拠地は雁の巣球場(同市東区)を使用している。

福岡ソフトバンクホークス チーム名 福岡ソフトバンクホークス
加盟団体 パシフィック・リーグ(1軍)、ウエスタン・リーグ(2軍)
創設年度 1938年
チーム名の遍歴 南海軍(1938年-1944年途中)
→近畿日本軍(1944年途中-1945年)
→グレートリング(1946年-1947年途中)
→南海ホークス(1947年途中-1988年)
→福岡ダイエーホークス(1989年-2004年)
→福岡ソフトバンクホークス(2005年-)
フランチャイズ 福岡県
本拠地 福岡Yahoo! JAPANドーム(1軍)、福岡市雁の巣レクリエーションセンター野球場(2軍)
収容人員 35,695人(ヤフードーム)
オーナー 孫正義
親会社 ソフトバンク
監督 王貞治 (代行:秋山幸二)
タイトル リーグ戦:15回、日本シリーズ:4回
(優勝年度) (リーグ戦)1946、1948、1951、1952、1953、
1955、1959、1961、1964、1965、
1966、1973、1999、2000、2003
(日本シリーズ)1959、1964、1999、2003
プレーオフ 4回 - 1勝3敗(太字は勝利した年)
1973、2004、2005、2006
球団の歴史

福岡ソフトバンクホークス 戦前
1938年に南海鉄道を親会社とする南海軍(なんかいぐん)が結成される。同年3月29日に加盟し、秋季リーグ戦から参加。本拠地は大阪府堺市。
1939年に本拠地球場として中百舌鳥球場が完成したが、公式戦は主に西宮球場と甲子園で行われた。戦前のチーム成績は今ひとつではあったが、鶴岡一人、のち松竹ロビンスの主軸・岩本義行、悲劇のエース・神田武夫と実力のある選手がチームを支えた。
1944年の戦時企業統合政策(陸上交通事業調整法)により南海鉄道は関西急行鉄道と合併。同年6月1日より近畿日本鉄道となり、合わせてチーム名は近畿日本(きんきにほん)へ改称された(現在のオリックス・バファローズの前身である大阪近鉄バファローズとは球団としての関係はない)。

福岡ソフトバンクホークス 鶴岡監督時代
終戦後の1946年、プロ野球再開でリーグに復帰。あわせてチーム名をグレートリングに改名。愛称は「近畿」で、「近畿グレートリング」と呼ばれることもあった(参照)。監督は鶴岡(当時は山本姓)が選手兼任。戦後混乱で物資・食料が不足する中、鶴岡は公私を問わず選手らの面倒をみるなど奔走。機動力を重視した戦術で、プロ野球再開シーズンを球団初優勝で飾った。
翌1947年6月1日、旧南海鉄道の事業一切が近畿日本鉄道から南海電気鉄道へ譲渡され、球団の親会社も南海電気鉄道へ移行。これにあわせてチーム名を南海ホークスに改称した。
1949年シーズンオフの2リーグ分立でパ・リーグに加盟。1950年に新本拠地として大阪球場が完成。ようやく自前の球場を確保する。
1951年からリーグ3連覇。戦後より続けてきた機動力野球は、鉄壁の守備力を誇る「100万ドルの内野陣」(一塁・飯田徳治、二塁・鶴岡のち岡本伊三美、三塁・蔭山和夫、遊撃・木塚忠助)を生み出した。この頃の南海は「洗練されたプレーで観客を魅了する都会的なチーム」と評された。1955年にもリーグ優勝を果たしたものの日本シリーズではいずれも読売ジャイアンツ(以下、巨人と省略)に敗れ、「ナンカイ(何回)戦っても巨人に勝てないナンカイ(南海)」と揶揄された。
機動力野球では巨人に対抗できないと考えた鶴岡は、チーム構想を長打力重視の「400フィート打線」へと転換。しかしなかなか軌道に乗らず、1956年から3年連続で西鉄ライオンズに苦杯を喫する。
1959年に立教大学から立教三羽烏「長嶋・杉浦・本屋敷」の一人杉浦忠が入団。長嶋茂雄は大学時代から南海に「栄養費」の支給を受けており、入団は確実と言われたが、土壇場のどんでん返しで読売ジャイアンツに奪われる。
1959年に4年ぶり7度目のリーグ優勝を果たす。この年は打線以上に杉浦忠を中心とする投手陣が強固であり、日本シリーズでは杉浦が第1戦から4連投して4連勝、4勝0敗のストレートで巨人を下し、球団初の日本一に輝いた。大阪市内を巡航したパレードは「涙の御堂筋パレード」と言われた。当時は強豪チームというだけでなく人気も阪神タイガースを凌ぎ関西一であった。
鶴岡は1965年に一旦辞任するが、後任監督となった蔭山和夫が就任4日後に急死したため復帰、1968年まで指揮を執った。
テレビ野球中継が始まると、南海は人気を背景に高額の放映権料を要求した。また、直接球場に足を運ばなければ意味がないとして、TVの効果を疑問視していた。ところが、TV中継の拡大ともに、系列の日本テレビ放送網による全国ネット中継を行う巨人と同一のセ・リーグである阪神タイガースばかりが放送され、野球人気そのものがセ偏重となり、パの南海の人気は低落していった。その結果として、南海戦のTV中継はさらに減少する悪循環であった。かつて南海電鉄が毎日放送の主要株主であった関係から、放映権も毎日放送中心だったが、阪神への一極集中が進むにつれ、いかに阪神戦を確保するかに放送局の関心も移っていった(ただ、毎日放送との関係は、ダイエーへの身売りまで続いた)。
快進撃を続けたチームだが、当時から経営的には低迷した。毎年の赤字を電鉄本社が補填し続ける現状に、電鉄労働組合からは賃上げ闘争のつどやり玉に挙げられ、「野球に回す金があったら給料を上げろ」「早く球団を売れ」と黒字化の見通しの立たない球団への風当たりは強いものがあった(南海ばかりではなく、近鉄・阪急も苦戦続きであった)。

福岡ソフトバンクホークス 暗黒時代
1969年は飯田徳治が監督に就任したが、投手陣に怪我人が続出したこともあって2リーグ分立後初の最下位に転落。飯田は1年で辞任し、後任には選手兼任で野村克也が就任。野村はヘッドコーチにドン・ブレイザーを招聘し、現在のID野球の原点となる「シンキング・ベースボール」をスローガンとした。野村時代はリーグ優勝は1973年のみだったが、6度のAクラス入りと安定した成績を残した。しかし1977年シーズン終盤に野村が解任されると後を追うように江夏豊・柏原純一もチームを去り、チーム力が大きく低下する。1978年、広瀬叔功が監督に就任。野村カラーの一掃を目指し、「泥まみれの野球」を標榜するも門田博光のアキレス腱断裂などもあり、6位、5位と低迷。
1980年にはドカベンこと香川伸行が入団し、序盤は首位争いを演じるも結局は最下位に低迷し、広瀬は退陣。1981年から1982年は野村監督時代のヘッドコーチであるブレイザーが務め、1983年にはかつてのスター穴吹義雄が二軍監督から昇格。1984年には阪急や近鉄と首位争いを演じるも終盤に10連敗を喫し、優勝戦線から脱落すると共に、その年のオフにはスター候補として期待を集めていた久保寺雄二が急死するアクシデントもあった。1986年に黄金時代のエース・杉浦忠が監督に就任するも長期低迷には歯止めがかからず、川勝傳オーナーが亡くなった1988年にダイエーへの売却が決定した。

福岡ソフトバンクホークス 平和台時代
1988年11月1日、南海電鉄はホークスの名を残すことと杉浦の留任を条件に、球団をダイエーに売却。関西国際空港開業に伴う難波再開発事業を推し進め、不採算の球団を売却しようとする南海側と、福岡再開発事業の目玉に球団を保有し、九州を核とした商圏拡大を目論んだダイエー側の思惑が一致したためであった。
大阪市では売却に対し反対運動も行われたが(関西地区においても、今でもホークスファンが少なくない。その点に関しては後述)、チームの本拠地は福岡市・平和台球場に移され球団名も福岡ダイエーホークスと改められた。新天地となる福岡は、南海と覇権を激しく争った西鉄ライオンズ(→西武ライオンズ)の本拠地だっただけに、福岡のファンに受け入れられるか心配されていたが、10年ぶりのプロ球団設置に地元では歓迎ムードの方が大きかった。しかし移転後ダイエーがしばらく下位低迷を続けたこともあり、今のような圧倒的人気という訳には行かずスタンドには空席が目立つことも多かった。また、当時の西武との対戦では西武ファンの割合が多かった。
また、この年は近鉄バファローズに13勝11敗2分け、オリックス・ブレーブスに12勝13敗1分け、西武ライオンズに11勝13敗2分けと上位球団と互角に戦い、最終的に1位と3位の勝率が2厘差というパ・リーグ史上最大の混戦を演出する立役者となった。さらに準本拠地・北九州市民球場では7戦して全勝(特に最初の主催ゲームとなった4月20日は吉田豊彦の完投で、オリックスの開幕連勝を8で止めている)しており、ファンの間では「北九州不敗神話」と言われた。
1990年から田淵幸一が監督に就任。しかし同年はチーム成績6位、1991年5位、1992年4位と戦力の底上げをすることができず田淵は辞任した。この年を最後に平和台球場から撤退。

福岡ソフトバンクホークス 福岡ドーム時代
1993年、根本陸夫が監督に就任。この年史上初の開閉式屋根を有するドーム球場として福岡ドームが完成するも、新本拠地での初年度は打線が福岡ドームでのホームゲーム60試合でわずか18本塁打しか打てず、また投手陣も平和台時代の惨状が改善されないまま最下位に転落。11月には佐々木誠・村田勝喜・橋本武広との交換で西武ライオンズから秋山幸二・渡辺智男・内山智之を獲得する大型トレードを成立させ、日本中を驚かせた。また翌1994年には西武からFAで石毛宏典・工藤公康も移籍した。西鉄時代の本拠地だった関係で当時の福岡にはライオンズファンも多かったが、ライオンズから多くの主力選手を移籍させることにより、これらのファンをホークスファンとすることに成功した。なお、南海時代の1978年からこの年まで16年連続シーズン負け越しで、これは国鉄時代の1962年から1976年までのヤクルトスワローズの15年連続を更新した日本プロ野球ワースト記録である。
1994年、初めて優勝争いに加わり、快進撃を見せるも、わずかの差でAクラスを逃す。しかし、南海時代の1977年以来17年ぶりに勝ち越した。またオフのドラフト会議で、城島健司を1位指名した。
1995年から王貞治が監督に就任、現在に至る。
1996年5月9日に日本生命球場で開催された近鉄バファローズ戦で敗北した後、日頃の采配を疑問視されていた王の乗ったバスがファンから生卵をぶつけられるという事件が発生した。この年は大不振で、この日で9勝22敗と大きく負け越しており、結局この年は最下位に終わった。なお、本試合は同球場最後のプロ野球公式戦であった。また、この年で南海時代から19年連続Bクラスとなり、それまで広島東洋カープが保持していた連続Bクラス日本記録(1950年から1967年までの18年)を更新した。
1997年、日本ハムファイターズと同率の4位に終わり、20年連続Bクラスでかつ4位以下。連続4位以下の記録は近鉄バファローズの1950年から1968年までの19年連続を更新する日本プロ野球ワースト記録となった。
1998年、オリックス・ブルーウェーブと同率の3位に入り、南海時代から続いていた連続Bクラスの記録は20年で止まる。ただし前年度(1997年)の順位がオリックスの2位に対しダイエーは4位だったため、翌1999年の本拠地開幕権を獲得できなかった。
1999年、福岡移転後初のリーグ優勝。このとき,シーズン終了直前まで総得点が総失点を下回り,史上初の珍事かと話題になったが,最終的には総得点が上回った。さらに日本シリーズでは星野仙一率いる中日ドラゴンズを4勝1敗で下し、日本一。キャプテン秋山幸二が2本の本塁打とファインプレーでシリーズMVPを獲得。秋山は西武時代の1991年にも日本シリーズMVPを獲得しており、史上初の2球団での日本シリーズMVP獲得者となった。ちなみに球団の地元、北九州地区でRKB毎日放送で中継された1999年10月28日の第5戦は、ビデオリサーチ調べで平均視聴率47.1%(RKB毎日放送史上1977年・1978年の日本レコード大賞に次ぐ歴代3位)、瞬間最高視聴率71.6%という驚異的な数字を記録した。
2000年、リーグ2連覇。日本シリーズは長嶋茂雄率いる読売ジャイアンツとの対戦で「ON対決」と騒がれたが、2勝したのち4連敗で敗れた。
2002年5月14日と5月15日、台湾の台北市立天母棒球場で行われた対オリックス・ブルーウェーブ戦で、日本のプロ野球の公式戦としては戦後初となる台湾での試合が興行された。しかしその後失速、優勝した西武に16.5ゲーム差をつけられる惨敗を喫する。(台湾での蒸し暑い気候から一転、次のカード(長野)で気温1ケタ間近という寒さの中での試合が、多くの選手に同時に不調をもたらした原因ではないかと見られている。) 同年、秋山が現役引退。
2003年、前年まで21年連続で負け越していた西武にも勝ち越し、リーグ「完全優勝」(全球団への勝ち越し)を達成。その後、阪神タイガースとの熾烈な日本シリーズを制し、4勝3敗で2度目の日本一を達成した。また、史上初の100打点の選手が4人(井口資仁、松中信彦、城島健司、ペドロ・バルデス)の「100打点カルテット」が活躍した。
2004年はシーズンを1位で通過しながら、この年から導入されたプレーオフで西武の前に2勝3敗で敗れ、優勝を奪われた。レギュラーシーズンの活躍と打撃三冠王を評価されてチームの主砲松中信彦がリーグMVP、抑え投手として活躍した新人王に三瀬幸司が輝き、ベストナインにも4名が入った。
2004年10月、秋山が2軍監督として復帰。

福岡ソフトバンクホークス 球団売却
2004年10月13日、ダイエーが自主再建を断念し、産業再生機構への支援を要請。機構側が「国営ホークスになることは無い」と語ったことから球団の売却が濃厚になる。11月30日、ソフトバンクが球団を総額200億円で買収すること等を正式発表。同日付で日本プロフェッショナル野球組織への加盟申請を行った。12月24日、加盟申請(球団譲渡)がプロ野球オーナー会議で承認され、翌年1月28日にダイエーの保有する球団株式(所有割合98%、残りの2%は中内正前オーナーが継続保有)をソフトバンクが50億円で譲り受けることになった。これと同時にソフトバンクとホークスタウンは、営業譲渡と合わせ20年間の福岡ドーム使用契約を結んだ。1年間の球場使用料は48億円となる。また同日付けでコロニー・キャピタル傘下のホークスタウンが所有する興行権を150億円で取得する営業譲渡契約を締結することで合意した。
同日、ソフトバンクは新チーム名福岡ソフトバンクホークスとロゴマークを発表。また、次項に掲載しているマスコットや球団の応援歌などについてもダイエー時代とほぼ同じものを採用することを合わせて発表した。

福岡ソフトバンクホークス 福岡ソフトバンク時代
2005年1月28日、ソフトバンクがダイエーの保有していた球団株式と興行権を取得し、福岡ドームの使用契約を締結することで名実ともに「福岡ソフトバンクホークス」のスタートを切った。また監督の王貞治が球団の取締役副社長兼GM(ゼネラルマネージャー)に就任することも発表された。
新チームマークは英語の「S(SoftBank)」と「h(Hawks)」を組み合わせたもの。またチームロゴに挿入されている黄色の2本線は親会社・ソフトバンクのCIロゴをアレンジした。大リーグ通算214本塁打を誇り、独特のオープンスタンスで日本でも有名なトニー・バティスタを新球団の目玉として2年総額1500万ドル(約15億8000万円)で獲得。
2005年1月30日、新チームお披露目・ファン交流イベント「The First Reception 2005」が福岡Yahoo!JAPANドームで行われた。このイベントで初めて新ユニフォーム・新応援歌・2005年のスローガンなどが発表された。「中高年が少年のような顔をして歌っているのを見て、これを変えたら暴動が起きるなと思った」とオーナー・孫正義が語ったとおり、応援歌は歌詞などの一部最小限を改変したのみでそのまま引き継がれた(『ダイエー』の部分を『ソフトバンク』に変えただけ)。このイベントは有料だったが、入場料は全額がスマトラ島沖地震・新潟県中越地震の被災者を支援するための義援金に充てられ、孫自らもこれと同額の義援金を送ることを発表した。
2005年3月9日、6月28日と6月29日に予定されていた千葉ロッテマリーンズ戦の韓国開催が、ソウルで試合ができなくなったことと韓国プロ野球の人気低迷から採算が合わないと判断されたため、中止されることとなった。この2試合はロッテ側の主催試合であったため、千葉マリンスタジアムで代替開催された。
2005年シーズンの開幕直後はロッテに先行を許したものの、交流戦終盤からの15連勝や本拠地ヤフードームでの12連勝で首位に立つとその後は1度も転落することなく、レギュラーシーズンを89勝(勝率.650)という好成績で2位ロッテに4.5ゲーム差を付けて1位で通過しながら、またもプレーオフに2勝3敗で敗れ優勝を逃した。プレーオフ#同一の組で再度決定戦を行うもの参照。
2006年7月5日、福岡Yahoo!JAPANドームでの西武戦終了後に王監督が記者会見を開き、胃の手術のため休養することを発表した。代行は森脇浩司チーフコーチ。
2006年のプレーオフではレギュラーシーズン3位から勝ち上がるが、レギュラーシーズン1位の北海道日本ハムファイターズに2連敗し、3年連続のプレーオフ敗退となった。

福岡ソフトバンクホークス チームの特徴
戦後チームの球団愛称となった「グレートリング」は鉄道の車輪をイメージし、併せて近鉄の社章や沿線の「大和」(大→おおきな 和→わ に掛けて、大きな輪→グレートリング)地区、並びに合併会社である近鉄の一致団結をイメージしたものだった。しかし当時の英語のスラングで「女性器」を意味していたため、このチーム名を面白がって観戦に来た米軍兵士が「グレートリング」という言葉を聞くたびに大笑いしていたと言われる(グレートリングは米兵の間では性交そのもの、または男性器を意味していたとの説もある。あくまで俗語であり明確な定義がないため真説は不明)。そのため翌年の親会社の変更に合わせて南海「ホークス」と改称している。
「ホークス」は南海電鉄の社章が車輪の両側から鷹の羽根が伸びる意匠だった事からこれにあやかったもので(ちなみにこの社章はもともと南海電鉄の前身の1つである阪堺鉄道(現在の阪堺電気軌道とは別)のもので、さらに元をたどれば当時阪堺鉄道がイギリスから輸入した客車に付いていたカーテンのデザインに由来するという)、ダイエー、ソフトバンクがそれぞれ買収した後も現在に至るまで引き継がれている。鶴岡一人の著書『御堂筋の凱歌』には「『コンドルス』も愛称の有力候補に挙がったが、当時の球団代表の頭髪が薄いため『いくらなんでもハゲタカじゃまずいだろう』ということで『ホークス』になった」というエピソードが記されているが、これは後に監督を退いた鶴岡が講演会に呼ばれた時に、聴衆を引き付けるためによく利用した冗談である。また、ソフトバンクに譲渡される際にもチーム名を『コンドルス』にするプランがあったと孫正義オーナーが語っていたが、これもまた自らの頭髪が薄いことにかけた冗談であることは言うまでもない。
1948年のフランチャイズ制導入にあたり暫定的に本拠地を甲子園球場に変更。1950年9月12日の大阪球場完成に伴い移転。
南海時代はチームの生え抜き選手が監督に就任したが、1981年から2年間指揮を取ったドン・ブレイザーは大リーグでプレーした後1967年に南海に移籍し3年間活躍した。その後、ダイエーになってからは田淵幸一、根本陸夫、王貞治と外様監督を招聘している。
ダイエー時代は強力打線を前面に押し出した豪快な野球を展開。平和台時代は終盤での逆転勝ちが多かったことから親会社に掛けて「閉店間際の大バーゲン」と呼ばれた。またAクラスの常連となってからは「ダイハード打線」という愛称がついた。特に小久保裕紀(2004年~2006年は読売ジャイアンツに在籍)・松中信彦・城島健司(2006年にシアトル・マリナーズに移籍)・井口資仁(2005年にシカゴ・ホワイトソックスに移籍)といった中軸を担う日本人選手のレベルが高く、来日以来3年連続で打率3割をマークしたペドロ・バルデスやホークス外国人のシーズン最多本塁打をマークしたフリオ・ズレータでさえ、彼らが極度のスランプに陥るか怪我で戦線を離脱しない限りはクリーンアップを打てないほどである(2005年は井口の穴を埋めるため、トニー・バティスタが3番を任された)。2004年以降、それまで打線の中核を担ってきた選手の退団(小久保、井口、城島など)が相次ぎ、新たに中核を担える日本人選手の育成が望まれる。
優勝すれば監督の任期は長くなり、逆に優勝できなければ短くなるという傾向はどの球団にも見られるが、ホークスの場合はそれが顕著である。優勝11回の鶴岡一人が23年、優勝1回の野村克也が8年、優勝3回の王貞治は2007年で13年目を迎える。王はGMも兼任しており、近年の野球界ではまれに見る長期政権である。ホークスが福岡に完全に根付き、また、癌手術を受けた王の体調の問題もあるため、今後は秋山幸二総合コーチなどのOBが監督として選出されることが見込まれる。
福岡移転後の首脳陣の背番号は基本的に1軍が80番台、2軍が70番台、トレーニングコーチが90番を除く(後述)90番台を使用している。南海最後の監督であり、引き続きダイエーの初代監督となった杉浦忠もこれに基づき、南海時代の71番をダイエーとなってからは81番に変更している。
チーム名が福岡ダイエーホークスだった1989年から2004年までの16年間、単独の優勝~2位・4位~最下位はすべて経験しているが、単独3位になったことが1回もなかった。単独3位になる可能性は1994年・1998年・2002年があった。
パリーグではとてつもない人気なチームでビジターの試合でもたくさんのファンが駆けつける。福岡では360°すべてホークスファンで埋まることもある。


福岡ソフトバンクホークス

プロレス

全日本プロレス、王者・鈴木みのる粉砕


鈴木(下)にラリアットを決める小島=後楽園ホールで
 東京・両国国技館大会(17日)で3冠ヘビー級王座返り咲きを狙う小島聡(36)が、現王者の鈴木みのる(38)=パンクラスミッション=からフォールを奪った。前哨戦となる6人タッグ戦で鈴木と直接対決した小島は、19分33秒、豪快なラリアットで粉砕。ベルト奪還に向けて、好スタートを切った。

 自慢の右腕が火を噴いた。両軍がリング上に入り乱れた18分すぎ、小島の豪腕から、標的目がけて渾身(こんしん)のラリアットを発射。初めて鈴木からフォールを奪い、「(相手が)弱すぎて気づかなかった。一番良い形で勝てた」と、声を弾ませた。

 前哨戦は両雄のビンタ合戦から始まった。だが、いざ本腰を入れて勝負しようとするたびに、鈴木が小島を敬遠して肩すかし。業を煮やした小島は「チキショー、テメェー、このヤロー」と絶叫。“世界一性格の悪い”王者の意地の悪い行動に、足並みを乱された。

 しかし「鈴木みのるがどんなに格闘技能力、身体能力が優れようが、足りないモノがある」と小島。「それは3冠ベルトに対する愛情。右腕がうずいて、早く使いたかった」とラリアットで息の根を止めた。

 前哨戦はこれが第1弾で、今後群馬2連戦(13、14日)、千葉大会(15日)へと続く。「でも、今日が一番のヤマ場だった」と小島。視線の先には“至宝”奪還をとらえている。
中日スポーツより

プロレス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

プロレス、またはプロレスリングとは、「プロフェッショナル・レスリング」の略で、打撃、投げ、関節技、時には凶器などを用いた攻防で観客を魅せる興行。その興行においてリングの上で戦う者をプロレスラーと呼ぶ。

新日本プロレスリング 30周年記念 超戦士の聖奏(バイブル)
新日本プロレスリング 30周年記念 超戦士の聖奏(バイブル)


概要
興行会社が、試合その他で構成される興行を開催することで、観戦料などの収入を得るビジネスモデル。プロレス業界において、この興行会社は「団体」と呼ばれる。 WWEを代表とする、台本の存在を公にしているエンターテイメント系団体と、日本の主流である競技性を前面に押し出している団体・興行が存在する。また、女性のプロレスラーの行うプロレスは特に女子プロレスとされ区別される。

事業収入を得ない、アマチュアプロレスも存在する。その中でも学生達の愛好家によるものは学生プロレスと呼称される。メキシコを除いては、ライセンス制度も無いため、厳密にアマチュアとプロを分類することは不可能であるが、強いて分類するなら観戦料徴収の有無で分けることが出来る。アマチュアプロレスは地域の催事ないしは祭事でプログラムの一環として行われることが多い。

勝敗を競う形式を取るが、アメリカのプロレス団体のWWEは台本に則って行われている「エンターテインメント」であることを明らかにした。理由としては、筋肉増強剤などの問題やスポーツ委員会よりも興行(娯楽)として登録する方が保険料が低く済んだことや、株式上場の際に業務内容を公開する必要があったためである。

プロレスはテレビやビデオ等を通して世界中の人々が見ているが歴史的に活動が盛んな地域としてはアメリカ、日本、メキシコ、カナダ、イギリス、ドイツ、プエルトリコ、オーストラリアなどが挙げられる。

アメリカではプロレスでもアマレスでも「Wrestling」と呼ぶが、プロレスのみを指す場合、ショービジネスのそれとして「rastling」ないしは「rastlin」と南部訛りで呼ぶことがある。


プロレス 事業内容
エンターテイメント産業とほぼ同じ事業形態である。事業収入の柱となるものは以下の様なものである。

観戦料:
通常は3000~20000円程度、興行の規模により推移する。地方興行などではコンサート同様に、スーパーやコンビニで割引優待券が配布されていることもある。また、他のスポーツ興行と同様に、法人顧客にある程度まとまった数を販売し、その法人が自身の顧客に対し、販促の一環として配布することもある。ビッグマッチを除き、地方興行ではプレイガイドでの販売数はそれほど見込めないため、法人営業力の重要性は高い。
グッズ収入:
Tシャツやタオルなどの衣料品、パンフレット。会場での販売が中心だが、スポーツショップでも販売している。これらは粗利が高く日銭を稼ぐことが出来るため、女子団体を筆頭に零細団体ほど比重が高くなる。グッズが製作出来なくなると、その団体は破綻寸前であることが多い。また、ゲームソフトなどのロイヤリティーも含まれる。
コンテンツ販売:
試合を収めたDVDやビデオ販売、インターネット配信を行う団体もある。
広告料:
リングやパンフレット、チケット裏面などの広告スペース料。冠興行の協賛金など。
テレビ放映料:
地上波またはBS・CS放送局からの放映料。かつては地上波テレビ放送が無い団体では経営が成り立たないと言われていたが、UWFがビデオ販売でヒットを飛ばしたことや、ケーブル・CSといった有料放送局の増加などから、必ずしも地上波が放送が出来ずとも経営出来るようになった。
所属レスラーの芸能活動:
テレビやラジオ、各種イベントでのトークショー、映画・Vシネマなどの出演料。レスラーが主演を務める作品もあり、俳優業を本職としたものもいる。
飲食店経営:
喫茶店やレストランの事業収入。全日本女子プロレスは、新人を中心とした所属選手がスタッフとして働く店もあった。
興行権販売:
主に地方巡業であるが、各地方のプロモータと呼ばれる興行会社に一定額で興行権を販売する。地域に根ざしたプロモータが営業活動・宣伝活動などの業務を行うため、団体のスタッフの負荷が軽減出来ることや、不入り興行でも安定した収入を得られる点が利点。また、このような興行は「売り興行」と呼ばれる。逆に団体自らが興行を開催し、直接収入を得る興行を「手打ち興行」と言う。
元選手が引退後にプロモータに転身、ないしは入社することもある。現役選手でも、出身地で興行を行う場合は興行権を購入して取り仕切ることもある。
祭事・催事のプログラムの一環として、試合を行うこともある。代表例はフリーマーケットや競艇場など。

プロレス 社長レスラー
日本のプロレス団体における特徴のひとつ。現役レスラーが社長業を兼務する。日本のプロレス団体運営システムの始祖である力道山から始まった形式。興行の現場を知るものが社長業を行うことで、現場(レスラー)との乖離を避けることが出来たり、スポンサーとの営業活動などに利点がある。

しかし、個人商店化し、ワンマン体制や血縁・同族企業になりがちな点や、プロレスと経営の能力は別物であるため、優秀なブレーンとなる存在が無ければ維持することは難しい。また、これに対して選手出身ではない者(「背広組」と呼ばれる」)が社長や経営幹部を務める場合、経営と現場を分離できるものの軋轢が生まれ、それにより分裂・活動を停止する団体は多い。

また、肩書の上では社長であるが、経営には携わらない社長レスラーもいる。藤波辰爾は社長時代に東京スポーツなどの新聞報道で自社の動きを知って驚いていた。三沢光晴も全日本プロレス社長時代は経営権の殆どは馬場元子が握っていたため、実質的には現場監督に近い業務を請け負っていた。

アメリカのWWEでは、会長であるビンス・マクマホンが自分で試合に出ることがある。しかしこれは社長からレスラーに転身した例であり、社長レスラーとは別物としてとらえるべきだろう。


プロレス 巡業
日本のプロレス団体でツアー展開をする場合は、相撲の地方興行やサーカスと同様、巡業の形態を取ることがある。メジャーと呼ばれる大規模団体が開催する興行数は年間100試合前後と、他の格闘技と比べて圧倒的に多い。競技性を売りとするUWF系の団体はコンディション調整に時間を割くため興行数は年間数試合から数十試合程度となっている。リングなどの設営スタッフは別に移動するが、レスラーは集団でバスなどを用いて移動し、同一のホテルなどに宿泊する。競技性を前面に押し出したUWFでは、対戦するレスラー同士が会わないように、別のホテルに宿泊させ、競技性の保持に務めた。

日本の場合、外国のレスラーを招聘した場合、キャリアにかかわらず日本までの旅費や移動の際の交通費、はては荷物持ちまで、すべて団体で負担する為、自分で何もしなくても良いので、日本を主戦場にするレスラーもいる。

海外の場合は、レスラーは現地集合・解散の方式を取ることが大半で、個別行動が基本。新人や若手レスラーは移動費節約のため、自動車で相乗りで移動することもある。


プロレス 進行形式
プロレスの興行は、5~10程度の試合が行われ、間に一度休憩が挟まれる。興行時間は平均して3時間前後が基本。試合の構成は以下の通り。

選手入場(テーマ曲が流される)
選手名、身長や体重などの紹介
試合開始
試合終了
選手退場(勝利者のみのテーマ曲が流される)
WWEなどのように、選手名を告知してから入場し、リング上では告知を行わない団体もある。 選手入場の際に用いられるテーマ曲はアーティストによる既存曲と、選手個人または団体が制作を発注したオリジナル曲がある。試合をパッケージ販売する際の著作権処理の煩雑さと使用料回避のため、オリジナル曲を使う傾向が強くなっている。コスト削減のためパッケージ販売時には入場シーンに別の曲を編集で用いたり、入場シーンそのものをカットしているものもある。

また、タッグマッチ(詳細は後述)の入場・退場時に用いられる曲は「格上」のレスラーのものであることが基本である。アングル上の決着戦の場合は通常と異なる前奏を付加したものや、タッグマッチ時に一人ずつテーマ曲に合わせて入場する、といった演出が施される。


プロレス プロレス会場
日本の団体は、格闘技の聖地とも言われる後楽園ホールを基本に使用する。メジャー団体などで大一番を迎える試合では、日本武道館や両国国技館などの大規模な会場、また最大の観客動員を誇るドームでの大会を行うことになる。




巡業などで地方大会をする場合、その地方での主要な体育館を使うことが多い。その他、駐車場や屋外に特別スペースを作ったりして試合する団体もある。海外の団体も同じような感じである。

また最近のプロレス界では「大規模な会場でできる団体=人気がある団体」とは言えなくなってきている。その理由は、大規模な会場で試合をしても空席が目立ち、満員にできない団体も少なくないからである。

東京ドームを超満員札止めにし、5大ドーム大会(東京、大阪、福岡、ナゴヤ、札幌)を開催したのは新日本プロレスだけである。
業績の良かった頃の新日本では大阪のなみはやドームでも毎回メインアリーナ(大阪府立体育会館程の規模)を利用していた。メインアリーナを利用したプロレス団体は新日本のみである。他の団体はサブアリーナの方を利用している。


プロレス ルール

プロレス 基本ルール
基本的なルールはほぼ以下の通りである。団体により詳細は異なるが、一般的なプロレスルールでは5カウント以内であれば反則が認められる'ことが最大の特徴である。

勝敗は以下の方法で決する。
ピンフォール:対戦相手の両肩をマットに押しつけ(フォールという)、レフェリーが3カウントかぞえる。
ノックアウト(KO):10カウントの間立ち上がれないでいること
リングアウト:20カウントの間リングの外に出ていること(海外では10カウントのことも。PWFルールを採用する全日本プロレスも10カウント)
ギブアップ:口頭での敗北意志の提示をする
タップアウト:相手の体の一部またはマットを叩くことにより敗北意志の提示をする
レフリーストップ:関節技を受けている選手がギブアップやタップアウトせず、これ以上技を受け続けていると重傷を負うと判断した場合、レフリー権限で強制的に試合を終わらせる。スリーパーホールドなど絞め技の場合、レフェリーが絞められている選手の腕を上げてから離して、3回腕が落ちれば負けとなる。
反則勝ち(負け):レフリーに暴行、凶器の使用、セコンドの乱入があった場合行為を行った側が強制的に負けとなる。ただし、例外もある(詳しくは下記参照)
セコンドからのタオル投入(TKO)など。
(レフェリーによって、またカードによって、カウントのスピードは微妙に異なる。)
基本的な攻撃は投げ技、絞め技、関節技、蹴り技、打撃など。
禁止されている攻撃として、目(サミング)、のど(チョーク)、急所への攻撃(ロー・ブロー)、噛みつくこと、拳での突き技、つま先での蹴り技、1本のみの指を取ることなどがある。ただし打撃系の反則技は後述の5秒ルールのため、相手の体に断続的に密着しない限りは注意のみで反則を取られないので事実上は反則技でない事が殆ど。(ロー・ブローのみ例外の場合がある)
ロープブレイク:技をかけられた方のレスラーが手足でロープに触れるか、体の部分がロープ外のリングサイドエプロンに完全に出た場合は、技の解除が求められる。フォール中の場合は、カウントはストップされる。
注)原則的に四肢の場合など、手首・足首がロープに届かないとロープブレイクと見做されない為、指先が触れただけの場合などはレフリーがロープを叩く・蹴るなどして、一旦離し、再度きちんとしたロープブレイクを求める事もある。なので、手の場合は、ただ出すだけで無く、ロープを握るなどしてレフリーにアピールする事がある)
試合時の服装規定は無い。そのため、普段着で試合をしたり、ニーブレス(金属製の強固な膝サポーター)などを着用しての試合をする選手もいる。
観客用のイスを始めとした武器(凶器)での攻撃は反則とされるが、団体によってはリング内での使用で即時に反則負けとなる場合もあれば、カウント内での使用が認められる場合もある。同じ団体の試合であってもレフェリーによって判断が異なることもある。

プロレス 試合形式
プロレスの試合は●●分●本勝負、という形で行われる。1980年代以降の日本では、ほとんどが一本勝負で行われている。かつて日本でもタイトルマッチなどで行われた三本勝負(二本先取で勝利)は、過去現在を通じてメキシコでは主流の試合形式である。試合時間は概ね10分から無制限まで千差万別であるが、かつての全日本プロレスの選手権試合などでは61分と半端な制限時間に定められた試合もあった。これは「勝負は60分を過ぎてから」というジャイアント馬場の意向によるもの。

シングルマッチ:2人のレスラーが1対1で行う形式。
タッグマッチ:2vs2、3vs3など、複数人がチームを組んで対戦する試合の総称。各チームの構成人数が3人以上の場合は6人タッグ、8人タッグの様に合計人数を接頭に付けて呼称される。2vs2の場合は人数を明示せず「タッグマッチ」と表記されることがほとんど。2vs3などチーム構成人数に差がある場合は変則タッグ、またはハンディキャップマッチと呼ばれる。
3WAYダンス(3WAYマッチ・トリプルスレッドマッチ):スリーウェイ~と呼ばれる、3人で戦う形式。バトルロイヤルと異なり誰か一名が勝利を挙げた時点で試合が終了する方式と、最後まで残った者(チーム)が勝利、の二通りある。タッグマッチで行われることもある。
ハンディキャップマッチ:前述の変則タッグのなかでも、少人数のチーム方に圧倒的な実力がある選手がいるものを特にこう呼ぶ。巨漢レスラーの怪物性を示すために採用される形式。1vs2、1vs3などが基本である。
デスマッチ:通常とは異なる要素を加えた試合形式。詳細はデスマッチの項を参照。
バトルロイヤル:主に10人以上で行われる形式。敗北したものから退場し、最後に残った者が勝利する。参加選手が開始時に全員リング上にいる場合や、時間差で入場する形式などがある。

プロレス リング
リング参照。対戦の舞台となるのは3本のロープを四方に張り巡らせたリングで、形状はボクシングなどとほぼ同じ(ただし、ボクシングの場合ロープ数は4本で、コーナーの形状も異なる。大きさは団体によって異なる。プロレスの特徴として、ロープワークと呼ばれる、ロープの反動を積極的に用いたり、コーナーに上っての技などがあるため、リングおよびロープは他競技用のものに比べ、頑丈に作られている(ロープの中にはワイヤーが入っている)。デスマッチと呼ばれる試合形式の場合、特殊な加工が施されたリングを用いることがある。詳細はデスマッチを参照。

リング内に敷かれたマットの硬度は、大差はないものの団体によって違うと言われている。柔らかい方が投げ技を受けたときにダメージが軽減される。しかし、あまりに表面が柔らかすぎると踏ん張りが効かなかったり、逆に足をとられて怪我をするおそれもあるため、一定の限度は存在している。

歴史的な経緯は不明だが、現在のほとんどのリングには「スプリング」が入っており、投げ技や跳び技着地時のケガを予防するようになっている。総合格闘技の試合がプロレスのリングで行われた際には、このスプリングを止めて、「固く」していた。

各団体が専用のリングを所有するが、小規模団体は所有していないことが多い。この場合は他団体または「リング屋」と呼ばれる会場設営業者にレンタルする。代表的なリングレンタル会社としてジャッジサポートがある。

日本では闘龍門のプロジェクトT2Pで六角形のリングが使われたことがあり、アメリカではTNA、メキシコではAAAなどの団体で、六角形のリングが使われている。 注)この場合の六角形リングは、単なる目新しさでは無く、メキシコにあるルチャ・リブレ・クラシカという、間接技とポイント制によるルールを用いた競技形式の為に使われたものである。

リング外には転落時の衝撃を和らげるためのマットを敷く団体がある。また、観客席とリングの間に鉄柵を設置する団体もある。


プロレス 階級
多くの団体はレスラーの体重を基準にヘビー級とジュニアヘビー級(クルーザー級、ライトヘビー級)に区分される。基準は概ね100kgを基準とするが全日本プロレスでは105kgまでがジュニアヘビー級として扱われる。ボクシングと違い公式な計量は存在しない事が殆ど。階級を超えたマッチメイクもしばしば行なわれる。旧ZERO-ONEは巨漢レスラーが多く参戦していたためにヘビー級の上に130kg以上のスーパーヘビー級を置いた事がある。NWAはミドル級、ウェルター級などより詳細な階級区分を行なっている。


プロレス プロレスの起源と歴史
その起源は、イギリスのランカシャー地方のランカシャーレスリング(キャッチ・アズ・キャッチ・キャン)にあると言われている。レスリングのグレコローマンスタイルを賞金マッチで行ったものがアメリカで行われていた記録もあり、もう1つのプロレスのルーツとなっている。

19世紀の初め頃に、ボクシング(有名な「プライズ・ファイター」(現在のボクサー)ジェームス・フィグはベアナックル(素手)、蹴り技、投げ技、絞め技、噛み付き、目つぶし、髪の毛つかみのある当時のボクシングのほかレスリングも得意であった。)とともにイギリスで興行が開始されている。
1830年代にはアメリカにレスリング勝者に懸賞金が与えられるという興行が伝えられエイブラハム・リンカーンも行なっていた。キャッチ・アズ・キャッチ・キャンとグレコローマンのミックスマッチ(3本勝負で混ぜる)や、それに腰から下へのキックを認めるというような変則的なルールが各地・各試合毎に行われていた。後に現在の形となる
現在のプロレスに直接つながっているのは、19世紀後半のアメリカに広まったカーニバル・レスリングとされる。カーニバル・レスリングは、"athletic show"あるいは短く"at show"と呼ばれた、いわゆるサーカスの出し物として行われ、その中では、レスラーが観客の挑戦を受けたり、レスラー同士の模範試合を披露していた。19世紀以前にはレスリングのみのショーは試合数が限られていたため、レスリングを職業として生活するためには、このようなカーニバル・レスリングに参加するか、一人で旅芸人として巡業する必要があった。 大仁田厚は自身が設立したFMWへの批判に対して「プロレスの起源はサーカスの見世物」と反論したが、大仁田とは対照的な正統派ルー・テーズも、自伝においてカーニバル・レスリングと旅芸人がプロレスの起源と述べている。カーニバル・レスリングをプロレスの起源とする考えはアメリカでは一般的であり、kayfabe(ケーフェイ)、mark(マーク)、boy(プロレスラー)、bump(受け身)といったプロレスの隠語も、カーニバル・レスリングで用いられた言葉とされる。 一方、日本のプロレス研究家、あるいは、マーク向けライターはカーニバル・レスリングをプロレスの起源とすることに否定的である。例えば、日本において出版されたルー・テーズの自伝では、前述のプロレスの起源に関する記述はない。これは、"at show"の内容が非常に娯楽色が強く、プロレスを真剣勝負として紹介している人たちのビジネスに都合が悪いためと思われる。

20世紀に入ると、ジョージ・ハッケンシュミット、スタニスラウス・ズビスコといったヨーロッパの強豪レスラーがアメリカを訪れ、トム・ジェンキンス、フランク・ゴッチらアメリカ人レスラーと対戦し、レスリング・ショーを盛り上げた。 1910年代よりアメリカの人口は都市に集中し始め、その結果、町から町へ渡り歩く"at show"は下火となり、レスリング・ショーは都市を中心としたテリトリーで行われるようになった。このことは、レスラー間のつながりを強め、事前に試合内容を調整することを容易にした。 1920年代になるとエド・ルイス、トーツ・モント、ビリー・サンドウ(通称「ゴールドダストトリオ」)が数百名のプロレスラーを配下にし、プロレスラー同士で架空のストーリー(最も分かりやすいのは「善玉」と「悪玉」の戦い)を演じさせた。また、事前に試合時間と結末を調整することにより、従来のワンマッチ・ショーに代わって、複数の試合からなるショーを行った。これによりプロレスの人気は高まったが、一方で、報道、賭博など社会的な場において、プロレスが普通の意味でのスポーツとして扱われる機会は激減した。 1930年代にはプロレス・ショーの仕組みは完成し、その後、メキシコや日本、カナダなどにも伝わる。なお、メキシコのプロレスはルチャリブレと呼ばれる。


プロレス 新しい試み
2005年3月に、アメリカ合衆国でRPW(Real Pro Wrestling)なる新しいプロリーグが誕生し活動している。これは全米大学体育協会(NCAA)レスリング大会などのアマチュアレスリングで活躍した選手が全米各地区のチームに所属して、純粋な競技スポーツとしてプロ・レスリングの活動を行うというもので、活動の成否と今後の動向が注目されている。 

外部リンク Real Pro Wrestling

プロレス 日本におけるプロレスの歴史

プロレス 戦前
最初の日本人プロレスラーはソラキチ・マツダとされている。戦前にはハワイでキラー・シクマ(志熊俊一)が日本人初の重量級プロレスラーとして活躍した事が、プロレス系の個人サイトに遺族が投稿したのを機に近年、明らかになった(後に週刊ゴングで漫画化されている)。その他、数名の日本人が主にアメリカでプロレスラーとして活動していた事が確認されている。


プロレス 戦後・力道山の時代
日本の大手プロレス団体は力道山がデビューした1951年を日本におけるプロレス元年としている。プロレス興行が根付いたのは戦後、力道山が1953年に日本プロレスを旗揚げしてからの事である。しかし戦前にもいくつかのプロレス興行があったことが確認されている。また、戦後も柔道家の木村政彦、山口利夫らが力道山より早くプロレス興行を始めていたが、最終的には力道山の手によって統一される。戦後間もない頃で多くの日本人が反米感情を募らせていた背景から、力道山が外国人レスラーを空手チョップでなぎ倒す姿は街頭テレビを中心に人気を獲得し、プロ野球、大相撲と並び国民的な人気を獲得した。


プロレス 昭和後期・BI砲の時代
その後、日本国内においては力道山の率いる日本プロレスの独占市場であったが、力道山の死去後、東京プロレス・国際プロレス(現在は消滅)が相次いで旗揚げし、さらに力道山死去後の日本のプロレスを支えていた、アントニオ猪木が新日本プロレスを、そして、ジャイアント馬場が全日本プロレスを旗揚げし、両エースを失った日本プロレスは崩壊する。それ以降しばらくの間、上記の2団体と当時は健在だった国際プロレス、そして女子プロレス団体である全日本女子プロレスの4団体時代が続く事になる。1970年代以降、猪木はプロレス最強を掲げてウィリエム・ルスカ、モハメド・アリらと異種格闘技戦を行い、馬場もNWAとのコネクションから多くの大物外国人レスラーを招聘しそれぞれ人気を獲得した。

1980年代に入ると猪木の弟子である藤波辰巳、長州力、馬場の弟子であるジャンボ鶴田、天龍源一郎らいわゆる鶴藤長天が台頭する。また、新日本では佐山聡がタイガーマスクとしてデビューし、それまでヘビー級の過渡期として位置付けられていたジュニアヘビー級をヘビー級から独立した独自のカテゴリーとしてその礎を築く。1984年にはUWFが旗揚げされ、ショー的要素を排除したシュートスタイルのプロレスを確立し、後の総合格闘技の台頭への布石となる。


プロレス 平成期・プロレス人気の低迷と団体乱立
1988年には大仁田厚がFMWを旗揚げ。デスマッチを主体とした興行で成功を収め、インディー団体というカテゴリーを確立。1990年代に入るとFMWの成功を受けて多くのインディー団体が相次いで旗揚げされ、団体乱立の時代を迎える。この頃から馬場、猪木が第一線を退き、プロレス人気に翳りが見えるようになる。それまでゴールデンタイムで中継されていたプロレス中継は深夜帯へと移動し、ジャンルのマニアック化が進む。一方、興行面では東京ドームなどの大会場の使用が進んだ事もあって観客動員においては最高潮を迎える。この頃からアメリカンプロレスがテレビ主導の興行に切り替えを行なったため外国人レスラーの招聘が困難になり、日本のプロレスは日本人レスラー同士の戦いに重点を置くようになる。新日本では闘魂三銃士、全日本では四天王が台頭し、現在まで業界を牽引している。一方、第2次UWFはリングス、UWFインターナショナル、藤原組に分裂(藤原組はその後さらにパンクラス、格闘探偵団バトラーツに分裂)し、細分化が進む。1990年代後半に入るとK-1、PRIDEなど総合格闘技が台頭し、それまでプロレスが請け負っていた異種格闘技としての側面を奪われる形となる。古くからアントニオ猪木が「プロレス最強」を掲げていた背景から、これを受けて多くのプロレスラーが総合のリングに参戦するが、結果を残したレスラーは少なく人気低迷に拍車をかける。


プロレス 現在
2000年代に入ると日本のプロレス界の勢力が一変する。全日本では馬場の死後、社長に就いた三沢光晴と馬場の未亡人として経営の権限を持つ馬場元子が団体運営を巡って対立、三沢は殆どの所属選手と共に団体を退団し、プロレスリング・ノアを旗揚げする。新日本でも橋本真也が団体を解雇され、新たにZERO-ONEを旗揚げし、新たな4団体時代を迎える。一方、所属選手の殆どを失った全日本は団体存続をかけて新日本との交流に踏み切る。2002年に武藤敬司が新日本を退団し全日本に移籍、同年10月に同団体の社長に就任する。メジャー団体とインディー団体の交流は1990年代から頻繁に行なわれていたが、2000年代以降はメジャー団体同士の交流が盛んに行なわれている。また、この頃からWWEが日本でも人気を博し、その流れを受けてWRESTLE-1、ハッスルなどエンターテイメント志向のプロレス興行が行われるようになる。2006年にはグローバル・レスリング連盟が発足し、国内初のプロレス統一機構の確立を目指している。


プロレス 女子プロレス
女性レスラーによって行われるプロレス全般を指す。アメリカでは、すでに1930年代末には女性レスラーが存在し、男のプロレス興行の中で試合を行っていたと言われている。

日本においては、戦後間も無く進駐軍相手の興行としてスタートし、歴史的には力道山がプロレスを始めるよりも前に存在している。

ただし、その当時の女子プロレスは、主な会場が芝居小屋やキャバレーやストリップ劇場等で、試合も対戦相手のガーター(下着)を奪い合うと言った、お色気を強調したものであり、今現在行われている女子プロレスとはかなり違うため(現在に当てはめると、キャットファイトに近い)、これを『プロレス』と呼んで良いのか、意見の分かれる所である。

尚、上記を女子プロレスと定義した場合、日本人最初の女子プロレスラーは東京コミックショーのショパン猪狩の妹である、猪狩定子だと言われている。

この様な形で始まった日本の女子プロレスだが、しばらくの後、当時の全米トップレスラー達を招いて蔵前国技館を始めとした大会場にて興行を行い、満員の観衆を集め大反響を得たため、それまでのお色気を強調したものから、現在のプロレスに近い形が出来上がって行く事になる。

これを機にいくつもの団体が乱立したものの、最終的には現在の興行形態を作った全日本女子プロレスが女子プロレス団体として勝ち残り、後にビューティーペアの登場により女性ファンの人気を集めブームとなり、それ以降もクラッシュギャルズなどスター女子レスラーは女性人気を得る事となる。

1990年代に入り、ユニバーサル・プロレスやW★INGと提携した全日本女子が選手・試合を提供したことで、男性のプロレスファンから注目を集め、FMW女子部と全日本女子の対抗戦が契機となり、全日本女子プロレスを中心に団体対抗戦が東京ドームなど大会場で行われるほどの人気を得た。クラッシュギャルズ以来の女子プロレスブームが起こり、女子プロレス単体でゲームソフトが発売されるほどだった。

現在は、女子単独団体の場合、後楽園ホールでの興行がビッグマッチとなる程度の規模にまで縮小している。主な理由として、以下の様なものが挙げられる。

対抗戦による大物同士のカードが消尽された
全日本女子とFMW女子部の試合を契機に、当時の全ての女子団体(全日本女子・FMW・JWP・LLPW)が対抗戦に参加し、人気を博すものの、各団体の思惑から対抗戦が乱発され、大物同士の対抗戦ですら日常的になってしまい、試合カードの希少性が失われた。また、団体を超えたチームも多く組まれ、対抗戦から交流戦に質が変化したものの、対抗戦ほどの熱狂は得られなかった。
団体分裂・小規模団体乱立
日本女子プロレスの中心となっていた全日本女子プロレスから人気レスラーが相次いで退団し、新団体を発足したりフリーとなるものが増えた。また、団体のみならず選手が単独あるいは複数のユニットによる興行(プロモーション)も行われるが、選手の貸し借りが恒常的に行われているため、どの興行でも参加しているレスラーに差が見られず、興行の差が乏しい。法人登記するよりも、個人ないしはユニットで興行を行う方が金銭的などのリスクが少ないことも興行数の増加を招いた。
認知度不足
細分化により発生した小規模団体は資金力が乏しいため、移動・宿泊などの経費がかかる地方巡業・興行が行えない。当然、興行は首都圏での開催に集中し、ブームが去って減少したファン・観客(後述)を奪い合うことになる。また、地上波テレビ放送は全日本女子の放送が打ち切られて以降行われていない。スポーツ新聞などマスコミでの取り扱いもごくわずかである。
新人スターレスラーが生まれなかった、高年齢レスラー中心の運営
ほとんどの団体に共通して発生した問題。ベテランレスラーは対抗戦ブームの際に得た知名度のため、各団体の中核となりメインイベントに出場し一線を引かなかった。彼女らがキャリアを積み重ねる一方、多くの新人がデビュー後から数年で引退した。ベテランレスラーの知名度・集客力・スポンサーへの訴求力は経営上必要であったが、結果として若手レスラーが注目を浴びる機会がわずかとなった。全日本女子プロレスはかつて「25歳定年制」を定めていたため、選手層の入れ替えが強制的に行われていたが、対抗戦ブームの際当時の人気レスラー、ブル中野に定年免除を認めて以降、同制度は事実上消滅した。この結果、現在の女子プロレスでは、トップクラスのレスラーの年齢は40歳前後となっている。女子プロレスの持つ華やかさが薄れ強さや激しさを求めることとなるも、若い選手が多く出場する女子総合格闘技の興行が増え、一部のファンが流れたことも衰退の原因のひとつである。また、他の女子スポーツの人気が高くなり、プロレスラー志望の女性は少なく珍しいものとなっている。
プロスポーツの細分化
上記の話に関係するが。かつては女子のプロスポーツと言えばプロレス以外にはゴルフ・テニス・ボウリング等限られたものしか無く、それらはプロとして生活するには相当の投資が必要となるため、何も無い状況からプロとして生活出来るのはプロレスしか無い状況だった。しかし現在はどんなスポーツでもスポンサーがつけばプロとしてやっていけるため、自分の好きなスポーツを選ぶ選択肢が増え、プロレスを職業として選ばない女性が増えてきた事も挙げられる。
ファン層の変化
ビューティペアやクラッシュギャルズがスターとして活躍していた際は宝塚歌劇団の様に、女性ファンが大半を占めていた。その後90年代の対抗戦ブームでは男性のプロレスファンの割合が高まる代わりに従来の女性ファンは減ってしまった。ブームが去り、団体の分裂・縮小期に入ると対抗戦ブーム時の男性ファンも去ってしまったため、ファンの絶対数が激減した。辛うじてGAEA JAPANが90年代以降も女性ファンを多く獲得していたが、参戦選手の半分近くをフリーランスに依存していた事などが原因となり現在は解散している。
以上のことから、女子単独団体による女子プロレスは、初心者への参入障壁が高く、しかも新規ファン層を取り込む機会が乏しいジャンルとなり、固定ファン向けの方向性を進み続けている。

女子選手のみ単独団体が興行を行っている国は、世界中でも日本だけである。女子プロレス自体はメキシコや韓国、そしてアメリカにも存在するが(かつてはイギリスでも女子プロレスラーが存在していたと言われている)、メキシコや韓国では女子だけで興行を行う事は無い。アメリカでは以前は女子のみの団体も存在したが、スタジオマッチ等の興行が主であり、日本のような全国を回るような興行形態では無い。それを考えると日本の女子プロレスは非常に稀有な存在でもあると言える。


プロレス マスコミにおける取扱
かつて、各新聞社やテレビ局において、スポーツかエンターテインメントか議論となったが、新聞では一応はエンターテインメントという形で決着した。
テレビ(中継対象として)
日本の地上波では、日本テレビやテレビ朝日、およびその関連局が大手団体の興行を中継(主に録画)している。かつてはゴールデンまたはプライムタイムに60分の番組枠を持っていたが、現在は深夜に30分と縮小されている。ケーブルテレビやCSといった有料放送でも放送しており、専門チャンネルも存在する。アメリカでは、USA NetworkやSpike TVが放送を行っている。
テレビ(報道対象として)
エンターテイメントであると同時にスポーツでもあるという認識で、スポーツ番組でもまれに取り上げる。NTVやテレビ朝日など、プロレス中継を行う局が取り上げることが大半。芸能人が試合を行う場合は、ワイドショーで扱われることがある。
一般新聞
スポーツ面に掲載されることはない。著名レスラーの死去、興行会社の倒産、関係者が刑事事件を起こす、といった場合に報道される程度である。
スポーツ新聞
紙面上の扱いに新聞間で差があるものの、プロレス以外の格闘技と同様に報道される。試合結果、インタビューなどが掲載される。
かつては、試合内容を載せるのは日刊スポーツと東京スポーツのみ、そのほか報知新聞とデイリースポーツが試合結果を掲載するだけだったが、小川直也のプロレス参戦と同時に、各紙とも掲載するようになった。
専門誌(紙)
新聞と同様、試合結果(詳細な試合レポート)、選手インタビュー、その他企画記事などを掲載している。新聞よりも、各団体のアングルの展開状況を解説する役割が強い。基本的にマーク層を主要購買層とし、プロレスを純粋な勝負であることとして扱う。
団体が増え、その一方でテレビ・新聞報道が少なかった時期(主に1990年代)は、試合内容を早く・詳しく知るための中心的な存在であり、ビッグマッチの数日後に「速報」という形で増刊号を発行することも多かったが、インターネットの普及により、その優位性はほぼ失われた。そのため、電子メディアとの差別化に苦しんで、発行部数は減少しつつある。それに伴い、掲載広告はプロレス関連企業の比率は低下し、消費者金融や出会い系サイトなどの割合が高くなっている。週刊ゴングはプロレスとは全く関係ない玩具やアクセサリの誌上通販、出会い系サイトの広告を行っている。以下は専門誌の代表的なもの。
週刊プロレス
週刊ゴング
kamipro(旧:紙のプロレス、紙のプロレスRADICAL)
報道における特徴
解説
プロレス報道における最大の特徴は「選手経験を持つ、専門の技術解説者がいない」ことである。テレビ放送時はアナウンサーと解説が付くことが通例であるが、その場合の解説者は、現役レスラー、OBレスラー、マスコミ関係者である。
野球やサッカーにおいては、解説者は必ずしもその球団のOBではない。異なるリーグで一度も対戦経験の無かった、元選手が解説をすることも珍しくはない。しかし、プロレスの場合、引退後にフリーの技術解説者になって様々な団体の中継で解説を行うことは無い。
活字メディアにおいても同様であり、引退した選手がコラムを寄稿することはあっても、その選手が全く関係を持たなかった団体の試合分析を行うことは無い。プロレスラーには厳密な引退は存在せず廃業のみがあり、現役復帰が極めて多いことも原因のひとつであると思われる。
プロレスがスポーツとして取り扱われない理由のひとつが、この技術解説者の件であると思われる。その競技経験の全く無いマスコミ関係者が、技術面について語る競技は競馬などのギャンブル競技を除けば他には存在しない。また、マスコミ関係者による解説は「気合」「殺伐」といった精神論的・抽象的表現に終始してしまうことが大きい。
また、技術解説書なども存在せず、「プロレス技図鑑」の類が存在するが、実際の技のかけ方・注意点を現役レスラーが解説している技術入門書は存在しない。プロレスほど形式知が皆無であり、暗黙知のみで構成される格闘技は無い。
一時期、大仁田厚がフリーの解説者になると表明したことがあったが、結局活動は行われなかった。
ジャーナリズム
プロレスにはスポーツジャーナリズムは存在しないことも特徴のひとつである。芸能産業・興行ビジネスであるため、何らかの形で各地域の暴力団と関係を持ちトラブルが発生したり、レスラーがマルチ商法の広告塔としてメディアに露出した場合は、前述の専門誌やスポーツ新聞は黙殺・無視のスタンスを取り、報道を行わない。この様なトラブルを扱うのは主に一般週刊誌などである。近年では暴露本の類のムックが多く発行される様になった。
日本のプロレスにおいては、しばしば団体から報道各社に対し「取材拒否」が行われることがある。これは、団体に対し不利益な記事を書いたために行われることが大半である。取材拒否はそのまま販売部数の減少に繋がるため、広告収入で成り立つマスメディアにとって致命的となるため、プロレス紙誌は各団体の機関誌・広報誌以上の内容にはならないことが大半である。
力道山時代からプロレスは「プロレス村」と表現される程に閉鎖的・排他的傾向を持ち、プロレスマスコミもその閉鎖性を保持・維持する立場を取ることが多い。PRIDEがKRSによる主催であった時代「あなた達(KRS)は何者なんですか」という質問がされたことを代表に、詳細な取材よりも団体から流されるリリースをそのまま掲載することが大半である。
選手インタビューと銘打たれていても事実を述べてそれに対しての選手や考え方を訊く、質問の意図が明確な内容よりも選手の独白形式に記者が解説・脚注を加える程度のものが掲載されることは珍しくない。簡潔な文章よりも詩的修飾語が多用される記事が載ることも特徴のひとつである。
後述する台本などの存在は、一般ファンにもその存在が広く認知されるようになっても、専門紙誌に公表されることはない。そのため、台本の存在を肯定したWWEなどの興行を「大会」や「試合」でなく「公演」と表現し、暗に日本のプロレスと違う、という線引きをしているマスコミも存在する。

プロレス ショー的側面

プロレス メッセージ性
プロレスにおいては他の興行、スポーツ、格闘技などとは比較にならないほど細かい部分にメッセージが込められていることが多い。レスラーが自らのイデオロギーを入場時のテーマ曲、コスチューム、ひとつひとつのパフォーマンスあるいはアピール、試合中の技のひとつひとつ、マイクパフォーマンスなどに込めることで、自らのキャラクタを作り上げていくのである。プロレスファンは自らの知識と想像力で、「この部分、この変化にはどんな意味が込められているのか」を考えながら楽しむのである。


プロレス 台本(ブック)
ブックとはプロレスの試合における段取りや勝敗の付け方についての台本のこと。この台本を考える人間を「ブッカー」または「マッチメイカー」と呼ぶ(ただしbookerのbookは「出演契約を取る」という意味のbookであり、「脚本家」という意味ではない)。ブッカーは試合展開や決着方法についての台本を考え、レスラーはそれに合わせた試合を行う。勝敗以外の詳細な試合展開については、試合を行うもの同士の裁量に任されることが多いと言われる。

基本的にブックは当事者以外には知らされないとされているが、音響・撮影スタッフに伝達されることがある。インターネットオークションでZERO1の興行「ZERO1 USA」の進行用台本が出品されることがあった。日本では、FEGと全日本プロレスが中心になって開催されたイベント、「WRESTLE-1」において、小島聡の叫び声と同じ言葉「いっちゃうぞバカヤロー」が電光掲示板に表示され、レスラーと会場スタッフ間での段取り決めがあることを示した。また、日本の週刊誌(アサヒ芸能)が、「ハッスル2」の会場スタッフ用台本を誌面に掲載したことがあり、それには勝者用のテーマ音楽についてなどの指示が記載されていた。

WWEの内幕を描いたドキュメンタリー映画『BEYOND THE MAT』では、ザ・ロックとミック・フォーリーが場外乱闘時の観客席の移動ルートや、パイプ椅子での殴打回数などを打合せするシーンが見られる。またWWEは税制上の理由(スポーツよりショービジネスとして登録する方が税金・保険料が低くなる)から台本の存在を公言した。また、所属レスラーが死亡した際に、物語上で対立していたレスラーが「対立はあくまでもエンターテインメントであり、リング外では家族の様な関係であった」と自身のWebサイトで弔意コメントを出した。

日本の場合は団体自らが台本の存在を公言したことは無い。芸能人やタレントも試合を行うハッスルの様に「エンターテインメント」をキャッチコピーとして用いる団体は存在する。日本のプロレスで台本の存在が公になったのは法廷である。大仁田厚と渡辺幸正の試合終了後の乱闘で渡辺が負傷したことについての裁判では、東京地方裁判所が「通常のプロレス興行で、事前の打ち合わせ無しに相手に攻撃を仕掛けることは許容されておらず、観客に見せるプロレス興行としては異質の暴行」との判例を出した。また、女子プロレス(アルシオン)でもアジャ・コングとロッシー小川(小川宏)社長間の名誉毀損や肖像権をめぐる裁判で、台本の存在を認定した上で判決が行われた。

裁判以外でも、個人が日本の団体における台本の存在を明かすことはある。

マット・モーガンが海外でのインタビューで、新日本プロレスで永田裕志と試合を行った時、フィニッシュ(決着を付ける技)だけは前もって説明が必要であったが、それ以外は話すことなく試合をさせてくれるので自由で良い団体だ、と語った。近年多く出版されるプロレス内情暴露本では新日本のOBレスラーが、昔は台本はあってもそれ以外の部分は必死に戦っていたのに、今のレスラーは必死さが足りないと嘆く形で、存在が明示された。

台本の存在や取り決め方は新日本プロレスのレフェリーであった、ミスター高橋が自著で詳しく述べている。また、プロレスの台本の存在をトリックに組み込んだミステリー小説『マッチメイク』が江戸川乱歩賞を受賞した。

新日本プロレスで行われた異種格闘技戦も台本が存在したとミスター高橋は著書で述べている。代表的なものとして、柔道メダリストのウイリエム・ルスカとアントニオ猪木が試合をした場合も、ルスカはプロレス技を数多く受ける台本を打ち合わせの時点で了承していたと述べた。

金子達仁による高田延彦を扱った書籍『泣き虫』において、高田が台本の存在を明示している記述がある。

個人が台本の存在を明示することはあっても、全ての団体・全ての試合に台本があるという証明がされているわけではない。


ラジオ番組ANNで、ゲスト出演した構成作家が某女子プロレス団体でも仕事を行ってると発言した。


プロレス アングル
試合以外にも、リング外での選手・グループ・団体間の衝突(主に抗争、と表現される)のアングルと呼ばれるストーリー展開も重要な要素である(詳細についてはアングルを参照のこと)。いかに観客の注目を集め、継続性の強いアングルを展開出来るかが、観客動員に大きく影響する。

アングルを巡業(シリーズ)を通じて展開・消化し、最終戦において(大会場で開催され、テレビ放送ではペイ・パー・ビューとなる場合が多い)決着を着ける。そして新しいアングルを展開する。プロレスは試合とアングルを楽しむものであり、連続ドラマと類似している。

インディーと呼ばれる小規模団体・プロモーションもアングルの展開はあるが大手団体と異なり、専門誌以外でのメディア露出度が低いため、一見の観客には理解しにくいことが多い。また、学生プロレスやアマチュアプロレスではアングルはほとんど無く、ギミック(詳細は後述)や試合で楽しませることが中心である。


プロレス ギミック
特に20世紀中期以降のアメリカ合衆国のプロレスなどの場合、選手には一定のキャラクターギミックが要求された。特定の人物が悪役(ヒール)として振る舞う。悪役は反則するのが当たり前で、審判の目を盗み、あるいはその制止をも無視して反則技を振るい、客の正義感を沸き立たせる。大半は最後に敗北し、客は溜飲を下げるが、場合によっては反則攻撃などの汚い手段で勝利・反則負けをする。悪役が勝っても反則負けをしても、次回の試合への客の関心を集める役を果たす。これに対して、正義漢・善玉の役割を演じるのをベビーフェイスという。やられ役が負けることをジョブという。

特にアメリカのプロレスではその面が顕著で、日本でも昭和期のプロレスにはその色が強かった。悪役は往々にしてステレオタイプな嫌われ者を体現し、特に外国選手では、人種的民族的偏見を明確に示す場合があった。第二次大戦後のアメリカでの日本人プロレスラーは、背が低く、目は細く、刈り上げで小太り、黒タイツに下駄を履いている。試合開始を待たずに奇襲攻撃し、最後は負けて土下座をする、など。現在でもWWEを初めとしてギミックレスラーは存在している。ギミックはレスラーが考えることもあれば、団体から提示されるものもある。

近年はヒールは良識人で無ければ務まらないことが認識されつつあり、試合が面白くないのに言動が伴わない「リアルヒール」が憎まれる傾向が強くなっている。

なお、ギミックはプロレスに限った話ではなく、例えばボクシングの「亀田三兄弟」など、他の格闘技においても明らかにギミックと理解出来るユニットが登場している。


プロレス 暗黙の了解
観客の鑑賞対象として、興行として成立させるため、プロレスには様々な暗黙の了解的な行動が存在する。これらはケーフェイの代表例。その他の例についてケーフェイの項を参照とのこと。

5秒ルール:反則は、レフェリーの5カウントまでにやめなければ反則負けとなる。しかし、これは「カウント内なら許される」ものであり、カウント内の範囲で凶器の使用をも行う点がプロレスらしさであるといえる。(但しWWEなど主に米国の団体では凶器による攻撃や急所攻撃は即刻反則負けになる場合もある。)また、通常格闘技では複数のレフェリーまたは判定員が判定を行うがプロレスでは基本的にレフェリーはリング上にいる一人のみであり、すなわちレフェリーが見ていない行為は判定の対象にならない。そのためヒール側のセコンドがレフェリーの気を引いている隙に反則行為を行う事がしばしばある。試合の攻防にレフェリーが巻き込まれて失神した場合などはレフェリーの意識が回復するか別のレフェリーに交替するまでの間はノールール状態となり、あらゆる反則攻撃が許される事態となる。
ロープブレイク:ロープブレイク時に技を解除しない場合、即時の反則負けではなく5秒ルールが適用される。一旦その場で技を解除し再びかけたり、カウント中にリング中央に引きずり戻した場合、カウントは解除され、試合は続行される。つまり、技がかかっている状態のみがカウント対象となる。
これらをスムーズに行い、観客の熱狂を高めることが出来るものがスターレスラーと認識される。ケーフェイとは「be fake(虚構)」が逆転した隠語のこと。


プロレス スポーツ的側面
ショー的側面、そして総合格闘技の隆盛によりプロレスを「八百長」「真剣勝負ではない」とする声が多々あり、スポーツ的要素などは皆無だと思われがちであるが、これは明確な誤謬である。その理由を以下に述べる。

まず、スポーツという概念がジョギングやエアロビクスダンスなどのように、勝敗を競わない運動をも包摂するということを忘れてはならない。本来プロレスは極めて激しくまた高度な技術を要求される運動であり、その運動強度は数あるスポーツの中でも屈指である。

プロレス以外の多くの格闘技の試合は、ルール内で許されているあらゆる選択肢の中から競技者が勝利に対して最も合理的と考えるものを選択してゆくことで成立しているのに対し、プロレスの競技者ははしばしば勝利から遠ざかるような選択を行う(リングアウト寸前の対戦相手をリングに戻す、対戦相手の技を回避せずに受けるなど)。

プロレスの競技者は、勝敗だけではなく「いかにして観客に感動を与えるか」という美的課題にも同時に挑戦しなければならない、極めてユニークなアスリートなのである。

試合を生み出す為の方法論として広く知られているのが「受けbump」である。プロレスの競技者は相手の攻撃を敢えて「受け」る。「受け」は、攻撃側の技術の完成度や威力、物語などを観客に享受させる最も有効な手段なのであり、プロレスの競技者はお互いの攻撃を「受け」あうことで、観客の美的関心を満足させてゆく。また「受け」はそれ自体が極めて過酷な運動でもあり、「受け」の質および量に秀でた競技者は、一般的に言って優秀なプロレスラーと目される。

また、プロレスは競技スポーツであると同時に舞台演劇でもあるため、そのどちらの要素をどれだけ重視するかによって、試合/作品に無限のバリエーションを持たせることが出来る。その片方には小川直也対橋本真也のような「シュート」(演劇的要素を無視した試合)から、反対に「ハッスル」の試合のような「ケーフェイ」(筋書きが予め決められている演劇作品)がある。これがプロレスの魅力であり、またプロレスが忌避される原因にもなったのである。

リング上等での怪我で、死者や障害、後遺症を持った選手も出ており、危険なショー・エンタテイメントである。


プロレス 特殊世界
この業界は「一旦退団した団体に復帰する」といった例を初めとして、離合集散が多い。長州力の2度にわたる新日本マット復帰は、一般社会ではまずありえない事である。
「絶対」という言葉の信用性が無い世界である。ジャイアント馬場の生存時は、馬場自身嘘が嫌いだった事もあり、その言葉には信用性があった(ex:馬場は全日本を退団した日本人選手は絶対に再び全日本マットに上げる事はなかった。)。しかし馬場が亡くなってからは、プロレス界におけるその言葉の信用性は完全に崩れさり、これまで絶対にありえないと言われていた事が、数年後時代の変化とともに現実になったという事が多々ある。また、「絶縁」(団体、或いは選手個人に対して)という言葉も多い世界だが、それも過去の歴史を振り返れば、数年後にはどうなっているかわからない。WWEのストーリー上では「決して~ない、ということはない」の意味で「Never say never」が使われたこともある。

馬場が最後まで認めなかった天龍の全日本マット復帰が馬場死去後僅か1年半で実現。
新日本と全日本の対抗戦が実現。川田利明が新日本マットに参戦し、当時の新日本トップ佐々木健介と対戦。
三沢光晴と小川直也の禁断のタッグマッチ。
武藤敬司の全日本プロレス社長就任。
NOAHを立ち上げ絶対に二度と無いと思われていた三沢の4年ぶりの古巣全日本参戦(三沢自身も全日本離脱時「もう二度と無い。馬場さんが生きていたら別だけど。」とコメントしていた。)。

プロレス 用語の特殊性
日本のプロレスにおいては、企業経営で用いられる言葉を、他の表現に言い換えることが多い。以下はその代表例。また、日本のプロレスのビジネスモデルの基盤を成立させた力道山が相撲取り出身だったため、隠語は相撲と共通するものが多い。

団体
プロレスラーあるいは他のスタッフと契約し、興行を行う一般では興行会社と呼ばれるものをプロレスではこう称する。レスラーが所属せず興行ごとに要員を契約する会社を、「プロモーション」と呼ぶ場合もある。道場(練習施設)を自社保有していれば団体と呼べる、と指摘されることもあるが、厳密に団体・プロモーションを分ける基準は無い。そのため、数人程度の所属選手とフロントのみで、練習は他団体の道場やジムで行っている興行会社であっても「団体」を自称する興行会社は多い。
規模によってメジャーあるいはインディーと分類される(詳細は後述)。また、地方興行において、団体から興行権を買って興行を行い、事業収入を得る法人は「プロモーター」と呼ばれる。

旗揚げ
前述の興行会社が登記、開業することを指す。開業後に初めて行われる興行は「旗揚げ戦」と呼ばれる。
参戦
業務提携により、興行会社間でレスラーを人材派遣する場合に用いる表現。レフェリーなどその他裏方と呼ばれる人材も派遣する場合があるが、参戦という表現は用いられない。
メジャー/インディー
プロレス団体は、メジャー(ないしはインディー)団体と表現される場合がある。規模の大きさに依存する概念である。海外の場合WWEは株式上場しているが、現在のところ日本では上場している団体は無い(2006年9月に大阪プロレスが株式を公開し、将来的に上場するという予定を発表している)。基本的に独立系興行会社であり、いわゆる「メジャー団体」であっても、日本の場合は社員数が50名弱ほどの規模であり一般的な基準から言えば、中小企業にしか過ぎない。そのため、日本においては中小企業をメジャー、それ以下の零細企業をインディーと区別していることになる。運営規模から総じて地域密着型の団体が多く、所属レスラーもメジャー団体に比べて小柄なレスラーが多い。規模や旗揚げの経緯からメジャーにもインディーにも括りきれない団体(パンクラス、ZERO1-MAXなど)は「準メジャー」「ボーダー」と表現される事もある。
メジャー/インディーの区分の基準には団体規模以外にも以下のものを提唱する人間が一部いる。
地上波テレビ中継の有無
全国規模の巡業
団体または関連会社が管理する道場(寮とリング他練習用具が一体となった施設)の有無
かつては小規模団体は自前でリングを持たないため、練習は他団体の施設を空き時間に借り、興行ではリング屋から賃貸することが多かったが、近年は小規模団体でも練習設備が充実している団体が多い事から現在使用される事はほとんどない。
X(エックス)
試合カードが『●● vs X(エックス)』という形で発表されることがある。この「X」とは「出場者未定」の意味。詳細はX (プロレス)の項を参照。

プロレス 団体/プロモーション

プロレス 日本の団体/プロモーション

プロレス 現存する団体(男子)
新日本プロレス
全日本プロレス
みちのくプロレス
パンクラス
IWA・JAPAN ※男女混合
SGP
大日本プロレス
格闘探偵団バトラーツ
DDTプロレスリング ※男女混合
国際プロレスプロモーション
大阪プロレス
プロレスリング・ノア
KAIENTAI-DOJO ※男女混合
プロレス活き活き塾・無限 ※男女混合
WMF
大分AMWプロレス
DRAGON GATE
リキプロ
グレートプロレスリング 
ZERO1-MAX ※男女混合(フリーで女子が参加)
リアルジャパンプロレス
ビッグマウス・ラウド
静岡プロレス
プロレスリングElDorado~NEXT door PROJECT~
無我ワールド・プロレスリング
イーグルプロレス
ガッツワールド ※男女混合
キャプチャー・インターナショナル
喧嘩プロレス二瓶組
新宿プロレス
ターザン後藤一派
東海プロレス
日本プロレス連盟JWF
プロレスリングF.W.F
プロレスリングFTO
プロレスリング華☆激
プロレスリング・ガロガ
プロレスリングナイトメアー
北都プロレス
沼津プロレス
CMAプロレスリング
CROWN
FUCK!
J2K
r
T.A.M.A.
U-FILE CAMP
WWS
YMBプロモーション

プロレス 消滅または休止している団体(男子)
日本プロレス
全日本プロレスリング協会
国際プロレス団
アジアプロレス
東亜プロレス
北日本プロレス
アイヌプロレス
東京プロレス
国際プロレス ※一時男女混合
UWF(第一次、第二次)
ジャパンプロレス
パイオニア戦志
FMW ※男女混合
ユニバーサル・プロレスリング ※一時男女混合
SWS
藤原組(現在は藤原喜明の個人事務所)
UWFインターナショナル
リングス
世界格闘技連合W★ING
W★INGプロモーション
WMA
WAR
NOW
オリエンタルプロレス
IWA湘南
PWC
SPWF
武輝道場
新格闘プロレス
どさんこプロレス
IWA格闘志塾
新東京プロレス
西日本プロレス
レッスル夢ファクトリー
FSR
UNW
湘南プロレス
石川一家
キングダム
ZIPANG
CMLL JAPAN
ウエストジャパンプロレス
世界のプロレス
UFO
NEW NOW
闘龍門JAPAN
ZERO-ONE
WEW
WJプロレス
dragondoor
キングスロード

プロレス 現存する団体(女子)
※女男混合団体は『現存する団体(男子)』参照

JWP
LLPW
NEO女子プロレス
JDスター女子プロレス
我闘姑娘
センダイガールズプロレスリング
プロレスリングSUN

プロレス 消滅または休止している団体(女子)
※女男混合団体は『消滅または休止している団体(男子)』参照

日本女子プロレス ※のち国際プロレスに吸収
全日本女子プロレス
ニューワールド女子プロレス
ジャパン女子プロレス
GAEA JAPAN
アルシオン
AtoZ
ダリアンガールズ
M's Style

プロレス 現存するプロモーション
666
DSE『ハッスル』 ※男女混合
アパッチプロレス軍
フーテンプロモーション
T-1 ※女子
EWF『GIRLS DOOR』 ※女子
エキサイティングボックス ※女子
バトスカフェ※男女混合 

プロレス 海外の団体/プロモーション

プロレス アメリカの団体
NWA
AWA
PWF
WCW
ECW
AWAスーパースター・オブ・レスリング
CZW
WWE
TNA
ROH
APW
DRAGON GATE USA
IWA-MIDSOUTH
PWA
WCWA
WWC

プロレス カナダの団体
スタンピード・レスリング

プロレス ヨーロッパの団体/プロモーション
CWA
オールスター・プロモーション

プロレス メキシコ(ルチャリブレ)の団体/プロモーション
CMLL
UWA
AAA
WWA
WEDAI
闘龍門MEXICO
グルーポ・レボルシオン
プロモ・アステカ

プロレス プロレスを題材としたフィクション作品


プロレス 小説
お父さんのバックドロップ(中島らも)

プロレス 漫画・アニメ
タイガーマスク、タイガーマスク二世(原作:梶原一騎、作画:辻なおき)
プロレススーパースター列伝(原作:梶原一騎、作画:原田久仁信)
プロレス・スターウォーズ(原作:原康史、作画:みのもけんじ)
キン肉マン、キン肉マンII世(ゆでたまご)
THE MOMOTAROH(にわのまこと)
1・2の三四郎、1・2の三四郎 2(小林まこと)
アグネス仮面(ヒラマツミツル)
太陽のドロップキックと月のスープレックス(原作:ミスター高橋、作画:落合裕介)

プロレス 実写作品
プロレスの星 アステカイザー
1・2の三四郎(空手家・佐竹雅昭 主演で実写化)
いかレスラー
ナチョ・リブレ 覆面の神様
エル・ポポラッチがゆく!!
お父さんのバックドロップ


プロレス

国民体育大会

「スキー国体」存続危機
来年候補の長野、態度保留 


スキー国体の閉会式では来年の開催地が決まっていないため、通例の引き継ぎのセレモニーも行われなかった=13日、秋田県鹿角市の市記念スポーツセンターで
 国民体育大会冬季大会スキー競技会(スキー国体)の次期開催地が決まらないまま、秋田県で開催されていた「秋田わか杉国体」(第62回冬季国体)が13日閉幕した。会場が寒冷地に限られるうえ、財政難などから立候補する自治体がないためで、野沢温泉村での開催を打診された長野県も態度を保留。この日の閉会式では、大会旗を来年の開催地に引き継ぐ通常のセレモニーもできない非常事態となった。

 国体開催地は5年前に内定し、3年前に正式決定するのが通例。夏季大会は10年後の愛媛大会まで内定しているが、スキー国体の場合は再来年の新潟開催が決まっているだけだ。

 当面の最大課題は来年の開催地選びで、競技を統括する全日本スキー連盟(SAJ)は、苦肉の策として第1回大会が行われた野沢温泉村を開催地にできないか、昨年末になって突然、長野県と同村に打診した。

 もともと同県では来年、スケートとアイスホッケー競技を別会場で受け入れることになっており、提案は、地元負担はゼロにする代わり、皇室も招かず、警備費などを浮かした「運営費約7000万円」の節約計画だった。

 それでも、県側は「予算を削ってお粗末な大会になれば、笑いものになる」(担当者)と渋い顔。開催を希望する村長と、SAJ、県スキー連盟などが今月1日、村井仁知事に直談判したが「検討事項が多い」とかわされ、6日発表された県の新年度当初予算案にもスキー国体の関連経費は盛り込まれなかった。

 同県では「できるだけ早く結論を出す」としているが、先行きは不透明なまま。SAJでは「長野県に受けてもらえないと大変な事態になる。国体の灯は消せない」と焦りを隠せない。

 スキー国体の開催を自治体が避けようとする理由には開催地の「過密ローテーション」がある。これまで47都道府県すべてで実施している夏季国体に比べ、スキー国体の開催はわずか14道県。特に冬季五輪の開催で施設が整う北海道は最多の14回、次いで長野、新潟県が7回を数える。

 度重なる開催は、受け入れる自治体に大きな負担を強いる。長野県によると、来年のスケート国体の県負担金は約9200万円。屋外で行うスキー国体は、さらに会場維持費が増大するという。専従職員を配置した実行委員会の組織も必要で、財政難の県にとっては“国体貧乏”に陥る恐れもある。

 SAJが長野県に示した「7000万円プラン」には、暖冬の際の雪確保、豪雪時の除雪費は含まれておらず、同県は「今年の気候なら開催できない」と不安視する。プランは皇族の参観や、開閉会式、プレスセンターの開設もやめる内容で「国体がただの記録会になっていいのか」との疑問を投げかける。



国民体育大会
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国民体育大会(こくみんたいいくたいかい National Sports Festival)は、毎年1月のスケート&アイスホッケー競技会、2月のスキー競技会、9月~10月の秋季大会の3つの節に分かれて行われる、日本のスポーツの祭典。国体と略される。

国民体育大会 概説
以前は水泳競技を中心とした夏季大会と陸上競技を中心とした秋季大会が存在したが、2006年の兵庫県での大会から夏季と秋季の大会を一体化して3大会制に変更された。第64回大会(2009年9月26日-10月6日予定、新潟県)以降の水泳大会につては、日本体育協会は2006年12月20日の国民体育大会委員会で9月中旬までに先行開催する方針を決めた。これは、水泳の競技特性を考えた措置であるという。

(過去の)夏季・秋季大会は基本的に同一都道府県での開催。冬季2大会も合わせて同一都道府県で開催すると、「完全国体」となる。(特に北海道、東北、甲信越、北陸といった寒冷地で秋季の大会が行われる時に冬季2大会も同時に開催するケースが多い。まれにスケート&アイスホッケー大会がさらに分離して行われるケースもある)また秋季大会終了後には「全国障害者スポーツ大会」も行われる。

スケート&アイスホッケー競技会ではフィギュアスケート、スピードスケート、ショートトラックスケート、アイスホッケーが開催される。
スキー競技会は大回転競技とジャンプ競技、ノルディック複合競技、クロスカントリー競技、モーグル競技が行われる。
秋季大会は競泳、水球、ボウリング、サッカー、陸上競技、柔道、剣道、フェンシング、レスリング、バレーボール、バスケットボール、軟式野球(社会人のみ正式種目)、高校野球(硬式、軟式 何れも公開種目)等が開催される。以前夏季と秋季に分かれていた頃は競泳、水球、ボウリング、サッカーなどは夏季に開催された。
このほか1988年の2巡目最初・京都国体から「デモンストレーションとしてのスポーツ行事」(デモスポ)が行われている。体力づくりを目的に実施されるコミュニティースポーツを開催都道府県に在住・若しくは在勤・在学している人を対象に競技が行われる。
大会は正式種目の順位を得点に置き換えて争い、4大会の通算で男女総合順位の1位に「天皇杯」女子の総合1位に「皇后杯」が贈呈される。

近年は開催都道府県の選手強化や大会運営に資金を注ぎ込むことが問題視されていること(特に総合ポイント争いでは常に開催都道府県が優勝し続けていたが、2002年のよさこい高知国体で1977年以来24年続いた男女アベック優勝と1963年からの天皇杯優勝がストップし、男女とも東京都が優勝した)から、国体のスリム化が段階を追って行われている。高知国体からサッカーを秋季から夏季に移行したり、陸上競技を秋季大会開会式前に行って日程を10日間ほどに延長したりした。

当初、夏季大会と秋季大会は恒久的に関西地区で開催される予定であったが、第一回大会終了後石川県が、第二回秋季大会の開催地として立候補した事が契機となり、各県持ち回りとなった。


国民体育大会 参加資格・年齢区分
参加資格は競技によって異なるが、原則として当該開催年度において中学3年生以上であることが条件となっている。
年齢区分も競技により異なるが、陸上競技と競泳の一般的な例を示す。他の競技もおおむね、これに準じたものとなっている。
少年B:当該開催年の16年前の4月2日~当該開催年の14年前の4月1日の期間に生まれた者(高1・中3)
少年A:当該開催年の18年前の4月2日~当該開催年の16年前の4月1日の期間に生まれた者(高3・高2)
成年:当該開催年の18年前の4月1日以前に生まれた者

国民体育大会 大会シンボルマーク
第2回石川大会に制定した。マークは、30度右傾斜した赤色の火炎を青色の円帯(幅はマーク全体の直径の1/10)で囲んだもの。


国民体育大会 大会の歴史
創始
1945年12月26日、岸記念体育館にて平沼亮三(大日本体育協会理事)、末広厳太郎(大日本水上競技連盟会長)、清瀬三郎、久富達夫、石田啓次郎ら戦前から競技団体の要職にあった人たちが会合し、戦後のスポーツのあり方と競技団体の組織と事業について話し合うなかで全国体育大会の開催が提案された。

1946年、平沼、清瀬らは春日弘(関西スポーツ連合会長)と懇談し、理事会を結成。実施要綱が検討され、GHQの全国的な承認、政府から40万円の補助金を得て第1回国民体育大会がスタートした。



国民体育大会

中村紀洋

<中村紀洋>中日の入団テスト決定、汗流す…「感謝したい」
 中日の入団テストを受けることが決まった中村は13日、新日鉄堺グラウンドで汗を流した。中日がキャンプを張る沖縄入りを翌日に控え、この日はキャッチボール程度の調整で練習を終了。「中日球団や今まで支えてくださった方々に感謝したい」と明るい表情で語った。また、契約形態にこだわりはないという考えを示した。

中村紀洋 ホームラン集

中村紀洋
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中村紀洋(なかむら のりひろ、1973年7月24日 - )は、平成期のプロ野球選手で、現在は無所属。ポジションは内野手(主に三塁手)。豪快なスイングと強肩が特徴的である。

人物・略歴
身長・体重 1m80cm、92kg
投打 右/右
血液型 O型
出身地 大阪府大阪市
ニックネーム ノリ、ノリダー
家族は妻の浩子(村上隆行の妹で、元実業団バレーボール・日立の選手)と3女。
大阪府立渋谷高等学校卒業。同級生に大鳥れい(元宝塚花組トップ娘役)がいる。
2001年には大阪教育大付属池田小学校の慰問活動が評価され第3回ゴールデンスピリット賞を受賞している。

球歴
1990年 - 全国高等学校野球選手権大会大阪府大会で2年生ながら4番打者として活躍、4本塁打を放つ。守備でも三塁手兼投手として活躍し、大阪府大会で優勝、チームを甲子園初出場に導く。甲子園では初戦(2回戦)で敗れたが、大阪府立高校の出場が8年ぶりであったということもあり、話題となる。

1991年 - 大阪府立渋谷高からドラフト4位で近鉄バファローズに入団。背番号は66。同年代に、石井一久、イチロー、清水隆行(大卒)、小笠原道大(社会人出身)、黒木知宏(社会人出身)、三浦大輔、松中信彦(社会人出身)、礒部公一(社会人出身)らがいる。

1994年 - 9月18日に藤井寺球場での日本ハムファイターズ戦でサイクルヒットを達成。プロ入り初の三塁打を快挙に結び付ける。

1995年 - 故障した金村義明からレギュラーの座を奪取。

1996年 - この頃から左手首の故障に悩まされるようになり、これまでに左手首の手術を3回受けている。

1997年 - 背番号を石井浩郎の付けていた3へ変更(96年オフに読売ジャイアンツへ移籍したため)。なお、この年から近鉄が本拠地を大阪ドームへ移す。

2000年 - シドニー五輪の野球競技に日本代表として参加。3位決定戦で具臺晟(ハンファ・イーグルス)、李承燁(三星ライオンズ)らがいた韓国に敗れ、4位に終わる。シーズンでは二冠王(本塁打王、打点王)を獲得するが、大阪近鉄バファローズは2年連続のパ・リーグ最下位。

シーズン終了後、推定年俸3億円(1億6000万円増)プラス出来高払い5000万円で契約更改。シアトル・マリナーズへ移籍したイチローに代わって、パ・リーグの日本人最高年俸選手に。日清食品「どん兵衛」のコマーシャルで優香と共演、アサヒビール「スーパードライ」のコマーシャルにも出演、大阪が生んだパ・リーグのスターとして、全国的な知名度を獲得。

2001年 - 背番号を西武ライオンズへ移籍した義兄・村上嵩幸の付けていた5へ変更。大阪近鉄がパ・リーグ優勝、中村は4番打者として貢献し、打点王も獲得。3、4番合計101本塁打(タフィ・ローズ55本、中村46本)は、1985年の阪神タイガース(ランディ・バース54本、掛布雅之40本)を上回る最多記録。

日本シリーズではヤクルトスワローズと対戦するが、シリーズ通算で18打数2安打と抑え込まれ、大阪近鉄も1勝4敗で球団初の日本一を逃す。シリーズ新記録の5本塁打を予告していたが、第2戦で藤井秀悟からソロホームランを放ったのみに終わる。

翌シーズンにフリーエージェント(FA)権の取得が予想される中、大阪近鉄から複数年契約(推定6年契約35億円)を提示される。しかし、12月26日に「一ヶ月で判断するのは難しかった」と複数年契約を拒否し、推定年俸5億円プラス出来高払い1億円の単年契約を結ぶ。

2002年7月14日にFA権を取得。11月5日にFA宣言。シーズン終了後から「中村ノリというブランドをまず考えて、近鉄で終わっていいのか」と悩みぬいた末に、FA宣言することを決めたと話す。

読売、阪神と交渉するも契約には至らず、12月19日、ニューヨーク・メッツ入団に合意(推定2年契約700万ドル、プラス3年目のオプション600万ドル)と報じられる。しかし、12月20日に大阪近鉄と再交渉を行い、梨田昌孝監督らから慰留されると翻意し、大阪近鉄に残留を決意、12月21日、大阪近鉄に残留を表明する(推定4年契約20億円プラス出来高払い)。結局、FA期間は47日間にも及んだ。

2003年のシーズンでは開幕直後に右膝を痛めてから不本意な成績が続き、大阪近鉄もパ・リーグ3位に終わる。アテネ五輪の予選を兼ねたアジア野球選手権への参加も辞退。10月17日に右膝を手術。

2004年、右膝のリハビリを兼ねて野茂英雄、石井一久らの所属するロサンゼルス・ドジャースのスプリングキャンプに招待選手として参加。渡米前に歯並びの治療を受けていたが、キャンプで守備練習中にノックの打球を歯に受け、帰国後にオープン戦を欠場して治療を受ける羽目に。

6月に大阪近鉄とオリックス・ブルーウェーブとの合併構想が発覚。アテネ五輪の野球競技に日本代表として参加、銅メダルを獲得するものの、試合後の宴会で右足裏を負傷、9月10日まで欠場。欠場中、団野村を代理人として、ポスティング制度(入札移籍制度)によるメジャーリーグ入りを企図していることが報じられる。9月8日のオーナー会議で大阪近鉄とオリックスとの合併が正式承認。

11月3日、メジャーリーグ入りの意思を表明、大阪近鉄と2年前に結んだ契約に、ポスティング制度によるメジャーリーグ入りを容認する内容が含まれていたと説明する。11月8日、選手分配ドラフトの結果、合併球団オリックス・バファローズに振り分けられる。11月30日、大阪近鉄がオリックス・ブルーウェーブとの合併により消滅。

12月1日に合併球団が発足、4年契約の2年目を終えた時点で球団が消滅してしまったため、残りの契約期間の年俸(2年分10億円)に相当する保証金を大阪近鉄に要求する。

2005年1月25日、ポスティング申請。大阪近鉄と業務提携していたロサンゼルス・ドジャースに落札される。2月3日、ドジャースとマイナー契約(推定1年契約50万ドル)を結ぶ。背番号は66に。

スプリングキャンプでのメジャーリーグ昇格は叶わず、4月2日、AAAパシフィック・コーストリーグのラスベガス・フィフティワンズへ合流するように通告される。その後の4月10日、故障者リスト入りしたアントニオ・ペレスに代わって、念願のメジャーリーグ昇格を果たす。しかし、メジャーリーグでは17試合に出場して39打数5安打0本塁打(打率.128)とまったく振るわず、5月8日の試合後、メキシカンリーグでプレーしていたオスカー・ロブレスが40人枠入りしたのに伴い、40人枠から外される。ウエーバーにかけられたが獲得を希望する球団が現れなかったため、AAAへの降格を了承、再びラスベガスでプレーする。

ラスベガスでは、本塁打こそリーグ17位の22本と健闘するが、打率.249は規定打席以上の90人中85位と低迷、渡米前に自信を見せていた守備でもチーム最多の20失策を記録。9月5日にAAAのシーズンが終了。団野村との代理人契約を解除し、日本復帰を目指す。

12月21日、分配ドラフトからドジャース入りまでの間、一時的に在籍していたオリックスへの復帰を表明。推定年俸2億円プラス出来高払い5000万円の単年契約。背番号は8。中村はドジャースと2006年1月末までの契約を結んでいたため、2005年のオフに日本へ復帰するためには、ドジャースとの業務提携により中村との優先交渉権を得ていたオリックスへ入団する以外に選択肢はなかったとされている。

2006年、「帰ってきたで」というキャッチコピーのポスターが製作され、ドラフトによる西武ライオンズ入団から20年ぶりに出身地である関西地方へ戻ってきた清原和博との共演が話題となる。開幕前に右足に肉離れを起こしたのに始まり、4月28日に左手親指を捻挫、5月13日に左手首に死球を受けて負傷、負傷した箇所をかばいながら出場している間に右手首も痛めるという故障続きのシーズンとなる。8月11日に左肘に死球を受け途中交代すると、その後は試合出場がなく、328打数76安打12本塁打(打率.232)でシーズンを終える。9月に左手首を手術。

契約交渉では、中村が左手首の故障を公傷と主張したのに対し、オリックスは公傷を認めず、推定年俸8000万円(60%減)の単年契約を提示。2007年1月12日までに6回の契約交渉が行われるが合意に達せず、オリックスは契約更改を断念し、中村のトレードを試みる。しかし、中村を受け入れる球団が見つからなかったため、1月17日にオリックスは中村を自由契約とする手続きを取る。同日付けで自由契約選手として公示された中村は、オリックスを除く11球団からの連絡を待ちながら、各球団の春季キャンプが始まる2月1日からの架空のキャンプインを目標に自主トレーニングを行うが、2月1日になっても獲得の意向を表明する球団は現れず、架空のキャンプで練習を続けていたが、2月12日に中日ドラゴンズの入団テストを受けることが明らかになり、2月15日からキャンプに参加する


中村紀洋

中日ドラゴンズ

中日ドラゴンズ井端選手、母校でパワーもらう

同小児童と交流 プライベートや野球の裏話を披露


子供の質問に答える井端選手
 プロ野球・中日ドラゴンズで活躍中の井端弘和選手(=川崎区藤崎出身)が1月25日、同区川中島にある川中島小学校(渡部和美校長)で開かれた「井端祭り」に参加し、児童達との交流のひと時を楽しんだ。

 井端選手は同小を卒業。3年前から毎年シーズンオフに訪問を続け、後輩たちとの親睦を深めている。

 「野球選手にとって(キャンプ前は)いやな時期。(交流で)いい力、パワーをもらって一年間を乗り切りたい」。体育館で開かれたイベントの席上、井端選手はこう切りだした。

 見渡せば、背中に「IBATA」とプリントされたドラゴンズTシャツを着用し、偉大な先輩の話に耳を傾ける子供達。井端選手が来校の際、「プレゼントしよう」と決めて持参したおみやげだ。




中日ドラゴンズ
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中日ドラゴンズ(ちゅうにちドラゴンズ、Chunichi Dragons)は、日本のプロ野球球団でセントラル・リーグの球団のひとつ。

中日ドラゴンズ チーム名 中日ドラゴンズ
加盟団体 セントラル・リーグ(1軍)、ウエスタン・リーグ(2軍)
創設年度 1936年
チーム名の遍歴 名古屋軍(1936年~1943年)
→産業軍(1944年)
→中部日本軍(1946年)
→中部日本ドラゴンズ(1947年)
→中日ドラゴンズ(1948年~1950年)
→名古屋ドラゴンズ(1951年~1953年)
→中日ドラゴンズ(1954年~)
フランチャイズ 愛知県
本拠地 ナゴヤドーム(1軍)、ナゴヤ球場(2軍)
収容人員 38414人(ナゴヤドーム)
オーナー 白井文吾
親会社 中日新聞社
監督 落合博満
タイトル リーグ戦:7回、日本シリーズ:1回
(優勝年度) (リーグ戦)1954、1974、1982、1988、1999、2004、2006

2005年中日ドラゴンズファインプレー集
(日本シリーズ)1954

球団の歴史

1リーグ時代
1936年、新愛知新聞社を親会社として名古屋軍(なごやぐん)が結成。河野安通志を総監督(GM)に迎え、監督は池田豊が就任。明大の中根之、白系アメリカ人で捕手のハリス、名手・芳賀直一、日系外国人の高橋吉雄、主将の桝嘉一、スローボーラー・森井茂らが初期メンバー。新愛知新聞社傘下の國民新聞社でも大東京軍を結成。日本各地に同様の球団を結成、大日本野球連盟を組織し、独自のリーグを作ろうとしたが失敗。日本職業野球連盟(現在の日本野球機構の源流)のリーグに加わった。当初の会社名は「株式会社大日本野球連盟名古屋協会・名古屋軍」「株式会社大日本野球連盟東京協会・大東京軍」であり、大日本野球連盟構想の名残が見られる。
1937年、河野が球団を去りイーグルスを結成すると、中根、ハリス、高橋らがあとを追い、池田監督も混乱を嫌い辞職。後任監督は桝嘉一。主力が抜けたことにより、チームは低迷。
慢性的な選手不足の戦前職業野球において、大沢清、西沢道夫、松尾幸造、村松幸雄など好成績を残す選手が隙無く台頭したが、チームの総力は巨人・阪神に及ばず、優勝は遠かった。
1942年、戦時下の新聞統廃合令により親会社の新愛知新聞社と名古屋新聞社(旧:名古屋金鯱軍親会社)が統合され中部日本新聞社として新設。合併に伴う本社人件費の増大により球団経営見直しの声が挙がり、球団への投入資金は大幅減少。中部日本新聞社取締役の大島一郎(旧新愛知新聞社の創業家出身)が個人的に出資し1943年のシーズンを終えることはできたが、大島個人の財力には限界があり、名古屋軍理事の赤嶺昌志が球団・選手を一手に引き受け、球団を理研工業の傘下に入れ選手を同工業に就職させた。球団名を産業(さんぎょう)に改称、選手は工場で勤労奉仕をする傍ら試合を行った。名古屋軍の選手も他球団に例外なく多くが兵役に駆られ、「人間の翼 最後のキャッチボール」で有名な石丸進一を始め名選手が戦禍に散った。
1946年リーグ戦再開に伴い中部日本新聞社が経営に復帰。チーム名を中部日本(ちゅうぶにっぽん)として再出発。愛称は「中部」(参照)。
1947年のニックネーム導入にあたり、当時のオーナーだった杉山虎之助(中部日本新聞社社長)の干支である辰の英訳「ドラゴン」から中部日本ドラゴンズに改称。服部受弘が野手に投手に大車輪の働きをみせ戦後すぐのチームを支えた。しかし、オフに赤嶺が退団すると、赤嶺を慕う加藤正二、古川清蔵、金山次郎、小鶴誠ら11選手が退団、藤本英雄も読売(巨人)に復帰し、またしてもチーム力が低下。退団した「赤嶺一派」は各球団を渡り歩き、「赤嶺旋風」と言われる混乱を巻き起こした。
1948年に中日ドラゴンズに改称。オフに木造の中日球場が完成。翌シーズンより本拠地に。
1949年、天知俊一が監督に就任、杉下茂が入団。西沢道夫が打者として中日復帰。同年シーズンオフの2リーグ分裂騒動でセ・リーグに加盟。

セ・リーグ加盟後
1951年2月6日より名古屋鉄道が経営参加し名古屋ドラゴンズと改名。8月19日に中日球場が試合中の火災により全焼。(中日球場で予定されていた残りの試合は鳴海球場などに変更して行う)オフに鉄筋コンクリートで再建。
1953年シーズンをもって名鉄が経営から撤退すると中日ドラゴンズに名前を戻した。
1954年天知監督の下、西沢、杉山悟、杉下茂、石川克彦らの活躍で初優勝。日本シリーズでも西鉄ライオンズを破り日本一。
1959年、伊勢湾台風による中日球場水没で公式戦の一部を他会場に振り替える。
1961年、濃人渉監督が就任。ブリヂストンタイヤより入団した新人・権藤博の活躍により読売に1ゲーム差と迫るが惜しくも2位。
1962年、プロ野球で初めて、元メジャーリーガーのドン・ニューカム、ラリー・ドビーを入団させるが、3位。
1965年~1967年、西沢監督のもとで3年連続2位と健闘するが、惜しくも優勝には届かなかった。
1968年の杉下監督を挟み、1969年から元読売の水原茂監督が就任するが4位、5位、2位と今ひとつ伸びなかった。
1972年から与那嶺要ヘッドコーチが監督に昇格。監督3年目の1974年、高木守道、星野仙一、松本幸行、トーマス・マーチン、谷沢健一らが活躍。読売のV10を阻止しリーグ優勝を果たした。与那嶺監督は1977年まで務めた。
1978年、中利夫監督が就任。しかし5位、3位、6位と成績が振るわず1980年限りで辞任。この年を最後に高木が引退。

近藤・山内監督時代
1981年、近藤貞雄監督が就任。1982年には3度目のリーグ優勝。近藤は星野・木俣達彦などのベテランに代わり、平野謙、中尾孝義、上川誠二らの若手を登用。他の野手では大島康徳、田尾安志、ケン・モッカ、宇野勝、谷沢ら、先発には郭源治、都裕次郎ら、リリーフには牛島和彦の活躍があった。「野武士野球」と呼ばれる攻撃的な野球と、投手分業制を標榜する継投を駆使する采配を見せた。
1982年 プロ野球記録の19引き分けを記録したため、シーズン終盤、まだ2位だったのに優勝マジックが点灯。10月18日、横浜スタジアムの大洋最終戦、中日が勝てば中日優勝、大洋が勝てば読売優勝という天王山では小松辰雄の完封勝利によって見事優勝。日本シリーズは西武に2勝4敗で敗退。この年限りで星野・木俣が引退。
1983年、戦力不足からチームは5位に終わり近藤が退任。
1984年、山内一弘監督が就任。初年度は2位となったが、その後は1985年・1986年と2年連続5位。山内は1986年シーズン途中で休養に追い込まれ、シーズン終了まで高木ヘッドコーチが監督を代行した。 シーズンオフ、星野監督が就任。牛島、上川、桑田茂、平沼定晴との4対1トレードにより、ロッテから2年連続三冠王の落合博満を獲得する。このトレードに際しては、牛島が当初拒否し、星野自ら説得にあたった。享栄高校から、近藤真一がドラフト1位で入団する。

星野・高木監督時代
1987年、ロサンゼルス・ドジャースとの提携によりユニフォームをドジャース風に変更。ルーキー近藤が、8月9日の読売戦で、プロ初登板初先発ノーヒットノーランという大偉業を達成。ペナントレースも、前年の不振を払拭し、5月には一時的に首位に立つなど、最終的には2位を確保する。シーズンオフに、大島、平野を放出。また、この年甲子園で春夏連覇を果たしたPL学園の主将、立浪和義がドラフト1位で入団。
1988年、4月終了時点で首位広島に8ゲーム差をつけられ最下位。7月8日には6連敗を喫し29勝31敗2分で借金2。ところが、翌7月9日から、驚異の大進撃が始まる。連敗したのは2連敗を2回だけ、50勝15敗3分という凄まじさで、当時を覚えているファンが異口同音に「負けた記憶がない」と口を揃えるほどであった。10月7日、文句なしで6年振りの優勝。生え抜き監督での優勝は史上初。小野和幸が最多勝に輝き、小松とともに先発陣を牽引。リリーフ・郭源治が44セーブポイントでMVPに輝き、この年の最大8ゲーム差からの逆転優勝は、1996年に「長嶋巨人」が11.5ゲーム差を逆転して優勝するまで、セ・リーグ記録であった。日本シリーズでは西武に1勝4敗と敗退。なお、本来は優勝パレードが予定されていたが昭和天皇の体調悪化により自粛に至った。星野仙一監督は1991年を最後に勇退した。
1992年、高木守道監督が就任。12年ぶりの最下位に沈むも、成績は60勝70敗で、優勝したヤクルトが69勝61敗と、9ゲーム差しか離れておらず、この年のセ・リーグは6球団全てが60勝台という大混戦となった。
1993年は、今中慎二と山本昌広のダブル左腕エースが大活躍。両者とも17勝で最多勝に輝くとともに、今中は沢村賞、山本は最優秀防御率のタイトルを獲得。ペナントレースは、前半戦でヤクルトが2位に大差をつけて独走していたが、後半戦開始直後から中日が猛烈な勢いで走り始め、9月1日、遂に首位に立つ。その後はヤクルトとのデッドヒートとなったが、最後はかわされ涙を飲んだ。シーズン終了後、落合が読売にFA移籍。
1994年はシーズン中盤まで首位読売に食らいついたものの、8月18日からの8連敗で完全に脱落したかに思われ、9月に入ると、この年に任期が切れる高木監督の後任として星野仙一の名が報じられるなど、チームは内外で万事窮したかに見えた。しかし9月20日からの9連勝を始めとする猛烈な追い上げを見せて首位の読売に並び、10月8日、史上初の最終戦同率首位決戦(10.8決戦)となった。試合では、読売に、落合、松井の本塁打に加えて当時の3本柱・槙原、斎藤、桑田のリレーでかわされ、苦杯を喫した。しかしながら、首位打者がアロンゾ・パウエル、本塁打と打点王に大豊泰昭、最多勝に山本昌、最優秀防御率が郭源治と、投打のタイトルを総なめした。
1995年、前年度の優勝を最後まで争っての2位という好成績により高木監督が続投。しかし不振を極め、結局シーズン途中に辞任。徳武定祐ヘッドコーチ、次いで島野育夫2軍監督が代行を務めた。
1996年、星野監督が復帰。ナゴヤ球場最終シーズンとなったこの年には、韓国ヘテ・タイガースから宣銅烈を獲得。抑えの切り札として期待されるも、日本の野球に慣れるのに時間がかかり不振に終わる。この年は例の長嶋巨人「メークドラマ」の年であったが、読売があと1勝で優勝という時点になっても(読売の残り試合はすべて中日戦だったのでマジックはつかなかった)中日はしぶとく勝ち続け、9月24日から6連勝。特に6連勝目のナゴヤ球場での広島戦は当時を知るファンの間で名試合と称されている。中日が負ければ読売優勝という状況下、7回1点差に迫られてなお無死満塁という絶対的危機でエース今中慎二が救援のマウンドに立つ。まるで格闘技会場のような「今中コール」の中、今中は金本知憲の犠牲フライ1本でこのピンチを凌ぎ、試合は延長戦に突入した。そして延長10回、パウエルのタイムリーヒットによりサヨナラ勝利。10月6日ナゴヤ球場の最終戦における読売との直接対決に持ち込んだ。そして10月6日、いわゆる『10.6』の大決戦が行われる。中日はこの試合を含めて、残り3試合を全勝すれば読売とのプレーオフというギリギリのところであったが、惜しくも敗れ去り、優勝はならなかった。この年は山崎武司が本塁打王になるなど大豊、パウエルを主軸とした打線が活躍を見せ、“強竜(恐竜)打線”として恐れられた。

球団事務所のある中日ビル

ナゴヤドーム(ホームスタジアム)
ナゴヤドーム移転
1997年、ナゴヤドームがオープン。本拠地を移転し新時代の一歩を踏み出す。しかし狭いナゴヤ球場から一転、広いナゴヤドームに野手陣の慣れが追いつかず、5年ぶりの最下位に終わる。しかしこの年は宣銅烈が39セーブポイントを挙げ、山本昌が3年振り3度目の最多勝に輝くなど投手陣は奮闘を見せた。オフにはドームに対応した野球を目指して抜本的な改革が行なわれた。守備力と機動力を推進するため、パウエルを解雇、阪神へ矢野輝弘・大豊を放出、交換で関川浩一・久慈照嘉を獲得。また韓国ヘテから李鍾範を獲得。更に明治大から星野の後輩である川上憲伸がドラフト1位で入団した。
1998年にはその改革が実を結び、走力を生かして得た1点を強力な投手陣で守る野球を確立。前半戦までは5割付近をさまよっていたが、例のごとく後半戦から走り始め、独走していた横浜をハイペースで追走。8月27日には1ゲーム差に迫った。しかし終盤の横浜戦7連敗が響き、38年ぶりの優勝を許した。投手コーチに元読売の宮田征典を招聘しテコ入れ、その甲斐あって野口茂樹が最優秀防御率、川上憲伸が新人王を獲得した。日本生命から福留孝介がドラフト1位で入団。
1999年は珍しく開幕前に本命に挙げられ、期待通りに開幕からいきなり11連勝。昨年度の投手陣は新たに招聘された山田久志投手コーチの指導で充実し、野口、川上、山本昌に武田一浩の先発陣に加え、この年新人の岩瀬仁紀が1年目から65試合に登板して鉄人振りを発揮し、サムソン・リー、落合英二らとともに不動のセットアッパーとなる。ストッパーの宣も好調で、12球団随一の投手王国を誇った。この年は大型連勝が多く、7月2日から8連勝したのに加え、シーズン終盤も9月21日から再び8連勝して一気にゴールテープを切り、見事に優勝。神宮球場で優勝が決まった9月30日には、無料開放されたナゴヤドームも超満員となり、11年ぶりのリーグ優勝を果たした。前半戦を首位で折り返しての優勝は球団史上初。しかし、ナゴヤドーム移転後初の日本シリーズでは対戦相手の福岡ダイエーホークス投手陣を打ち崩せず、また山崎の欠場が響いたのか1勝4敗で敗れ、敵将・王監督の胴上げを許した。
2000年、2位は確保するものの、投打ともに前年の面影はなく、最後は9月24日、東京ドームでの読売戦において、4-0でリードの最終回、エディ・ギャラードが江藤に満塁弾、二岡にサヨナラ弾を浴びて優勝を決められてしまった。
2001年、4年振りのBクラスに終わる。この年から井端弘和がレギュラーに定着。星野監督が辞任し山田投手コーチが監督昇格。

山田・落合監督時代
2002年、谷繁元信が横浜からFA移籍。福留が松井の三冠王を阻止して首位打者のタイトルを獲得する。チームは3位。この頃、荒木雅博がレギュラーに定着。
2003年まで山田監督が指揮を執る。この年の7月5日、東京ドームでの読売戦において、立浪和義が2000本安打達成。また、この年は一度入団契約を交わしながら突如翻意し、メジャーリーグ・レッドソックスの入団を希望するケビン・ミラーとの間に騒動があった。その代わりロサンゼルス・エンゼルスよりアレックス・オチョアが来日。山田監督下の成績は3位、2位とまずまずだったが、山内一弘以来となる完全な外様(現役時代に中日に籍を置いた事がない者)だったことや、山田自身の生真面目な性格から周囲との軋轢があったといわれる。2003年9月9日、優勝した阪神タイガース相手に善戦していたにも関わらず休養させられたことがファンの物議を醸した。この年は朝倉健太、川上憲伸がケガで離脱し、ローテーションを守ったのは山本昌一人だった。山田休養後は佐々木恭介ヘッドコーチが監督を代行。最終的に阪神には勝ち越し、完全優勝は阻止した。
2004年、1988年優勝時の4番打者である落合博満監督が就任。1987年以降チーム内に染みついていた星野カラーを一新し、見事就任1年目でリーグ優勝を果たす。主力は元より控え選手も数多く起用し、守り勝つ野球を見せた。しかし日本シリーズでは、西武に3勝4敗で惜しくも敗れ、50年ぶり2度目の日本一は果たせなかった。10月30日に名古屋市内で行われた優勝パレードでは16万人を動員した。
2005年、横浜よりタイロン・ウッズが加入。ドラフトでは石井裕也をはじめ即戦力となりうる新人を確保。球団初の開幕2試合連続サヨナラ勝ちなど交流戦前は好調。しかしこの年から導入されたセ・パ交流戦で15勝21敗と苦戦を強いられる。オールスター前後の11連勝など後半戦には粘り強さを見せ首位の阪神に2度にわたって0.5ゲーム差まで迫ったものの、連覇を逃した。
2006年3月、東京遠征時の宿舎を第2次星野政権から使用していた赤坂プリンスホテルから近隣のホテルニューオータニへ変更することが決定した。ライバルの阪神も同じ宿舎を使用しており、阪神とは東京ドームでの読売戦と神宮球場でのヤクルト戦で互いが日程的に重なることがあり、両チームの選手同士が同じ日に同じホテルに宿泊するという好ましくない事態がしばしば起きていたということと、これまでのヤクルト主催の千葉マリンスタジアムでの地方試合に加え、交流戦の開始によりロッテ主催の公式戦が始まったことで千葉への遠征が多くなり、千葉・幕張のニューオータニと併用して宿舎契約すれば宿泊料金が割安になるというメリットがあったための変更とされている。
2006年ペナントレースでは、投手陣と堅い守り、打撃陣がうまく絡み合い、6月半ばから首位を独走。8月に球団史上最速[マジックナンバー(M40)を点灯させた。シーズン終盤には阪神タイガースの猛追に遭うものの一度も首位を明け渡すことなく、2006年10月10日に2年ぶり7度目のセ・リーグ優勝を決めた。また、この年はセ・リーグ5球団に勝ち越しての、いわゆる完全優勝であった。北海道日本ハムファイターズと対戦した日本シリーズでは、1勝4敗で敗退。52年ぶりの日本一はならなかった。

落合監督の見えぬ偉業
このことはメディアではほとんど報じられていないのだが、2003年以前の中日は優勝してから次に優勝するまでに最短でも6年(1982年→1988年)を要していた。しかし、落合監督が監督就任1年目で優勝したため中日球団が持っていたこの最短記録を5年(1999年→2004年)に短縮。落合監督の目に見えぬ偉業ともいえよう。2005年は連覇こそ逃したものの、2006年の優勝によってこの記録を一気に2年にまで縮めた。また、落合監督より前、1つの連続任期中にチームを2回以上優勝に導いた監督は一人もいなかったが(星野仙一は中日監督として合計2回優勝に導いているが、第一次政権(~1991年)と第二次政権(1996年~)にそれぞれ1回ずつであるのでこれに該当しない)、2006年の優勝によりこの悪しき伝統にも終止符を打った。しかし、2006年の日本シリーズは1勝4敗とまたしても敗れ、チームに古くから蔓延るパ・リーグチームへの苦手意識は払拭できなかった。

チーム成績・記録

1950年以降の順位の変遷。赤い丸は日本シリーズ優勝を示す優勝(1954年、1974年、1982年、1988年、1999年、2004年、2006年)・7回
日本一(1954年)・1回
Aクラス(1938年秋、1943年、1947年、1950年~1959年、1961年~1963年、1965年~1967年、1971年~1975年、1977年、1979年、1982年、1984年、1987年~1989年、1991年、1993年~1994年、1996年、1998年~2000年、2002年~2006年)
Bクラス(1937年春~1938年春、1939年~1942年、1944年、1946年、1948年~1949年、1960年、1964年、1968年~1970年、1976年、1978年、1980年~1981年、1983年、1985年~1986年、1990年、1992年、1995年、1997年、2001年)
最多勝 89勝(1950年)
最多敗 83敗(1948年、1964年)
最多引分 19分(1982年)
最高勝率 .683(1954年)
最低勝率 .283(1937年秋)

その他の記録
最小ゲーム差 1.0ゲーム(1961年、1994年)
最大ゲーム差 34.5ゲーム(1948年)
最多本塁打 191本(1984年)
最少本塁打 1本(1937年春)
最高打率 .282(1984年)
最低打率 .182(1941年)
最高防御率 1.41(1943年)
最低防御率 4.75(1995年)
参考として日本シリーズ 連続連敗記録と言う不名誉な記録もある(後途の資料記録で)。

歴代本拠地
1948年 後楽園球場(保護地域は名古屋市)
1949年~1975年 中日球場(1952年のフランチャイズ制導入に伴い、正式に名古屋市が本拠地となる)
1976年~1996年 ナゴヤ球場(中日球場を改称)
1997年~ ナゴヤドーム
2軍本拠地
?~1999年ごろ 名鉄阿久比グラウンド(阿久比町)
1999年~ ナゴヤ球場

チーム特徴
杉下茂、星野仙一、川上憲伸らをはじめ、明治大学出身者が多い。
打線の愛称は「恐竜打線」「強竜打線」など。かつてナゴヤ球場(改修前)を1軍ホームグラウンドにしていた時期は、狭い球場を生かした打力が売り物のチームだった。しかしナゴヤドームへと移転してからはチームが不振に陥り一転、投手を中心とした守備重視のチームへと切り替え、2004年以降は奮起も目立ち再度の定着を果たした。
ニックネームの「ドラゴンズ」は親会社・中部日本新聞社(社名は当時)の杉山虎之助社長の干支「辰」にちなむ。ちなみに、1948年に「中部日本ドラゴンズ」から「中日ドラゴンズ」へ名称を変更しており、新聞や親会社の名前より先に「中日」と改称している。しかし、実質的には名称を1947年に「中部日本軍」から「中日ドラゴンズ」に変更している解釈が一般的である。
2位になることが非常に多いチームであり、1950年に2リーグ制になってから2006年までの57シーズンで2位に21回なっている(ただし、1959年は大阪と同率の2位であるが、この年は引き分け(0.5勝+0.5敗)を勝率に含めていたため、引き分けを勝率に含めなかった場合、単独の3位になっていた。)。この回数は、2リーグ制移行後の両リーグトップである(1990年代以降だけでも1991年、1993年、1994年、1996年、1998年、2000年、2003年、2005年の8回)。そのため、ファンの間では2位が中日の「定位置」と呼ばれることもある(「万年2位」というニュアンスも含むので、あまりいい称号ではない。その証拠に『サンデードラゴンズ』で「もう2位はいらない」というナレーションが入ったこともある)。21回の2位の内、読売が最多で優勝したシーズンが13回あり、特に1963年、1994年、1996年、2000年は、直接対決で読売に敗れて優勝を決められた(2006年には、東京ドームでの読売戦に勝ってリーグ優勝を決めた。)。以下セ・リーグの他のチームでは阪神14回、読売10回、広島6回、横浜・東京ヤクルト各4回。パ・リーグのチームで、現存するチームでは福岡ソフトバンクの16回が最多で、オリックス12回、西武8回、千葉ロッテ7回、北海道日本ハム6回。過去に存在したチームでは大阪近鉄10回である。ちなみに1リーグ時代では2回(1943年、1947年)あり、以下他のチームでは、読売・大阪各5回、阪急2回、西鉄(戦前)1回である。
2位が非常に多いのは、読売が2リーグ制移行後に30回も優勝していることもあるが、中日自体のここ一番で勝ち切れない体質も指摘されている。1990年代以降を見ても、1991年の広島、1993年のヤクルト、1994、1996年の読売、1998年の横浜、2005年の阪神との優勝争いが挙げられる。いずれも一時期は絶望的な状況に追い込まれたにもかかわらずそこから相手を猛追して、あと一歩というところまで相手に迫りながらもそこからあと1勝が出来ずに優勝や日本一を逃している。特に2005年の阪神には一時は8ゲーム差まで突き放され、そこから2度も0.5ゲーム差まで追い詰めたにもかかわらず、あと1勝ができずに一度も首位の座を奪還できなかった。後述の日本シリーズ敗退の多さを含め、短期決戦への柔軟な対応が今後の課題といえる。
かつては数年周期で大きな低迷の年が来ていたが、その翌年はたいていの場合優勝争いを演じるという特徴があり、また、読売との優勝争いはファンの間で名勝負と評されることが多い。

パ・リーグ苦手意識
7度の日本シリーズで通算1勝6敗(実試合:14勝27敗、勝率.341)かつ6連敗中(この6連敗は日本シリーズの連敗記録としてはワースト1位)ということもあり、パ・リーグとの相性はかなり悪い。また、勝率.341は近鉄を含めた日本シリーズに出場経験のある12球団の中でもダントツのワースト記録である。
交流戦実施元年の2005年には前半に大きく足踏みを重ね、新規参入の楽天には本拠地ナゴヤドームで3連敗し11球団で唯一負け越すなど15勝21敗に終わってしまった。2006年も交流戦こそ20勝15敗1分と勝ち越したが日本シリーズでは1勝4敗でまたしても敗れたため苦手意識の完全払拭はできなかった。


応援スタイル
選手別のヒッティングマーチを歌いながら、メガホンなどを叩くスタイルである。1980年代~1990年代初頭までの選手別応援歌は他の楽曲から流用したものが多く見られる(例:立浪和義:ガラスの十代、落合博満:マグマ大使など)。1997年のナゴヤドーム移転後からは全国中日ドラゴンズ私設応援団連合が2つのチャンステーマと現監督落合博満の応援歌(上述したマグマ大使)以外は全ての選手応援歌を作曲・作詞して演奏している。1回の攻撃開始、7回の攻撃前、9回以降の攻撃前、得点時に「燃えよドラゴンズ!」を演奏する。他球団では得点時やラッキーセブンで曲が使い分けられたりするが、中日は得点時・勝利時等で全て燃えよドラゴンズを演奏するので、試合中に演奏される機会が非常に多い。応援歌が無い選手には1、2年目に「ガッツだドラゴンズ」3年目以降は「ドラゴンズマーチ」が演奏される。以前は5年目までの選手がガッツだドラゴンズ。6年目以降の選手がドラゴンズマーチだったが、2005年オフシーズンに5、6年目の選手を大量に解雇・放出したこと、大学生・社会人ドラフトの分離によって高年齢ながら入団後まもない選手が増えることが予想されることにより基準が変更された。

チャンステーマは3つある。
元中日ゲーリー・レーシッチらに使われた山本リンダの「狙い撃ち」(2002年後半戦から)。
通称「狙い撃ち」。2003年から青とピンクの手袋をはめて応援するスタイルを始めたが、あまり広まっていない。
元中日アロンゾ・パウエルの応援歌(2004年から)。
通称「パウエル」、又は「Get Victory」。下記の「川又」は歌詞つきであるが、「パウエル」は歌詞中に選手名を含むため、チャンステーマとしては歌詞なしである。
元中日川又米利に使用されていたささきいさおの「ぶっちぎりの青春」(2005年から)。
通称「川又」。初めは巨人戦限定、関東以北限定だったものの、2006年8月下旬よりナゴヤドーム等全国の球場(太鼓が使えない神宮球場を除く)でも使用されている。
他にも特徴的な応援としては、小田幸平が打席に立った時に「O・D・A」コール、タイロン・ウッズが打席に入った時の入場曲(メガホンダンス付きである)の演奏、井端弘和のファンファーレ等がある。

ユニフォーム変遷
1936年 球団創設時のチームカラーは黒。左袖には金のシャチホコをモチーフにしたマークがつけられていた。帽子マークは現在の広島のものと同一。
1937年~1938年 金のシャチホコがユニフォームのマークとなり、その下には「NAGOYA」のマークがつけられていた。また、新愛知新聞のマークが左袖に付けられた。
1939年~1940年 球団創設時のユニフォームを復活。ロゴが黒で縁どりが赤。
1940年 ナチスのハーケンクロイツを参考にしたロゴが登場。左袖にポケットがないのが特徴。
1940年~1942年 名古屋の「名」マークが赤に変更され、前立てラインが廃止される。
1943年~1944年 国防色の採用が義務付けられ、「名」マークが廃止された。
1946年~1947年 「CHUBUNIPPON」のロゴ登場。ビジター用に当たるグレーのユニフォームに「CHUNICHI」のロゴが登場。当時はペンキで書いていた。
1948年 この年から中日ドラゴンズとなるが、スペルが「Doragons」となっている。ビジター用はライン部分をマイナーチェンジ。ホーム用のロゴはドジャースを意識していた。
1949年 中日の「C」と名古屋の「N」を組み合わせたロゴが登場したが選手からの評判が悪く1年で廃止された。
1950年~1951年 2リーグ分裂を機にユニフォームのスペルを「Dragons」に変更。また、夏場に縦縞ユニフォームが登場。
1952年~1959年 球団名が名古屋ドラゴンズとなる。その後名鉄が球団経営から撤退し中日ドラゴンズに戻るが、ユニフォームは継続使用された。1956年からビジター用が「CHUNICHI」に変更。帽子マークは名古屋時代は「N」マークだったが、中日になってからは「C」(書体は後の広島と同じもの)となった。
1960年~1961年 胸番号の装着を機にフルモデルチェンジ。えび茶が採用され派手なイメージとなる。帽子に中日の「C」とドラゴンズの「D」を重ねたマーク(CDマーク)が初登場。
1962年 濃人監督の出身球団・名古屋金鯱のチームカラーである紺と山吹を採用したユニフォームが登場。同時に帽子のマークを変更しCDマークが1968年途中まで使われたデザインとなる。
1963年~1964年 水色に近い明るいブルーが登場。同時に帽子・アンダーシャツ・ストッキングもブルーに変更。※いわゆる「ドラゴンズ・ブルー」のユニフォームが初登場。理由は主催試合の中継権をもつ中部日本放送と東海テレビ放送が1964年から東海地区では初のカラー放送を開始するためそれに合わせたためだといわれている。
1965年~1968年 西沢監督の就任を機に紺と赤を基調としたユニフォームに変更。1967年からは「Dragons」のヒゲが長くなり、1968年からは日本プロ野球史上初のノースリーブユニフォームも登場(後述を参照)。
1969年~1973年 ノースリーブの反省からフルモデルチェンジ。ビジター用は1963年から2年間使われていたスタイルの復活だった。チームカラーがブルーに。帽子のCDマークもドジャースを意識したようなブロック体に変更。
1974年~1986年 ニット素材の特長を生かした太いラインが登場。1981年に2つボタンとなり、1984年にVネックとなる。13年間使用。
1987年~2003年 ドジャース・スタイルにフルモデルチェンジ。1995年から番号・背ネームの書体が変更される。ホーム用は17年間、ビジター用は15年間の長きに渡り同一デザインをキープした。帽子マークは筆記体の「D」に変わり、97年以降はブロック体に変更された。ビジターは2002年のみツートンカラー、2003年にはライン入りのものに変更された。1998年のみ日曜日のナゴヤドームでの主催試合に限り、ノースリーブユニフォームが復活した(後述を参照)。
2004年~ 落合監督就任とともに1969年から使われたCDマークが復活。ビジターにツートンが復活。2006年からホーム用左袖部分に「中日新聞」のロゴが入る。
親会社である中日新聞社が新愛知新聞社と名古屋新聞社(名古屋金鯱軍の親会社)の合併によって出来たため、社長の座を新愛知系・名古屋新聞系とが争うことなり、親会社の社長が交代する度に球団社長・監督・ユニフォームの頻繁な変更を繰り返した結果、「親会社の社長交代が球団強化の最大の障害になっている」と批判されることとなった。そのため昔はユニフォームが著しい変遷を見せてきたが、近年は1デザインの使用期間が長くなっている。
なお、帽子マークが1987年、「CD」から「D」に替わった理由は、当時、就任監督直後の星野仙一が前年に広島東洋カープに負け越していて、「(カープ(Carp)の)CがDの上に着いているから負けるのだ」という理由から外している。1987年は広島に勝ち越したが、Dのロゴだった2003年までの17年間で見ると、中日は負け越している。ただし、2004年から再び「CD」に替えて、中日は2006年まで広島に3年連続で勝ち越している(2004年以降のCDマークの立体刺繍ではDがCの上になっており、前述のジンクスに配慮した形となっている)。

歴代監督
※太字は優勝達成監督
1936年 - 池田豊
1937年 - 桝嘉一(第1次)
1938年~1939年 - 根本行都
1939年~1941年 - 小西得郎
1941年~1942年 - 本田親喜
1942年~1943年 - 桝嘉一(第2次)
1944年 - 三宅大輔 ※1
1946年 - 竹内愛一 ※2
1946年~1948年 - 杉浦清(第1次) ※3 ※4
1949年~1951年 - 天知俊一(第1次) ※5
1952年~1953年 - 坪内道典
1954年 - 天知俊一(第2次) ※6
1955年~1956年 - 野口明
1957年~1958年 - 天知俊一(第3次)
1959年~1960年 - 杉下茂(第1次)
1961年~1962年 - 濃人渉 ※7 
1963年~1964年 - 杉浦清(第2次)
1964年~1967年 - 西沢道夫 ※8
1968年 - 杉下茂(第2次) ※9
1969年~1971年 - 水原茂
1972年~1977年 - 与那嶺要
1978年~1980年 - 中利夫
1981年~1983年 - 近藤貞雄
1984年~1986年 - 山内一弘 ※10
1987年~1991年 - 星野仙一
1992年~1995年 - 高木守道 ※11
1996年~2001年 - 星野仙一(第2次) ※12
2002年~2003年 - 山田久志 ※13
2004年~ - 落合博満
※1 ここから産業
※2 ここから中部日本
※3 ここから中部日本ドラゴンズ
※4 ここから中日ドラゴンズ(第1次)
※5 ここから名古屋ドラゴンズ
※6 ここから中日ドラゴンズ(第2次)
※7 1961年から1962年の登録名は濃人貴実
※8 1967年は5月18日まで指揮、5月30日に復帰するまでは近藤貞雄が代行
※9 1968年は6月24日まで指揮、残り試合は本多逸郎が代行
※10 1986年は7月5日まで指揮、残り試合は高木守道が代行
※11 1995年は6月2日まで指揮、残り試合は徳武定祐と島野育夫が代行
※12 2000年は5月6日まで指揮、5月12日に復帰するまでは島野育夫が代行
※13 2003年は9月9日まで指揮、残り試合は佐々木恭介が代行

永久欠番
10: 服部受弘(1960年- )
15: 西沢道夫(1959年- )
※中日出身者で名球会に加入している選手が現役時代につけていた背番号(41・1=高木守道、14・41=谷沢健一)はすべて永久欠番にはならず、在籍選手での会員である立浪和義の背番号(3)を永久欠番にする話もない。これは中日での永久欠番の条件が日本一に貢献した選手に限られるためと言われている。

※ただし、1954年に日本一になった時の最大の功労者である杉下茂の背番号(20)が永久欠番になっていないのは、一旦引退しながら1961年に大毎オリオンズで現役復帰したからだと推測される。このことから、中日での永久欠番には中日で現役生活を終えることも条件の1つに含まれると考えられる。

中日ドラゴンズ

アディダス

アディダス広告塔のサッカー独代表、ユニホームがナイキに?
 サッカーのドイツ代表にユニホームなどを供給する独アディダスが、自国のサッカー協会との契約延長で苦戦している。米ナイキが2011年からの新たなパートナー契約を狙い、破格の好条件を提示したのがきっかけ。アディダスは最大の広告塔を維持できるか微妙になっている。

 ナイキは独サッカー協会に8年間で約6億ユーロ(約950億円)の契約金を提示。11年から14年までの契約延長が確実だったアディダスの条件を大きく上回ったもようで、協会がアディダスに対して条件の再検討を求めた。協会と同社は先月協議したが、結論は出なかった。

(フランクフルト=後藤未知夫)



アディダス
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創業者
アドルフ・ダスラー


アディダス 略歴
1920年 ドイツ・ニュルンベルク近郊のヘルツォーゲンアウラッハで、靴製造の会社「ダスラー兄弟商会」を設立。兄のルドルフが販売、アドルフが生産を主に担当。
1948年 兄弟との意見対立により「ダスラー兄弟商会」を解消。アドルフはアディダス社を設立。「アディダス」とはアドルフの愛称「アディ」と「ダスラー」をつなげたもの。なお兄ルドルフはRUDE社を設立。これが翌年、プーマ社となる。
1965年 テニスシューズ「ハイレット」を発表。これが後のスタンスミスである。
1970年 オールレザーのバスケットシューズ、「スーパースター」発表。
1970年以降、アドルフの息子ホルスト・ダスラーが実権を握り始める。ホルストはスポーツ広告代理店ISLを電通と共同で設立し、スポーツをビジネス化した。これによりFIFAやIOCなど国際的スポーツ組織を取り込み、スポーツ界全般においても大きな力を持つようになった。この時期、アディダスは売上高で世界一のスポーツ用品メーカーであった。
1986年 ホルスト・ダスラーが51歳の若さで病死。アドルフの娘たちとホルストの息子たちとの間での経営権争いもあり、アディダスの経営は迷走を始める。
1990年 フランス人実業家ベルナール・タピが株式の過半を取得、経営権を握る。これによりダスラー家とアディダス社との資本関係はほぼ消滅した。この頃には、ナイキ、リーボックに次ぐ業界3番手に転落していた。
1993年 銀行団主導でフランス人実業家ロベール・ルイ・ドレフュスが経営権を握る。ドレフュスのもとでアディダスは黒字化、復活を果たした。
1995年 フランクフルト証券取引所に上場。
1997年 ウインタースポーツ用品メーカー、サロモンを買収。世界ナンバー2のスポーツ用品メーカー、アディダス?サロモングループになる。
2005年 リーボック株を取得し、リーボックをグループに加える。
アディダスグループの売上げは約100億ドル。ナイキの売上げはグループ推定で約137億ドル。10月25日、フィンランドのスポーツ用品メーカー、アメアスポーツコーポレーションにサロモン部門を売却。


アディダス アディダスジャパン
日本でのアディダスブランドはそれまで販売代理店として兼松スポーツ(兼松子会社)、デサントなどが請け負ったが、1998年に直営日本法人が設立された。

設立 1998年
本社所在地 神楽坂(東京都新宿区矢来町)
ショールーム 東京都江戸川橋

アディダス 社会問題
1998年のFIFAワールドカップフランス大会の公認サッカーボール「トリコロール」をパキスタン工場の10歳未満の子どもたちの手で作らせていたことが発覚。

国連児童基金(UNICEF)とILOは、1日12~16時間ずつ、指紋が消え去るほどにして皮切れを綴らせた行為は深刻な児童虐待だと結論を出したうえで、アディダスに巨額の児童保護基金を出させ公開釈明させた。


アディダス 契約選手
陸上競技
Haile Gebrselassie (ハイレ・ゲブレセラシェ)
野球
Roger Clemens (ロジャー・クレメンス)
Hiroki Kokubo ( 小久保裕紀)
Makoto Imaoka ( 今岡誠)
Tsuyoshi Nishioka (西岡剛)
Kazumi Saitoh (斉藤和巳)
Nobuhiko Matsunaka (松中信彦)
サッカー
Zinedine Zidane (ジネディーヌ・ジダン)
David Beckham (デビッド・ベッカム)
Steven Gerrard (スティーブン・ジェラード)
Frank Lampard (フランク・ランパード)
Ashley Cole (アシュリー・コール)
Djibril Cisse (ジブリル・シセ)
David Trezeguet (ダビド・トレゼゲ)
Alessandro Del Piero (アレッサンドロ・デル・ピエロ)
Javier Pedro Saviola (ハビエル・サビオラ)
Juan Roman Riquelme (フアン・ロマン・リケルメ)
Lionel Messi (リオネル・メッシ)
Michael Ballack (ミヒャエル・バラック)
Oliver Kahn (オリバー・カーン)
Raul Gonzalez (ラウル・ゴンサレス) 
Xavi (シャビ)
Kaka (カカ)
Edwin van der Sar (エドウィン・ファン・デル・サール)
Eidur Gudjonsen (エイドゥル・グジョンセン)
Juninho Pernambcano (ジュニーニョ・ペルナンブカーノ)
Arjen Robben (アリエン・ロッベン)
Shunsuke Nakamura (中村俊輔)
Tsuneyasu Miyamoto (宮本恒靖)
Toshiya Fujita (藤田俊哉)
Hiroshi Nanami (名波浩)
Atsuhiro Miura (三浦淳宏)
Naoki Matsuda (松田直樹)
Teruo Iwamoto (岩本輝雄)
Koji Nakata (中田浩二)
Yasuto Honda (本田泰人)
Masayuki Okano (岡野雅行)
Tomoyuki Sakai (酒井友之)
Tomoyuki Hirase (平瀬智行)
Yoichi Doi (土肥洋一)
Sota Hirayama (平山相太)
Koji Yamase (山瀬功治)
Hayuma Tanaka (田中隼磨)
Naohiro Ishikawa (石川直宏)
Yasuyuki Konno (今野泰幸)
Daisuke Sakata (坂田大輔)
Yuzo Kurihara (栗原勇蔵)
Doo-Ri Cha (チャ・ドゥリ)
Jae-Jin Cho (チョ・ジェジン)
テニス
Andre Agassi (アンドレ・アガシ)
Marat Safin (マラト・サフィン)
Guillermo Coria (ギレルモ・コリア)
Fernando Gonzalez (フェルナンド・ゴンザレス)
Justin Henin-Hardenne (ジュスティーヌ・エナン・アーデン)
Nadia Petrova (ナディア・ペトロワ)
Anna Kournikova (アンナ・クルニコワ)
Martina Hingis (マルチナ・ヒンギス)
バスケットボール
Tim Duncan (ティム・ダンカン)
Kevin Garnett (ケビン・ガーネット)
Tracy McGrady (トレイシー・マグレディ)
Chauncey Billups (チャウンシー・ビラップス)
Gilbert Arenas (ギルバート・アリーナス)
スケートボード
Mark Gonzalez (マーク・ゴンザレス)

アディダス 契約チーム
サッカー日本代表
サッカードイツ代表
サッカーフランス代表
サッカーアルゼンチン代表
サッカースペイン代表
サッカートリニダード・トバゴ代表
サッカーデンマーク代表
サッカーギリシャ代表
サッカーフィンランド代表
サッカースロバキア代表
サッカー中国代表
レアル・マドリード
ACミラン
バイエルン・ミュンヘン
バイエル・レバークーゼン
シャルケ04
1.FCニュルンベルク
1.FCケルン
チェルシーFC
リヴァプールFC
ニューカッスル・ユナイテッド
オリンピック・マルセイユ
ASサンテティエンヌ
アヤックス
ベンフィカ
ガラタサライ
フェネルバフチェ
アンデルレヒト
クラブ・ブルージュ
AEKアテネ
ロコモティフ・モスクワ
ディナモ・キエフ
シャフタール・ドネツク
パルメイラス
フルミネンセ
オークランド・シティFC
横浜F・マリノス
FC東京
アルビレックス新潟
読売ジャイアンツ
早稲田大学
ラグビーニュージーランド代表オールブラックス
サントリーサンゴリアス
神戸製鋼コベルコスティーラーズ


アディダス

ジャガー横田

柳沢発言ダメ!! ジャガー横田
 女子プロレスラーのジャガー横田(45)と、夫で外科医の木下博勝さん(39)が8日、東京都内で、財団法人ユニセフ協会と紙おむつブランド「パンパース」が展開する、カンボジアの子どもたちへワクチンを送るキャンペーンの1日サポーターを務めた。

 夫妻は東京・錦糸町のベビーザらス錦糸町店でトークショーを行い、同キャンペーンへの参加を呼び掛けた。夫妻には昨年11月、長男の木下Jaguar大維志くんが誕生。会見でジャガーは「子どもが生まれてから、すごく(夫婦仲が)まとまってます」とラブラブぶりを強調。しかし柳沢伯夫厚労相の「女性は産むための機械」発言には「全世界の女性を敵に回した。立場がある人は言葉を選んでいただかないと!!」と怒りの表情だった。 (江川悠)

中日スポーツより

ジャガー流!人生逆転。
ジャガー流!人生逆転。


ジャガー横田
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ジャガー横田(ジャガーよこた、本名:木下 利美(きのした りみ)、旧姓:横田、1961年7月25日 - )は、日本を代表する人気女子プロレスラー。東京都荒川区出身。身長160cm、体重57kg、血液型B型。趣味は、ボウリング、卓球。

来歴

ジャガー横田 女子プロレス界一のストロングスタイル
家計を助けるための就職の選択肢として入門したものの、現実のプロレス界はそれほど生易しいものではなく、身長159㎝(公称は160cm)というレスラーとしては決して恵まれているとはいえない体格がゆえに、芽が出ない場合には即解雇という厳しい状況が常に付きまとい、練習においては常に他のレスラーより先に始め、より多くのメニューをこなし、より後に練習場を退出するという日々を送った。その努力が実り、持ち前の反射神経の良さと人一倍の連練習量で形成した頑強でありながらバネのある肉体に加え、持ち前の格闘技センスの良さも相まって頭角をあらわし、タイトルというタイトルを総なめにして、後にその記録を改める者もいないほどの女子プロレス界における偉大なる金字塔を打ち立てた。

全日本女子プロレス現役引退後は、主にコーチとして従事しアジャコングら多くのスター選手を育成した。平成7年には吉本女子プロレスの設立に参画、同時に現役選手登録して選手復帰した。選手育成のため裏方に徹することが多かったが、自らも2つのタイトルを獲得するなど、後輩に対しマットの頂点に達することの厳しさを身をもって教えた。その後、若手のステップアップのため後進に道を譲ることを決意し、平成10年12月に再度現役引退して、フリーの立場で選手、コーチ、芸能活動などを行った。

しかし、世代を超えた全国のプロレスファンの根強い復帰要望の声に応え、再々度不死鳥のごとく現役プロレスラーとして復活し、現在では現役最古参女子レスラーとして各女子プロレス団体のリングに上がるとともに、フリーの立場で各団体の後輩の指導に当たっている。

レスラーとしては恵まれない体格ながら、その気迫迫るファイティング・スタイルは「女子プロレス界一のストロングスタイル」と評されて幅広いファン層を持ち、日本女子プロレス界の重鎮と目されている。


ジャガー横田 ジャガーY
2005年11月3日に横浜アリーナにおいて開催された「ハッスル・マニア2005」で、ハッスル軍と戦うモンスター軍に、女豹のようなメイク&コスチュームに身を包んだジャガー横田を思わせるリング・ネームとルックスを持ち、発言の際に語尾が「~ニャ」となる特徴を持つ謎の女性『ジャガーY』が現れたが、誰もがジャガー・横田本人であると認識しているにもかかわらず、ジャガー横田との因果関係は一切不明であるとされている。ピアニッシモのペシェを購入しているところを目撃されている。


ジャガー横田 戦績

ジャガー横田 タイトル
初代全日本ジュニア王座
初代全日本シングル王座
第29代WWWA世界王座
第31代WWWA世界王座
第12代UMA世界王座
第72代WWA世界タッグ王座
第3代TWF世界王座
初代TWF世界タッグ王座

ジャガー横田 得意技
ジャガー式スープレックス
ジャガー式バックドロップホールド
ジャガー式パイルドライバー
シャトルループバスター
ジャンピングヒップアタック
卍固め

ジャガー横田 人物
4人姉妹の末子として誕生する。中学校在学中には卓球の才能を見出され、卓球枠での高校推薦入学が内定していたが、家庭の経済的負担を軽減すべく就職を決意、全日本女子プロレスの新人レスラー募集をテレビ中継で知り、両親に内緒でオーディションに応募して応募者数百人の中から見事合格し日本女子プロ入り、その際の動機は単なる女子プロレス界に対するあこがれよりも「これなら私にも出来る」という就職の選択肢の一つとしての選択だったという。

現在では一般に英語の外来語で「シーツ」と呼ぶことの多い寝具のことを「敷布」と呼称するなど、古風な面を持ち合わせている。

2004年7月に、元リングドクターで現在は所沢胃腸病院勤務の医師、木下博勝と結婚。「究極の勝ち組結婚」として世間を賑わし、その後も数々のテレビ人気番組に夫婦で出演するなど、佐々木健介・北斗晶夫妻などと同様、本業のプロレスとは別に夫婦・家族としての側面でもお茶の間の人気者となった。 現在では、レスラーとしてまた6歳歳上の姉さん女房として夫を尻に敷いているというイメージが強いものの、実際にはかなり上手くいっている夫婦の一組として広く周知されている。

2006年5月に懐妊が判明、高齢出産であることや、それまで努めていた不妊治療が不調であったにもかかわらず、予想に反して自然妊娠がかなったことも相まって、マスコミの間で大きな話題を呼び、好意的な反響を呼んだ。ただ、胎児の健康のために禁煙を試みるもなかなかタバコが止められないことをテレビ番組で告白するなど、好意的に見守っていた人々をやや失望させるような場面も見られた。同年11月29日(現地時間、日本では11月30日)にハワイの病院で無事自然分娩にて長男:大維志(たいし)を出産、2007年にはリングに復帰する意向を表明している。その様子は、朝日新聞2006年12月26日朝刊の連載記事『患者を生きる』の妊娠・出産編にて特集「不屈のジャガー」(全6回)においても連載されている。

長男:大維志(たいし)に対しては早々に「ジャガー」の愛称を付け、周囲にミドルネーム込みで「木下“Jaguar” 大維志」と呼称するように強要したり、夫の木下博勝が長男:大維志に対して出生初日から早速「あひるの“あ”」・「うさぎの“う”」…などと語学教育を開始したことにパンチを浴びせている。将来は、両親のどちらの遺伝子を受け継いで、研究者など知的技術職の道に進むのか、レスラーの道に進んで佐々木健介&北斗晶夫妻Jr.と対峙するのかを冗談交じりで注目されている。

結婚・出産後もレスラー現役 兼 指導者を続行しており、活躍の期待を広く集めている。


ジャガー横田 その他

ジャガー横田 著書
『怒れ!!チャンピオン―おもしろすぎるぞ!女子プロレス』(桃園書房)ISBN 4807820052
『人生、何が起こるかわからない』(イーストプレス)ISBN 4872575857
『ボクに宇宙一の幸せをくれたジャガー―ボクらの出産顛末記』(日本テレビ放送網)ISBN 4820399799
※木下博勝との共著

ジャガー横田 写真集
ジャガー横田写真集 『 薔薇(コンパス)』 ISBN 4877630007
※撮影は山岸伸。

ジャガー横田 試合中継以外のテレビ出演
NTV(日本テレビ系) 『 踊る!さんま御殿!! 』
NTV 『 メレンゲの気持ち 』
NTV 『 伊東家の食卓 』
NTV 『@サプリ 』
NTV 『 くりぃむしちゅーのたりらりでイキます 』
NTV 『 ザ・サンデー 』
TBS(東京放送系) 『はなまるマーケット』
FNS(フジテレビ系) 『クイズ$ミリオネア』
FNS 『 こたえてちょーだい! 』
ANN(テレビ朝日系) 『 徹子の部屋 』
ANN 『 草野☆キッド 』
ANN 『 グレートマザー物語 』
TXN(テレビ東京・テレビ大阪・テレビ愛知系) 『 いい旅夢気分 』
『 ウリナリ芸能人社交ダンスSP 』

ジャガー横田 関連項目
プロレス
全日本女子プロレス
鬼嫁
北斗晶
高齢出産


ジャガー横田

新庄剛志

新庄「映画のヒット?野球より簡単」
2007年02月09日
 【ロサンゼルス7日=松本久】前日本ハムの新庄剛志氏(35)が、ハリウッドの敏腕プロデューサー、ジェリー・ブラッカイマー氏(61)製作の映画3作品を応援する総合プロデューサー就任会見を行った。「おれを選ぶなんて頭が良い」とご機嫌。3作で230億円の興行収入目標をぶち上げた。2年ぶりに再会したブラッカイマー氏には、将来の映画出演まで約束させ「主演なら興収300億円は間違いない」と大見えを切った。

 「映画のヒット? 野球より簡単さ」。約50人の報道陣を前に、日本ハムを44年ぶりの日本一に導いた名パフォーマーが、ハリウッドの応援団長として立ち上がった。

 3月17日公開の「デジャヴ」が皮切り。公開直前には、民放各局で1日限定の自ら出演するCMを流すほか、ポスターやサプライズイベントで盛り上げる。「作品自体がいいから、おれのサプライズが加わればすごくなる」。

 残る2作は「パイレーツ・オブ・カリビアン ワールド・エンド」(5月25日)「ナショナル・トレジャー2」(12月21日)で「それぞれ30億、150億、50億の興行収入が目標」と大風呂敷を広げた。宣伝部長を務めた「ナショナル・トレジャー」(05年公開)は、20億円のヒットになっただけに「デジャヴを50億にすれば、3作で250億もいける」と鼻息も荒い。

 「野球はパフォーマンスだけど映画は数字。結果を出せばジェリーもおれを主役に使うだろう」と俳優進出への色気を隠さなかった。「将来はぜひ出演して欲しい。ロマンチックアドベンチャーで、もちろん美女も隣にいるよ」とリップサービスをするブラッカイマー氏に「おれを主役に起用すれば、300億円は間違いない。日本で記録を作ろう」とビッグマウスで応えた。

 「好きな俳優はジョニー・デップ。変わった演技をするし、あこがれる。日本では、おれの次に人気がある」。ハリウッドでの目標俳優を口にした後には、映画製作への意欲も披露した。「いいね、いいねぇ。才能はあると思うんだ」。映画以外には「いろんな仕事のオファーがあるけど、面白さで選んでいる。10億円積まれても面白くないとしないよ」。自信満々に語る新庄節は最後まで衰えなかった。

asahi.com より

新庄 剛志 引退


新庄剛志
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新庄 剛志(しんじょう つよし、1972年1月28日 - )は、平成期(1990年代~2000年代前半)の元プロ野球選手・タレント。

福岡県福岡市出身(生まれは長崎県対馬市)、血液型A型。右投げ右打ち。現役時代の主な守備位置は外野手(中堅手)。阪神タイガースで11年プレーした後、メジャーリーグに挑戦。2004年から北海道日本ハムファイターズに所属し、同時に登録名を「SHINJO」と改め、2006年に引退した。現在の愛称は「プリンス」、チームメイトからは「つーさん」と呼ばれる。妻は横浜市出身で1992年クラリオンガールだった新庄志保(旧姓:大河内)。
夢のとなりで―新庄剛志と過ごしたアメリカ滞在記
夢のとなりで―新庄剛志と過ごしたアメリカ滞在記


来歴・人物
一般的な野球選手のイメージとはかけ離れた不思議な雰囲気と、独特な派手さをもったキャラクターの濃さで有名。野球選手としては強肩と俊足を生かした球界屈指の守備力は脅威的だが、打撃についてはここ一番での勝負強さがあるものの「○打席ヒット無し」と調子の良し悪しも非常に大きく、打率は2割台中盤が定位置で(本人も、怪我を繰り返した2005年シーズンに自嘲なのか「自分はどこに行っても2割5分の打者」と言った)、首位打者や本塁打王などの個人タイトルを獲得した事も一度も無い。かつての指揮官野村克也には「打撃以外は一流」と評された。だがトータルで見ると、球界屈指の強肩・守備力に、俊足、意外性のある打撃など、一流に近いものがあった。

その意味では成績で目立つ選手ではなく、むしろセールスポイントの守備やセンターからのダイレクト送球など「記録はイチローくんにまかせて、記憶はボク(新庄)にまかせて」と自身で語るように『記憶に残る』タイプの選手。そのためか「魅せる野球」にこだわりを持ち、独自に考案したファンサービスも積極的に行うなど野球界に対する貢献度は計り知れない。

独特の発言や行動で派手な雰囲気を振りまく一方で、周囲に対する気遣いも人一倍強く、パフォーマンスを行う際には、必ず事前に相手チームや監督・コーチ・先輩選手などに了解を得るなど周到な根回しを行っていた。チームメイトからは『新庄ほど気配りをする選手はいない』と言われるほどで、その人柄のよさも人気を支える一因であろう。オールスターゲームのファン投票でも常に上位に入り(ほぼ毎回1位)、出場回数も多い。そして、2006年の日本シリーズでも監督のトレイ・ヒルマンより先に胴上げされるなど、その人徳は球界屈指である。

2006年4月18日、同年限りでの引退を表明。本人によると自慢の守備で衰えを感じるようになり、体力限界が原因であると述べていたが、実は視力の低下であると自身のHPで誕生日でもある2007年1月28日に公表した。フロントはおろか、トレイ・ヒルマン監督や同僚の選手も寝耳に水であったらしく、日本ハム本社は「どんな手を使っても残留させる」と発言。しかし、新庄の意思は固く日本ハム本社・球団は同年9月1日に慰留を断念した。実際は脚の故障がすでに限界を超えていたための引退であることを「金スマ」で語った。その故障は左内太股の形が変わるほど酷いものだった。のちにTBSの「難病と闘う子供たち」という番組で引退の理由が本当は遺伝性の眼病であったことを告白(2007年1月9日)。病名は不明。

引退発表からシーズン後半にかけてマスコミの注目度は日に日に増し、新庄のパフォーマンスは「新庄劇場」と形容されて報道された。

非常に甘党であり、市販のデザートにはヨーグルト等に付いている砂糖を入れて食べると言う。ところが粒餡は大の苦手。粒餡を見るとゴキブリの卵を想像するという。

また、引退後の初仕事は「SMAP×SMAP」(フジテレビ系)のゲスト出演で、同番組にはMLB時代の2001年12月24日以来、これまで3回ゲスト出演。これがきっかけとなりSMAPとも懇意にして、木村拓哉ともプライベートで食事をする仲になる。なお、4回目となる今回の出演は、収録は2006年11月15日に東京都内で行われ、11月20日に放送された。

また、本人いわく、下着は毎日使い捨てらしい。「2006年12月24日放送・おしゃれイズム」より


新庄剛志 略歴
身長・体重:181cm 76kg
投打:右投右打
出身地:長崎県対馬市美津島町
血液型:A型
球歴・入団経緯:西短附高 - 阪神タイガース(1990年 - 2000年) - ニューヨーク・メッツ(2001年) - サンフランシスコ・ジャイアンツ(2002年) - ニューヨーク・メッツ(2003年) - 北海道日本ハムファイターズ(2004年 - 2006年)
FA取得・行使:2000年(1回目・行使移籍)
プロ入り年度・ドラフト順位:1989年(5位)
英語表記:SHINJYO(1990年 - 2000年)→SHINJO(2001年 - 2006年)
守備位置:外野、(二塁)、(三塁)、(遊撃)

新庄剛志 球歴
1989年 ドラフト5位で阪神タイガースに入団。背番号は63。
1992年 亀山努と共に「亀新フィーバー」を巻き起こし、チームの大躍進に貢献。
1993年 背番号を5に変更。
1995年 センスが無いので引退します宣言。当時の藤田平監督との確執が噂されたが、後日引退を撤回。
1997年 成績不振にも関わらず人気の影響でファン投票でオールスター選抜された為セリーグ応援団による集団応援ボイコット。スタンドから新庄帰れコールが続発。横断幕に新庄剛志、そんな成績で出場するな、恥を知れ。とのメッセージが書かれた。
1999年 読売ジャイアンツ戦で槙原寛己投手から「敬遠球サヨナラ安打」を放つ。オールスターでMVPを獲得し、2年前の屈辱を実力で晴らした。
2000年 FA宣言。また、女優の大河内志保と結婚。
2001年 アメリカメジャーリーグのニューヨーク・メッツに入団。背番号は阪神時代と同じ5。
2002年 サンフランシスコ・ジャイアンツに移籍。日本人初のワールドシリーズ出場達成。
2003年 ニューヨーク・メッツに復帰するが、打撃不振でマイナー落ち。日本球界に戻り、北海道日本ハムファイターズに入団。登録名はSHINJO、背番号は1。公式発表の前日、映画『バッドボーイズ2BAD』の特別試写会にて、非公式に観客に発表した。
2004年7月11日 オールスターゲーム第2戦(長野)でホームスチールを決めるなどの活躍により、MVPを受賞する。(オールスター寸前のペナントレースではお立ち台で「MVPは僕のものです!」と宣言した)なお、お立ち台で「これからは、パ・リーグです」と当時球界再編問題で合併の危機にあったオリックス・ブルーウェーブ、大阪近鉄バファローズ、そして一リーグ制移行論議の渦中で消滅の可能性にあったパ・リーグのファンを喜ばせた。そのお立ち台で最後にいった言葉は、自身が出演していたオロナミンCのCMの決めゼリフ「元気ハツラツぅ?」であった。
2005年 パ・リーグ開幕戦(対ソフトバンク)での始球式にオロナミンCのCMで共演した上戸彩が登場したが、先頭打者のSHINJOはバットの代わりにオロナミンCを持って入り始球式を挙行。その直後、「元気ハツラツぅ?」「オフコース!!」と、上戸彩とCMと同じやりとりをした。なお、この時の上戸はオロナミンCの宣伝で始球式をしたのではなく、対戦相手の親会社ソフトバンクが行っているYahoo!BBのキャンペーンのためであった。そのため新庄の持っていたオロナミンCには商品名を隠すシールが貼られていたが、誰が見てもそれが『オロナミンC』であることは明白だった。 
2005年6月5日 中日ドラゴンズ戦(ナゴヤドーム)で日米通算200号本塁打を達成(投手:山本昌)。この記録を達成した日本人選手は松井秀喜(現ニューヨーク・ヤンキース)に次いで2人目である。
2006年4月18日 恩師の中村勝広監督率いるオリックス戦(東京ドーム)、この日の1本目の本塁打に「28年間思う存分野球を楽しんだぜ。今年でユニホームを脱ぎます打法」と名付け、この日のヒーローインタビューで、突然の引退表明。この日を最後に打法命名を封印した。
2006年6月16日 広島戦(札幌ドーム)で、第1打席に日本通算200号本塁打を達成(投手:佐々岡真司)。
2006年9月15日 2007年夏の参院選への出馬を、自民党と民主党が要請していたことが判明。球団事務所は打診があったことを認めている。ちなみにその後新庄本人が断ったとのこと。
2006年9月27日 レギュラーシーズン最終戦のこの日限定で、背番号をプロ野球選手生活で最初に背負った63に変更。チームがレギュラーシーズン一位通過を決めた試合終了後、引退セレモニーを行った。

「ダイドーD-1コーヒー」SHINJO引退記念缶2006年10月2日 CM出演契約をしているダイドードリンコから『D-1 COFFEE』の「SHINJO引退記念缶」が12月までの限定発売。同時に『SHINJO引退記念キャンペーン』も展開された。
2006年10月26日 中日との日本シリーズの引退前の最終試合に於ける最後の打席では、涙でまともにボールが見えず三球三振であった(投手は中里篤史)。4勝1敗で日本ハムは44年振り2度目の日本一になった。
日本一が決まると、トレイ・ヒルマン監督より先に選手・スタッフから胴上げされた。(監督より先に選手が胴上げされることは異例である)
2006年11月18日 札幌で行われた優勝パレードには、私服で参加。ファイターズの新庄としての最後の姿になった。
2006年12月21日 インテリジェンス社とCM契約を結ぶ。現役引退後最初のCMモデル出演で、同社(2006年夏までは学生援護会)が運営する転職雑誌・ウェブサイト「DODA(デューダ)」のCMに登場する。
2007年1月28日 自身の公式ホームページ「CLUB SHINJO」を再開、HP上で今後の活動の方向性などを報告。野球選手引退を決めた理由として「野球をあきらめた原因は実は、目だったんです」として、左目の病気が原因だったことを明かした。

新庄剛志 背番号
63(1990年~1993年、2006年9月27日)
5(1993年~2003年)
1(2003年~2006年9月26日、2006年9月28日~10月26日)

新庄剛志 エピソード

新庄剛志 プロ入団前
小学生時代に8回も交通事故に遭っている。幸い大きな怪我を負う事も無く、野球を続けることができた。また、左手小指を中学時代に切断したことがある。
野球を始めたきっかけは「サッカーは手が使えないから」(当時、サッカーもよくしていた)。ちなみに、新庄は小学校高学年のときに「長丘ファイターズ」という野球チームを創部し、ユニフォームも彼がデザインした。運動神経が高く、いろいろなスポーツをやってもすぐに一番になってしまい、つまらないとやめてしまっていたが、野球だけは一番になれなかった。
1989年のドラフト会議において、阪神タイガースに5位で指名されたが、指名順位の低さが気に入らず、しばらくプロ入りを迷っていた。しかし、父親に「お前が行けなかった甲子園(新庄は甲子園出場経験なし)でプレイできるだろう」と言われたことがきっかけで、入団を決意する。
高校3年の県大会の時、サイクルヒットを達成している。ただし、本人がテレビ番組『ろみひー』に出演した際(単打、三塁打、本塁打をこれまでに放っており、第4打席に長打を放って)、三塁打にできる当たりだったが、二塁に止まれば二塁打になってサイクルヒットになるじゃないか、と思い二塁に止まったとのこと。これが原因かは不明だが結局チームは敗れてしまった。

新庄剛志 阪神時代
入団時から外野手だったが、阪神時代は遊撃手に転向した時期もあり内野も守れる。1999年には二塁を守ったこともあり、また2000年のオールスターゲームでは三塁を守ったことがある。
1992年5月26日の横浜大洋ホエールズ戦(甲子園)でプロ初スタメン。トーマス・オマリーの故障により出番が回ってきた。第1打席の初球をレフトへプロ初本塁打(投手:有働克也)。このときのポジションも内野(三塁手)。その後、オマリーの復帰により本来の外野手(中堅手)に戻る。しかし、それ以降、真弓・岡田に代わってレギュラーを勝ち取り亀山努と共に大ブレイクを果たす。
1995年6月20日の横浜ベイスターズ戦、本塁打になりそうな打球を自身の名前の書かれた応援旗でたたき落とされ、二塁打になったことがある。
この年のオフに「センスがないから」と引退宣言し、その後撤回した。この一件は当時右肘や右足を痛めていてオフは治療に専念しようとしていた新庄を藤田監督が無理に四国黒潮リーグに出場させたことにより新庄は球団に横浜ベイスターズへのトレードを志願、それを拒否されたうえに父親まで不当に批判された経緯があり、「センスがない」というのは確執の相手であるはずの藤田監督さえ気遣った新庄が苦肉の策で言った言葉であった。その後騒動に巻き込まれた父親(ちょうどそのころ体調が思わしくなかった)の病気が悪くなったと聞かされ(実は母親が新庄に引退を思いとどまらせるために一芝居打ったらしい)、「父の命には代えられませんから。ユニホーム姿が一番の薬」と父を勇気づけるために現役続行を決断した。(もっとも、これについての真偽は不明だが、「元・阪神」では、退団騒動は一部スポーツ紙による誇張記事が発端との記述があり、藤田との関係もそれほど悪くなかったもいわれる。それを収束させるために以上の様な釈明をしたという説もあるが、先の藤田監督との確執からの一連の出来事は新庄の父親も自身の著書の中で証言している)
阪神タイガースのユニフォームに文句をつけて、ビジター用ユニフォームからタテジマをなくさせたと言われている。ただしビジター用ユニフォームのタテジマ廃止は2001年春のキャンプ中の野村監督の選定で、すでに新庄はタイガースに籍がなかったのでこの説には疑問あり。
なお1999年オールスター戦で新庄はホーム用ユニフォームにビジターの黒帽子で登場、MVPをとる。これが野村監督が2000年から縦縞帽子を廃止にするキッカケになったという説がある。
「ジーンズが穿けなくなるから」という理由でウェートトレーニング拒否を宣言した。しかしのちに本人が語ったところでは、これは照れ隠し。本当はランナーとしての瞬発的なスピードを維持するために、あえて長距離走の訓練を避けたということらしい。
1994年秋季キャンプにおいて、山内一弘コーチに「チャンスに強く、常にファンを喜ばせるだけの華がある。王貞治ではなく、長嶋茂雄を目指せ」と声をかけられたが、「長嶋って誰?」と答えた。
プロ4年目に年俸が2200万円(推定)になったので、新庄は約2000万円のベンツを購入。残った200万円で生活をしようとしたが、税金のことを忘れていて、結局、叔父に助けてもらったとのこと。
阪神では桧山進次郎と仲がよく、また当時若手だった今岡誠によく食事をおごっていた。今岡は新庄の影響で現在は自らが若手にごちそうしているとのこと。
当時新庄が憧れていた選手はダリル・ストロベリー。そのため背番号を63から変更する際に、新庄はストロベリーのつけていた44を希望していた。結局5に落ち着いたが、44になっていたらランディ・バースやセシル・フィルダーなどが築き上げた「阪神の背番号44は強打の外人」というイメージを大きく変えたかもしれない。本人は、「カクカクしてるから。自分に合っていると思う。」とコメントしていた。
普通の外野フライもジャンピングキャッチするという守備スタイルについて、少年野球の指導者から「野球少年に悪影響をおよぼす」と指摘されたことがある。ちなみにこのスタイルは高校時代、先輩が2階から落とす生卵を割らないようにキャッチするというトレーニングを行って身につけたものだが、阪神時代に打球を顔面に受けたことが原因で大熊忠義コーチから一時禁止されていた。日本ハムに移籍してからはこれまで通り、引退するまでジャンピングキャッチを貫いた。
なお新庄自身はジャンピングキャッチの利点について、2006年4月13日放送のテレビ朝日『NANDA!? 新装開店SP 新庄剛志ってナンだ!?』のトークで「打球から目をそらさず、ジャンプの最高点に到達した時点で捕球する事で打球の勢いを殺すことが出来る」と解説している。ちなみに、イチロー(現シアトル・マリナーズ)も普通の外野フライをジャンピング・キャッチする事が多い。
若い頃は吉川晃司に似てると言われ、吉川のファッションをよく真似た。
黒ずんだ歯が嫌で100万円かけて真っ白い歯に総入れ替えした。この時、関西のスポーツ紙や阪神ファンから大批判を浴びた。
当時の阪神監督であった藤田平との確執により中日ドラゴンズへのトレードを自ら勝手に打診するも、当時の中日監督である星野仙一に説得され残留。そしてFA時にその中日から声が掛かるも拒否。理由は「名古屋の街が好きじゃないから」。当然星野は激怒した。
なおこの時、後に新庄を指導することになる野村克也が、「新庄君も男なんだから女の腐ったのみたいにしててもしょうがない」とサンデースポーツで発言し、草野満代キャスターが困惑する一幕もあった。
1997年のオールスターゲームにはファン投票セ・リーグ2位で出場するも、シーズン最低打率という体たらくに怒ったファンが応援をボイコット。「新庄剛志 そんな成績で出場するな 恥を知れ」と書かれた抗議の横断幕までもが掲げられた。新庄は引退会見でこの件について「一番の辛い思い出」と語っている。7月23日の第1戦(大阪ドーム)では、新庄の打席になるとグラウンドにペットボトルが投げ入れられ、試合が中断する一幕があった。
漫画『クレヨンしんちゃん』の中で野原みさえが新庄のファンになるエピソードがある。
1999年6月12日の巨人戦(甲子園)で槙原寛己投手から敬遠球サヨナラヒットを放った(ちなみに、その時のランナーは後に再び同僚になる坪井智哉)。野村監督をして「アイツは宇宙人」と言わしめる。このプレーについては、後のテレビ番組で「柏原純一打撃コーチと事前に練習していた」と語っている(柏原も現役時代に敬遠球を打ち、本塁打にした経験がある)。
なお、この日の試合では代打を出した関係で内野手が足りなくなり、途中から二塁の守備に就いていた。その日のヒーローインタビューで「明日も勝つ!」といったが翌日は見事に敗戦。1999年9月10日の巨人戦で決勝本塁打を放って、再びお立ち台で「明日も勝つ!」と発言するも、翌日から球団タイ記録の12連敗を喫した。
また日本ハム時代の2004年9月20日に幻のサヨナラ満塁本塁打を打った時にも「明日も勝つ!」と発言。翌日日本ハムは勝ったが阪神がその日から2連敗した。
野村克也監督時代の1999年に投手に挑戦し、二刀流と呼ばれた。オープン戦で登板したときは球速142km/hを記録し、当時新人だった打者二岡智宏を内野ゴロに打ち取った。野村監督曰く「投手の心理を理解させるため」ということだが、阪神OBや野球解説者から反対の声が多かったため、わずか数試合で頓挫した。
1998年オフ野村監督に指導を受けた際「一度に言われても覚えきれません、また今度にして下さい」と言って練習を切り上げた。
阪神入団時に購入したグラブを修理、補修しながら引退まで使用していた。プロに入って最初の給料で購入した。値段は7500円である。日本シリーズ終了後翌10月27日の記者会見では、「こいつと17年間やってきて、こいつがもう限界だと言ってきたので引退を決意した」と発言した。そのグラブの親指部分には阪神入団時の「TH 63」(阪神のロゴと、当時の背番号)が書いてある。

新庄剛志 MLB時代
FAで阪神からメジャーに移籍した。移籍前、人気選手の放出を引き止めようとした阪神球団が提示した年俸は、5年12億円(推定)という破格のものであった。それに対しニューヨーク・メッツでの年俸は、わずか2200万円(推定)であったとされる。大減俸となってのメジャー挑戦であることから阪神ファンもメジャー移籍を好意的に見る者が多い。本人は照れ隠しなのか「金額の桁を間違えて契約をしてしまった」と語っている。
メッツに行きたかった理由は「メジャーで活躍して有名人になりたかったから」と『いつみても波瀾万丈』(日テレ系)に出演した時に語った。ただしそれはメジャーに行きたかった理由であるにすぎない。低年俸でもメッツにした理由は、「何事につけ目立つ首都のニューヨークに行きたかったから」という趣旨のことを語ったこともある。
メジャーに行く直前に自身が所有していたフェラーリをオークションにかけることを発表し、4200万円で落札された。また「僕のフェラーリ売ります」というCMも話題になった。
ファンからの直筆メッセージで、「新庄」ではなく、「新圧」と書かれていたこともあった。
メジャー初打席で初安打、その足でセンターフライをタッチアップして2塁を陥れる。後続打者の本塁打でメジャー初得点。
適時打を打つことが多く、チャンスに強いクラッチ・ヒッターとして有名になった。
守備では、センターを守りながら、ライトが捕球し損ねたボールをうまく処理したことで、驚異的な守備として全米的に話題になった。
2001年8月3日のアリゾナ・ダイヤモンドバックス戦で4番打者として先発出場。メジャーリーグでスタメンで4番を打つのは日本人初。しかしこの日の成績はランディ・ジョンソン投手を相手に4打数無安打。
快進撃で優勝争いにまで浮上したメッツで4番を張りつづける新庄の勝負強さにあやかろうと、メッツのロッカールームではメッツナインが試合前に新庄の椅子に手を当ててからグランドに出る光景が見られた。
2001年度ベストドレッサー賞を受賞。
ニューヨーク・メッツからサンフランシスコ・ジャイアンツにトレードで移籍した。ジャイアンツでは新庄はセンターを守り、右翼はバリー・ボンズで並んだ。ボンズは「守備はおまえに任せるよ」と言った。ボンズは誰もが一歩距離をとってしまう存在であったが、「グレートなセンター」とまで言わしめるほど仲良くなった。
メジャー3年目のキャンプで必死に頑張る若い選手を見て「自分の代わりに彼らに(オープン戦で)チャンスを与えて欲しい」と首脳陣に提言をした所、「消極的な選手である」と受け取られてしまった。またケガのせいで、出場試合も少なく、成績も低迷した。このことで翌年の契約は結ばれなくなったので、日本に戻ってくるしかなくなった。なお、このケガは最後まで治癒しなかったらしく、最終的な引退の理由ともなった。
新庄は英語が苦手な様で、日本に早く帰ってきたのも(成績低迷のせいでなく)メジャーリーガー達と意思疎通がしにくかったためではないか、という好意的な解釈もある。なお、本人はもともと3年で戻ってくるつもりだったと語っている。なお専属通訳曰く「ヒアリングはバッチリだったが、絶対に英語を喋ろうとはしなかった」
メジャーリーグ在籍中、父親に「チームメイトと会話ぐらいはできるようになれ」と言われた際に「俺、アホやし、チームメイトに日本語教えるわ」と応えている。実際に日本語で会話していたかどうかは不明。ただし、変な用法の日本語をチームメイトに流行させていた。
メッツ在籍中、ロッカールームでコーヒーを飲んでいて「にがっ!」と思わず言った際、隣にいた黒人選手に殴られたことがある(黒人の蔑称が「ニガー」なため)。後に弁明して誤解は解けた。
テレビ番組でメジャー時代に人種または国籍の壁を感じていたことを告白しており、結果を出しても評価されないことに悔しさを覚えていたようである。イチローもこの類の発言を行っている。
メジャー挑戦初年度、「意味なしオちゃん、無理オちゃん」で流行語大賞を狙ったが失敗に終わった。このとき「意味なし男」と「意味なし夫」のどちらがいいか本気で悩んだらしい。
『開運!なんでも鑑定団』にゲスト出演し、親が1000万単位の借金の形として知人から譲り受けた掛け軸を披露したが、鑑定結果は5000円。一瞬しょげるが、突然ADからマジックペンを借りると掛け軸の真ん中に自分のサインを入れ、「これで僕が来シーズン活躍したら価値が上がるかも知れないでしょ!」と視聴者プレゼントにしてしまった。

新庄剛志 日本ハム時代
一番最初に声をかけてもらった所に行くと決めていた。最初に声をかけた新球団、北海道日本ハムに移籍。ちなみに彼は帰国後、阪神に声をかけたが、「名古屋の街が好きじゃないから。」と前監督の星野仙一を激怒させた発言や、赤星・金本や、濱中などの外野勢が鎬を削っていたので、オファーが来なかったらしい。監督の岡田彰布も「来ても守備できる所はないわ。」と新庄を再び獲得する意向が無かった。
そのオーバーとも思えるパフォーマンスのせいか利己的な性格と誤解されることが多いが、関係者達によるエピソードとして「入団時に背番号1を譲ってもらった阿久根鋼吉に即座に電話を入れ、了解を得る(阿久根は背番号を9に変更)」ということにも現れるように、素顔は他人への気配りを非常に大切にする人間である。特に日本ハム移籍後は他人を立てるように配慮を配り、その範疇は選手やコーチは勿論、日ごろファンが目にすることの少ないスタッフ(裏方)にまで目が届いているという。また、自分以外の選手にも目立ってもらいたいという想いも持っており、パフォーマンスの演出プランを提供することも多い。
入団会見の際には「札幌ドームを満員にする」「チームを日本一にする」ことを目標に掲げた。会見時はどちらも絵空事のように思われたがどちらも実現し、「そんな事できる訳が無い」と一蹴していた評論家たちに目にもの見せ付ける格好となった(なお、開幕前にファイターズをBクラスと予想していた評論家達に「これ以降は予想出来ないね」と皮肉を交えてインタビュアーに応えていた)。
同じ野球人だが、小笠原道大とはその正反対とまでいえる性格の対比から「ウマが合わない」「仲が悪い」とよく誤報道されがちであった。インタビューで新庄が小笠原について聞かれた際に「彼が日本ハムの主将です」と発言。また、2006年パ・リーグ優勝決定後の合同記者会見にて小笠原が「日本シリーズを制覇して監督(トレイ・ヒルマン)はもちろん、ツーさん(新庄)を胴上げしたい」と親愛の情あふれる発言をするなど、2人は良きチームメイトで、互いに足りない所を尊敬しあっている仲である。実際にベンチでも仲良さそうに会話している姿が多く見られる。「ツーさんを胴上げしたい」を聞いていた新庄も「感無量」と言った。
2004年1月2日放送のフジテレビ『クイズ$ミリオネア』で、15問全問正解、賞金1000万円を獲得。迷った際には鉛筆を転がして答えを選んでいた。この賞金で札幌ドーム外野右中間後方に広告看板を掲示した(当初はSHINJOシートの真上に当たる左中間後方に掲示したかったため、以前からその位置に広告を掲示していたつぼ八に位置の交換を申し出たが、拒否された)。
2004年から日本ハム主催試合の外野席に自腹で「新庄シート」を毎試合100席ずつ用意。野球少年達を無料で招待している。
日本ハム移籍後、試合前のパフォーマンスとして、カエル(サントリーの『健康系カテキン式』のCMで長谷川初範が被っていたものと同じカエル)やスパイダーマン、ゴレンジャーの覆面をつけ話題になる。ちなみに着ぐるみを付けた試合の勝率は8割(4勝1敗)と驚異的な数字を誇る。
また話題作りとしてとしてか、ホームランを放つたびに独特な打法名を命名する事も始めた。2005年4月15日の東北楽天戦ではネクストバッターズサークル内でファウルボールが局部に直撃したにもかかわらず苦痛に顔を歪めたままホームランを打ち、このとき「右○○○○打法」(○には放送禁止用語が入る)と述べたため、ニュースで「放送禁止用語打法」と紹介された。しかしこの恒例の打法命名も先述の2006年4月18日の引退宣言での「28年間思う存分野球を楽しんだぜ。今年でユニホームを脱ぎます打法」を最後に封印された。
始球式のボールを打つことでもよく知られている。2004年には、男子ソフトボール日本代表投手と始球式では異例の三球勝負を行い三振。同年、オールスターでは小学生の投げたボールを打ってファウルフライにした。ほかにも女子小学生の投げた球をレフト前に飛ばすなど枚挙に暇が無い。また、2005年のシーズン開幕戦の始球式ではバットを持たずに打席に入った(後述)。
母校・西日本短大付属高校の野球部のマイクロバスが老朽化していることを同級生である同校の野球部監督から聞いていた新庄は、2004年、同校が夏の甲子園に出場した際、部員たちに「お祝いに新しいバスを贈る」と約束。実物は翌年8月に同校に納車された。バスは26人乗りのマイクロバス「トヨタ・コースター」(700万円相当)。前方、左右両側面には「Nishitan」の文字と、新庄の用具にも刺繍されているバットを高々と掲げる真っ赤な新庄のシルエットが塗装された。後部には"Presented by Tsuyoshi Shinjo"の文字。同校のリクエストで後部座席4席を無くし、道具入れを設けるなど改良も施された。「甲子園史上最大の差入れ」と話題になった。
2004年のオールスターゲーム第2戦(長野)で、ホームスチールを決めるなどして活躍。試合前の宣言通りMVPに輝いた。またヒーローインタビューでは、プロ野球再編問題を受けて「これからは、パ・リーグです!」と述べた。
2004年9月20日のダイエー戦は、前日、前々日のストライキのファンへのお詫びとして「おととい、昨日と試合できなくてゴメンJoy」と試合前のシートノックで森本稀哲、坪井智哉、石本努、島田一輝と5人で秘密戦隊ゴレンジャーのパフォーマンスを実施してファンの喝采を浴びた。(アカレンジャー=森本、アオレンジャー=島田、キレンジャー=新庄、モモレンジャー=石本、ミドレンジャー=坪井)。試合では4-8で迎えた4回裏に新垣渚からソロホームラン、さらに9-12から3連打で12-12と追いつきなおも二死満塁とした9回裏、三瀬幸司の投球をファイターズファンでぎっしり埋まった左翼席に叩き込んだ。しかし一塁を回ったところで喜びのあまり抱きついてきた一塁走者の田中幸雄に抱きつかれた際に2人揃って一回転、これが追い越しと判定され記録はシングルヒットに。しかし、新庄は一塁に到達していたので記録上は安打となり、既に生還していた三塁走者・奈良原浩の得点のみ認められ、13-12とチームは劇的なサヨナラ勝利を収めた(実際、田中幸は奈良原の生還を見届けた上で新庄に抱きついたという)。新庄は生還する前にアウトとなったにもかかわらず、サヨナラホームランの時と同じようにダイヤモンドを一周し、ホームベースでチームメイトから手荒い祝福を受けた。このあと、田中幸はホームランをシングルヒットにしてしまったことを真っ先に新庄に謝罪しに来たが、自分の記録よりチームの勝利が大切だった新庄は先輩を気遣い「いいんです、何言ってんですか。勝ったんだから」と笑顔で返した。この試合のヒーローインタビューで、「今日のヒーローは僕じゃありません、みんなです!!」と発言した。
さらに「明日も勝つ!」と宣言、阪神時代のジンクスをものともせずに翌日もホームランを放ち、チームの勝利に貢献した(尤も古巣の阪神が翌日から二連敗した)。
球界屈指の強肩として知られているが、『いつみても波瀾万丈』で強肩のことを聞かれた際に「あれでも(肩の強さは)落ちたんですよ」と言ってのけた。プロに入ってから高校の野球部の同期に「お前、肩(の強さが)落ちた?」と言われたらしい。
2005年3月26日のパ・リーグ開幕戦、ソフトバンク戦(福岡Yahoo!JAPANドーム)で、上戸彩が始球式を務めた際、打席に立った新庄は、バットを持たずに打席に入ったと思われたが、ユニフォームのズボンの尻ポケットからオロナミンCを取り出し、上戸とCMで共演した時と同じ決めポーズを披露。結果は空振りだったが、ドーム内は大いに盛り上がった。
2005年5月6日、セ・パ交流戦開幕戦の古巣・阪神戦の始球式で『スターウォーズ』のダース・ベイダーに扮して登場した。ちなみにこの試合ではスタメンから外れ途中出場した。この企画はジョージ・ルーカス公認である。メジャー時代の新庄を見て、名指しで指名したらしい。
交流戦での阪神戦ではホームランを放った際に阪神ファンからも拍手が起きた。また新庄自身も甲子園を世界一の球場と評し、未だ愛着があるらしい(ホームランの打法名は「オレを育ててくれたこの球場に感謝打法」)。
日本ハムのユニフォームはビジター用がデサント製(ホームはミズノ製)であるが、以前はデサントの契約選手であった事もあり、胸元が大きくV型に開き袖が極端に短くタイトな特注品を着用している。2005年まではアシックス(ローリングス)の契約選手であったが、2006年シーズンは特定の企業と用具契約を結ばないと報じられた。
2005年7月23日のオールスター第2戦では、チーム名の胸部分に「SHINJO」、背中に「FIGHTERS」と通常と正反対にあしらったユニフォームを着て登場。新庄曰く「今日は新庄ファイターズで」。そのまま出場しようとしたが、使用許可は得られなかった。途中出場した打席には、180万円のダイヤが埋め込んであるスパイクと、ルール違反である始球式用の黄金バットで登場した(審判も「お祭りだから」ということで黙認したらしい)。バックスクリーンにバットを向けてホームラン宣言をするも、ヤクルト・五十嵐亮太に打ち取られた。
2005年9月19日の対西武戦では試合前のシートノックで森本稀哲、稲葉篤紀、小谷野栄一、石本努と5人で同じ自分の顔をかたどったかぶり物のパフォーマンス「5人のSHINJO」を披露、しかし松坂大輔に完封負けを喫してしまいかぶり物の不敗神話は崩壊(かぶり物でシートノックを受けた試合では初の敗戦だった)、『パフォーマンスは結果を出して何ぼ』の信条を持つ新庄はこれを機にかぶり物パフォーマンスを封印した。
2006年の春季キャンプには、ルイ・ヴィトン社から提供された58万8000円の野球バッグを持って登場した。
2006年、二軍キャンプ地の沖縄県国頭郡国頭村に新設されたくにがみ球場で行われた紅白戦に、一軍から異例の実戦出場。同球場のプロ選手による第1号本塁打を放った(打法名:「打法名はまだ早い打法!!」)。村は早くも銅像の建設や、球場名を「くにがみ新庄球場」に変えるなどのプランを検討している。
同じ日本ハムの森本は新庄のことを師匠のように思い、新庄もまた森本のことを弟子のように思っている。引退後に使われなくなる背番号1を森本に受け継いでもらいたい旨の発言も行っている。
2006年3月25日のパ・リーグ公式戦の開幕戦においては以前から「(パフォーマンスを)何かやります」と予告の通り試合前にトライク(三輪バイク。様々なバイクをベースにできるがこの時はハーレー・ダビッドソンベースであった)に乗ってのド派手な入場ショーを敢行した。その光景を見た対戦相手、楽天の野村監督(阪神時代の監督)は「あの人は芸能人ですから」と一蹴した(ちなみにこの試合は、野村監督率いる楽天が敗北している)。総じて阪神時代から時々新庄の行動に文句等を言っていた野村監督だが、新庄を嫌いではなくむしろ彼が気になって仕方なかったからであろう。
2006年、日本ハムゴールデングラブ賞外野部門独占のメンバーである(左翼森本、中堅新庄、右翼稲葉)。特に新庄と森本の連携は抜群で「左中間の深い当たりをどちらかが捕球→体制が悪い時は相手にトス→ボールを受け取った方が次塁を狙うランナーを刺すことを狙う」というプレーも稀に見られた。

新庄剛志 引退セレモニー
2006年9月27日の札幌ドームでのホーム最終戦(対ホークス)でレギュラーシーズン1位通過を決め、試合終了後は引退セレモニーを行い、これまでの野球人生を振り返るVTRをセンターの守備位置から見守った。最後に、ユニフォーム・グラブ・リストバンド・タオルをセンター守備位置に置き、涙を浮かべながらグラウンドを後にした。ユニフォームの下のアンダーシャツには「今日、この日、この瞬間を心のアルバムに刻んで、これからも俺らしく行くばいっ!」とのメッセージが書かれていた。新庄自ら引退挨拶をすることは無かったが、去り際にはスコアボードに「残りわずかな野球人生 明るく楽しく 白球を追い掛けることを きょうこの日 みんなに約束します」と新庄の署名つきでファンに向けてメッセージが表示された。このセレモニーに先立って、この日一日限り、背番号を1から阪神時代最初につけた背番号である63に手続きをとり変更した(これに伴い、元々63だった渡部龍一も、この日一日限り68に変更。ただし2軍の試合はなかったため、渡部の背番号68のユニフォームは製造されなかった。渡部はこれについて「どうせなら背番号1に変更してもらいたかった」と冗談交じりに話していた)。東京ドームで引退宣言をしたこともあり、今回のセレモニーは、地元札幌のファンへけじめをつけたいとの意味合いも込められている。なお予定通り、翌9月28日に再度手続きがとられ、背番号を1に戻した(渡部も背番号を63に戻している)。

新庄剛志 新庄語録
「野球に対するセンスがないって見切った」 - 1995年、引退宣言の記者会見の場で(上述)。どうやらJリーグに転職するらしかったが、翌日に撤回し、ファンや記者をあ然とさせた。実は確執の相手であった藤田監督を悪者にしたくなかったための苦肉の策の一言であったらしい。どんなに嫌いでも「藤田監督が大嫌いだから」とは言えなかったという。
「父の命には代えられませんから」 - 引退撤回時の一言、かねてから体調が思わしくなかった父の病状が悪化したと母から電話で聞かされたのだが、実はこれは新庄に引退を思いとどまらせるために母が打った策であり、その時当の父親は近所の行きつけの飲み屋で引退撤回の祝杯をあげていた。
「ぼくは盗塁に興味がないんです」 - 阪神時代、就任したばかりの野村監督に「なぜ盗塁しないのか」と尋ねられて。
「ぼくは外人になりたいです」 - 1997年シーズン開幕前、阪神ファン激励の集いでファンに「今年は何をがんばりたいですか」と聞かれ。
「明日も勝つ!」 - 1999年9月10日の試合後のヒーローインタビューで。しかし翌日からチームは12連敗。別の試合でも2回言っているがどちらも完敗している。ただ新庄に限らず、競技全般で「明日も勝つ」や「優勝」を口にすると実現しない事が多いというジンクスがある。ちなみにこのジンクスは日本ハム入団とともに消えた。
「両方カンタン!」 - 野球に出るのとCMに出るのどっちが難しい?という問いに答えて。
「自分の好きな球団が見つかりました。その球団は、ニューヨーク・メッツです!」 - 阪神時代、FA宣言した際の記者会見の場で。
「ジーンズが似合わなくなるのがいやだから、下半身は鍛えたくない」 - 「ウエイトトレーニングをしないのか」の質問を受けて(前述のように真意は違っていた)。現在は考えを改め、サイズが変わらないように上手く下半身トレーニングを行っている。
「あれってミアミ?」 - メジャー在籍時のバス(?)遠征中、道路標識に「MIAMI」(マイアミ)と書かれていたのを見て。通訳は「あれはマイアミ」と答えたが新庄は「でも普通に考えたらミアミか、マイアマイじゃん」と譲らなかった。
「バント? ムリオだね。右打ち? 意味ナシオ」 - 新庄はこの「ムリオ」「意味ナシオ」で流行語大賞を狙った。
メジャーリーグ時代、テレビ番組のインタビューで「もう俺、エーペだから」と答えた。「エーペって何ですか?」と問われ、「知らないの? 英語ペラペラのことだよ。三重じゃ有名!」と言って笑っていた。キャスターが「新庄さん、出身、大阪ですよね?」と質問すると、すかさず「あっ、俺、福岡!」と答えた。
「俺もアメリカ人だから戦わないと」 - ニューヨークで同時多発テロが発生したあとのインタビューで。
「Movie Star」 - アメリカ最後の年、メジャー昇格した新庄が一塁に出塁すると、一塁手から「来季はどうするんだ?」と声をかけられ、本人も「まだ分からない」と喋ったあとに「ムービースター」と言い出した。ちなみに全て英語での会話である。1塁付近にマイクが仕掛けられているのを知った上でのネタ発言だという。当然の如く、日本でニュースのネタになる。
「その事には触れないで。思い出したくもない」 - 帰国後、メジャーでの生活を聞かれて。
「なまら北海道だべさ!」 - 入団会見の挨拶。後にこの「なまら」は方言ブームの中心として一般に知れ渡ることに。
「これからは、パ・リーグです!!」 - 2004年7月11日のオールスターゲームにてMVPを獲得した際のインタビューで。
「札幌ドームのロッカールームは携帯電話の電波が悪いから悩んでいたが、今度アンテナを付けてくれることになったので残留した」 - 2005年11月に日本ハム残留を発表した記者会見の場で。
「メジャーリーグでは英語ばかりで、これでやっと日本語で話ができると思ったら監督が外国人だった」 - 日本ハムの入団の気持ちを聞かれて。
「知ってる? オレ、背番号23だったんだよ。一番、楽しかったころ。マイナーね」 - マイナーリーグ時代のユニフォームを着たファンに出会って。
「ベストドレッサー賞はメジャーでもらった野球の賞より嬉しい」 - ベストドレッサー賞受賞会見で。
「サッカーの方が今でも好き」「サッカー選手になりたかった」等、サッカーが好きなようである。
「今年のオレのゴールデングラブ賞はおかしい。1年間この賞を心の中で目指して取り組んでいた選手に申し訳ない。来年からは、印象ではなく数字で選んで欲しい。そうでないとこの素晴らしい賞の価値がなくなってしまう」 - ゴールデングラブ賞を受賞した際の発言。このシーズンはケガでシーズンを通して働けず、守備も納得のいくものではなかった。守備に対して大きな誇りを持つ新庄らしい一言である。
古巣である阪神に対する強い思い入れから、2006年のレギュラーシーズン1位通過会見では「名古屋の方には申し訳ないけれど、日本シリーズは甲子園でやりたい」と発言した。この発言に対しては「ちゃんとした成績(リーグ優勝)を残してから言え」「まだ日本ハムの優勝が決まったわけでもないのに失礼だ」との批判も起きた。これについてはかつて阪神時代に名古屋の街は好きではないという発言も深く関係していたと思われる。結局、日本ハムはプレーオフを全勝で勝ち抜いたが、阪神がセ・リーグを制覇することはかなわなかった。
「8番以外ならなんでもいいよ」 - 日本ハムへの移籍が決まり、インタビューで希望打順を聞かれたときに発言。新庄は「投手の前ってのは嫌なんですよ」と語ったが、キャスターが「(指名打者制を採用している)パ・リーグですよ」と突っ込みを入れ、「なら、どこでもいいわ」と笑って答えた。
「プロ野球の存在意義は、その街の人々の暮らしが少し彩られたり、単調な生活がちょっとだけ豊かになることに他ならない。ある球団が中心で物事を進ませるセ・リーグにはない、野球くささをパ・リーグはもっている」 - 球界の趨勢が1リーグ制に傾きかけているとき、日刊スポーツ誌上で。
「北海道で、今後行ってみたい場所は?」に対し「引退後に行ってみたい所は網走刑務所。理由は有名だから」 - 日本シリーズ制覇翌日に札幌ドームで行われた引退記者会見にて。
「2位でいいよ、2位で」 - 2004年のシーズンオフの自主トレのさいのインタビューにて
「オレ、毎日が日本シリーズなら4割打てるわ~」 - 2006年の日本シリーズ中に飛び出した発言。ちなみにレギュラーシーズンでは、新庄は不思議なことに観客の数が多くなればなるほど打率が飛躍的にアップしていた。週刊ベースボールの記事によると、札幌ドームで観客が4万人を超えた日の新庄は打率が4割に達していたとのことである。
「NEVER MIND WHATEVER I DO!FAN IS MY TREASURE.」 - 2006年のオールスターで新庄のベルトに流れたファンへのメッセージ。「ほっとけ、俺の人生だ。ファンは俺の宝物。」という意味。(本来のパフォーマンスは神宮球場の上からヘリコプターで降りてくる予定だった。しかし国の許可が降りず断念。)
「北海道に来て良かった。メジャーとか、いろんなとこまわったけど一番北海道が自分に合っていた」 - 北海道日本ハム優勝時の祝勝会での発言。
「北海道で種をまき、フロント、監督、コーチ、選手で毎日、一生懸命水を与え・・・やっと三年目にして花が咲かせらることができれたんじゃないかな、と。その花の色はとても美しくて、たくましい金の・・金色の花が咲けたことに、凄く・・嬉しく思ってます。」引退会見でのコメント。ファイターズに来てからの3年間のことを的確に、そして美しく言い表している。
「オレの華麗な守備を魅せられなくなるのは残念だけど、引退の年にゴールデングラブに選ばれるなんて(強運を)持ってるわ。日本ハムがこれからも最強の外野陣をつくっていってくれる事を信じて外から応援しとくばい」 - 2006年、10度目のゴールデングラブ賞の受賞が決まった時のコメント。
「よかったじゃん」 - 弟分の森本稀哲に背番号1が受け継がれることが決まり、森本から報告のメールが来たときの返信。この一言をもって正式に背番号1が森本に継承された。
「新庄えらい男」 - インテリジェンス社の「DODA」CM出演契約を結んだ時の会見の時のコメント。新庄の現役引退後最初のテレビCMで、自らの名刺には「インテリジェンス営業本部・スーパーエグゼクティブオフィサー」(SEO)という肩書きが「用意」されたが、新庄は「まぁ、判りやすくいえば新庄(S)えらい(E)男(O)ですか」とコメントをしていた。

新庄剛志 成績

新庄剛志 日本時代
年度 チーム 試合 打数 得点 安打 二塁打 三塁打 本塁打 打点 四死球 三振 盗塁 盗塁死 打率 長打率 出塁率 OPS (出塁率+長打率)
1991 阪神 13 17 1 2 0 0 0 1 0 3 0 0 .118 .118 .118 .236
1992 阪神 95 353 39 98 16 3 11 46 18 73 5 2 .278 .433 .320 .753
1993 阪神 102 408 50 105 13 1 23 62 20 91 13 2 .257 .463 .305 .768
1994 阪神 122 466 54 117 23 7 17 68 30 93 7 5 .251 .440 .304 .744
1995 阪神 87 311 34 70 15 3 7 37 26 76 6 4 .225 .360 .294 .654
1996 阪神 113 408 55 97 16 4 19 66 55 106 2 2 .238 .436 .335 .771
1997 阪神 136 482 62 112 17 3 20 68 44 120 8 4 .232 .405 .306 .711
1998 阪神 132 414 39 92 21 3 6 27 25 65 1 2 .222 .331 .275 .606
1999 阪神 123 471 53 120 21 7 14 58 23 72 8 2 .255 .418 .303 .721
2000 阪神 131 511 71 142 23 1 28 85 32 93 15 6 .278 .491 .321 .812
2004 北海道日本ハム 123 504 88 150 28 3 24 79 15 58 1 3 .298 .508 .327 .835
2005 北海道日本ハム 108 380 54 91 20 1 20 57 14 64 5 0 .239 .455 .274 .729
2006 北海道日本ハム 126 438 47 113 21 0 16 62 24 76 2 8 .258 .416 .298 .714
通算 実働13年 1411 5163 647 1309 234 36 205 716 326 990 73 40 .253 .432 .304 .736


新庄剛志 MLB時代
年度 チーム 試合 打数 得点 安打 二塁打 三塁打 本塁打 打点 四死球 三振 盗塁 盗塁死 打率 出塁率 長打率 OPS (出塁率+長打率)
2001 NYM 123 400 46 107 23 1 10 56 25 70 4 5 .268 .320 .405 .725
2002 SF 118 362 42 86 15 3 9 37 24 46 5 0 .238 .294 .370 .664
2003 NYM 62 114 10 22 3 0 1 7 6 12 0 1 .193 .238 .246 .484
通算 実働3年 303 876 98 215 41 4 20 100 55 128 9 6 .245 .299 .370 .669


新庄剛志 タイトル
オールスターMVP
2回 (1999年、2004年)
札幌ドームMVP
1回 (2004年)
最多補殺
3回 (1993、1997、1998年)
ベストナイン
3回 (1993年、2000年、2004年)
ゴールデングラブ賞
10回 (1993年、1994年、1996年~2000年、2004年~2006年)
オールスター出場
7回 (1994年、1997年、1999年、2000年、2004年~2006年)

新庄剛志 記録
オールスターでの単独ホームスチール成功
オールスター史上初の記録(2004年)
セ・パ両リーグでオールスターMVPを獲得
史上初の記録(セでは1999年、パでは2004年)。

新庄剛志 コマーシャル出演
オートバックスセブン
デサント
ローソン
日本ハム「モーニングサーブ」「ハムギフト」
大塚製薬「オロナミンC」(下記参照)
グンゼ
資生堂「シーブリーズ」
エイチ・アイ・エス(共演は、夏木マリと秋元康)
アオキインターナショナル「メンズプラザアオキ」
長谷工アーベスト「スターコート豊洲」
ダイドードリンコ「D-1」(2006年)
『香料がいらない篇』
『ドイツ語篇』
『ダイナミック篇』
『無香料時代篇』
『本物の豆の香り篇』
『じゃあ言わない篇』
ジレット
日本特殊陶業「NGKイリジウムプラグ」
サッポロビール
インテリジェンス 「DODA(デューダ)」 (2007年1月~)


新庄剛志

ロッソ熊本

ロッソ熊本(ろっそくまもと、英文表記:Rosso Kumamoto)とは、熊本県熊本市を本拠地とするサッカークラブ。

ロッソ熊本 原語表記 ロッソ熊本
愛称 ロッソ
クラブカラー 赤
創設年 1969年
所属リーグ 日本フットボールリーグ
所属ディビジョン 3部
ホームタウン 熊本市
ホームスタジアム 熊本市水前寺競技場
収容人数 15,000
代表者 前田浩文
監督 池谷友良

ロッソ熊本 クラブの概要
日本電信電話公社(電電公社)熊本サッカー部として1969年に創設。ホームタウンは熊本県熊本市。ホームスタジアムは熊本県民総合運動公園陸上競技場(KK WING)、熊本市水前寺競技場、大津町運動公園球技場、熊本県営八代運動公園陸上競技場。KK WINGがJリーグが定める規格に最も近いが、幾つか満たしていない要件もある。

クラブの運営法人は株式会社アスリートクラブ熊本。ジュニアユース(U-13)も発足した。

チームの愛称であるロッソ(ROSSO)はイタリア語で赤を意味する。このクラブカラーともなっている赤は、火の国熊本をイメージしている。エンブレムのデザインは暴れ馬と赤い盾。馬は選手を表し、盾はそれを支えるサポーターを意味する。また、盾の形は熊本県のマークからイメージした物である(フェラーリのエンブレムである「カヴァリーノ・ランパンテ」に酷似しているとも言われるが、フェラーリ社には了解を得ている)。 ちなみに、「馬」は熊本の伝統的な祭りにも関わる、地元の象徴的な動物のひとつ。

2006年8月15日、Jリーグ準加盟クラブとして承認された。


ロッソ熊本 クラブの歴史

ロッソ熊本 NTT西日本熊本(電電公社熊本)時代 (1969年~2001年)
母体は日本電信電話公社熊本サッカー部で1969年に創部。

その後、1985年に電電公社の民営化に伴いNTT九州サッカー部に改称。

1983年に九州社会人リーグ(通称:Kyuリーグ)に昇格後、常にリーグ戦の上位争いに参加し、ライバルの東亜建設工業サッカー部(後のブレイズ熊本。現在トップチームは廃部したが、下部組織は存続している。)とともに熊本県下の強豪として名を馳せた。その間にも国民体育大会の熊本県代表として単独出場を果たしたり、1998年には全国社会人大会に於いて初優勝を飾る。

1999年にNTTの持ち株分社化に伴いNTT西日本熊本サッカー部とチーム名を改称。2000年の地域リーグ決勝大会では3位となり、惜しくも日本フットボールリーグ(以下 JFL)への自動昇格は果たせなかったが、当時のチーム増の方針から、地域リーグ決勝大会出場チームでJFL入りを希望するチームには昇格が認められ、この措置によってJFL入りが実現する。2001年シーズンはJFL8位と大健闘した。


ロッソ熊本 アルエット熊本時代 (2002年~2004年)
2002年シーズンには、本格的にJリーグ参戦を目指すことになると同時に、これまでのNTT西日本の実業団チームからクラブチームアルエット熊本(英文表記:Alouette Kumamoto)に移行(正式にこのチーム名が採用されたのはクラブ化された2002年度からだが、NTT西日本の実業団チームだった2001年(JFL昇格年度)からこの愛称は採用されていた)。チーム名に含まれる愛称のアルエット(Alouette)とは、フランス語で熊本県の鳥・ヒバリを意味する。また、その際に運営法人としてアルエット熊本フットボールクラブが設立された。しかし成績が振るわず惜しくも17位で、最下位(18位)だったプロフェソール宮崎(現:サン宮崎FC)とともに九州社会人リーグに自動降格してしまった。

2004年、“熊本にJリーグチームを”ということで、熊本県サッカー協会を中心に、それまであまり関心のなかったと言える地元自治体(実はアルエット時代に、Jリーグ参入に向けて地元自治体に協力を依頼したが、内容等に折り合いが付かなかったようで、結局断念した、という経緯がある。)の協力の下、「熊本にJリーグチームを」県民推進運動本部が発足される。その際に立ち上げられる(Jリーグ参入に向けての)新チームの母体として、アルエット熊本が選ばれた(ちなみにこの際、アルエット熊本(のままで)の強化案も出ていたのだが、“面白みがない”“新鮮味がない”ということで却下され、前述の通り、「作り直し」を前提としたと受け取れるような形で新チーム案が採択された)。県民に関心を持ってもらおうと、アルエット熊本をJFLに昇格したときから取材し続けてきた熊本日日新聞社の朝刊や夕刊の広告面に大々的に掲載される。また、新聞に掲載されたものと同じ内容のポスターも熊本市のアーケード街を中心に貼られていく。広告の宣伝と同時に、本部のホームページも立ち上げられた。

この年、アルエット熊本は着実に力を盛り返してきていて、九州社会人リーグを4位で終了、全国社会人選手権での参加をもって、わずか3年で、惜しまれつつもアルエット熊本としての活動を終える。

その後、アルエット熊本から新チームへと移行する際に、アルエット熊本の選手も含めたチームメンバー選考のためのトライアウトが行われ、結果、熊本県出身の選手は選ばれているものの、アルエット熊本の選手は誰一人選ばれなかった。(選ばれなかったアルエット熊本の選手の大半は、鶴屋百貨店サッカー部(現:ヴァンクール熊本)などの県内のチームに移籍した。)


ロッソ熊本 ロッソ熊本時代 (2005年~)
2005年シーズンから、「熊本にJリーグチームを」県民推進運動本部による一般公募により、チーム名をロッソ熊本に変更。2004年末に発足したアスリートクラブ熊本(AC熊本)が正式に運営することになった。

ただ、このチーム名の変更は、形式上のことであり、実際にはチーム自体を丸ごと入れ替えたようなものなので、アルエットとロッソは何のつながりもない別々のチームとしてとらえられている(というより、そういうことにされている)。しかし、アルエットが九州社会人リーグに参加していなければ、ロッソが同リーグから参加することは不可能なので、上記の通り「ロッソの母体はアルエット」ということには、何等問題はない。
また、チームをロッソ熊本に移行する前のトライアウトで選ばれた選手全員がプロ契約することになり、事実上、チームは“プロのサッカーチーム”となる。

2005年の九州社会人リーグで優勝。同リーグ優勝はアルエット時代までのを含めて5年ぶり7回目で、最終戦・地元熊本市で開いたFC琉球との首位攻防戦を制しての優勝だった。だが、その後の全国地域リーグ決勝大会では苦戦を強いられ、前身(NTT西日本熊本サッカー部)の時と同様3位で終了、JFLへの自動昇格の可能性は消滅した。しかし、愛媛FCがJFLで優勝してJ2昇格が内定したことから、JFLのチームが減少するのをうけ、2006年のJFL昇格(アルエット時代以来4年ぶりの復帰)が内定し、12月8日に正式にJFL昇格となった。

2006年は、JFL2位以内に入ることが出来れば、アルエット時代に叶わなかったJ2昇格が可能となるところであった。しかし、11月23日に2位以内の可能性が消え、最終成績も5位に終わったため、12月4日に開かれたJリーグ理事会で、2007年からのJ2昇格は見送られた。





ロッソ熊本 チーム成績・歴代監督
年度 所属 試合 勝点 勝利 引分 敗戦 得点 失点 得失 順位 監督
1983年 九州社会人 9 11 5 1 3 11 10 +1 5位
1984年 9 6 2 5 5 10 17 -7 8位
1985年 9 7 3 1 5 11 17 -6 7位
1986年 9 10 4 2 3 8 11 -3 5位
1987年 9 7 2 3 4 15 15 0 8位
1988年 9 6 2 2 5 7 14 -7 9位
1989年 9 14 6 2 1 21 9 +12 2位
1990年 9 6 3 0 6 13 16 -3 6位
1991年 20 50 16 2 2 54 14 +40 優勝
1992年 18 40 12 4 2 53 14 +39 2位
1993年 18 38 12 2 4 43 14 +29 3位
1994年 18 47 15 2 1 51 13 +38 優勝
1995年 18 30 9 1,1 7 34 22 +12 4位
1996年 16 37 12 0,1 3 35 10 +25 優勝
1997年 18 44 13 1,3 1 60 12 +48 優勝
1998年 18 30 8 2,2 6 35 25 +10 4位
1999年 18 40 12 1,2 3 52 17 +35 優勝
2000年 18 39 11 3,0 4 47 18 +29 優勝
2001年 新JFL 30 37 10 7 13 54 63 -9 8位
2002年 17 11 2 5 10 13 31 -18 17位
2003年 九州社会人 22 41 11 3,2 6 47 35 +12 5位
2004年 18 31 10 0,1 7 63 38 +25 4位
2005年 18 47 15 0,2 1 45 11 +34 優勝 池谷友良
2006年 JFL 34 66 20 6 8 64 39 +25 5位
2007年

註 引分項目内の数字で(x,y)表示されているものはPK戦での勝敗数(x=PK勝、y=PK負)。その際の勝利敗戦はともに90分間での勝敗数。

ロッソ熊本 2007シーズンメンバー
2007年所属選手を背番号順に記す

No. Pos 選手名 経歴 備考
監督 池谷友良 柏レイソル
1 GK 太洋一 ジェフユナイテッド市原ユース→駒澤大学
2 DF 佐藤祐介 日本文理大学→SC鳥取 熊本県出身
3 DF 河端和哉 札幌大学→コンサドーレ札幌
4 DF 鈴木祐輔 武南高等学校→駒澤大学
5 MF 山口武士 鹿島アントラーズ→ソニー仙台FC 熊本県出身、副主将
6 DF 福王忠世 セレッソ大阪ユース→セレッソ大阪
7 MF 松岡康暢 ガンバ大阪ユース→ガンバ大阪 ガンバ大阪よりレンタル
8 MF 喜名哲裕 アビスパ福岡→東京ヴェルディ1969
9 FW 北川佳男 水戸ホーリーホック→アローズ北陸
10 MF 斉藤紀由 アルテ高崎
11 FW 高橋泰 大宮アルディージャ→ジェフユナイテッド市原・千葉 副主将
13 FW 町田多聞 筑波大学→群馬FCホリコシ
14 MF 河野健一 津工業高校→日本文理大学
15 MF 市村篤司 北海高校→コンサドーレ札幌
16 DF 矢野大輔 ガンバ大阪→サガン鳥栖 熊本県出身
17 MF 熊谷雅彦 柏レイソル→佐川急便東京SC 主将
18 DF 大瀧直也 モンテディオ山形→グルージャ盛岡
19 DF 上村健一 東京ヴェルディ1969→Y.S.C.C 熊本県生まれ
20 MF 関光博 国学院久我山高校→駒澤大学
21 GK 小林弘記 FC東京→湘南ベルマーレ
22 DF 森川拓巳 柏レイソル→ベガルタ仙台
23 DF 有村光史 大分トリニータ→※ヴィッセル神戸
24 DF 遠藤真仁 柏レイソルユース
25 FW 鈴木真司 清水エスパルスユース→清水エスパルス 清水エスパルスよりレンタル
26 MF 山本翔平 水戸ホーリーホック→アローズ北陸
27 MF 宮崎大志郎 大津高校→駒澤大学 熊本県出身
28 MF 吉井孝輔 湘南ベルマーレ
29 FW 小林陽介 浦和レッドダイヤモンズ→横河武蔵野FC
30 MF 山内祐一 大津高校→福岡大学 熊本県出身
31 MF 西森正明 熊本国府高校→流通経済大学 熊本県出身
37 GK 加藤竜二 サンフレッチェ広島→佐川急便東京SC GKコーチ兼任

※期限付移籍


ロッソ熊本 2006シーズン公式戦
日付 対戦相手 場所 スコア 得点者 観客
JFL
3/19 前第1節 YKK AP A 富山県陸上 ● 1-3 鎌田安啓
3/26 前第2節 佐川大阪SC H 熊本県陸上 ○ 1-0 熊谷雅彦 2,379
4/2 前第3節 ジェフクラブ H 熊本県陸上 ○ 1-0 関光博 1,813
4/8 前第4節 横河武蔵野FC A 江戸川陸上 △ 1-1 高橋泰
4/16 前第5節 FC琉球 H 水前寺競技場 ○ 3-1 朝比奈伸、福王忠世、高橋泰 2,553
4/22 前第6節 アルテ高崎 A 群馬県敷島サッカー場 ○ 0-2 高橋泰、朝比奈伸
4/30 前第7節 三菱水島FC H 熊本県陸上 ○ 4-0 町田多聞×3、高橋泰 8,999
5/3 前第8節 ソニー仙台 A 七ヶ浜サッカー場 ● 2-1 福嶋洋
5/6 前第9節 ホンダロック H 水前寺競技場 ○ 2-0 朝比奈伸、高橋泰 2,882
5/14 前第10節 佐川東京SC A 江戸川陸上 ○ 0-1 高橋泰
5/21 前第11節 FC刈谷 H 水前寺競技場 ○ 3-1 市村篤司、高橋泰、町田多聞 2,913
5/28 前第12節 Honda FC A 都田サッカー場 ● 2-1 米山大輔
6/4 前第13節 流通経済大 H 大津球技場 △ 0-0 2,566
6/11 前第14節 栃木SC A 足利市陸上 ○ 1-3 米山大輔、熊谷雅彦、森 一紘
6/18 前第15節 SC鳥取 H 水前寺競技場 △ 1-1 町田多聞 2,556
6/24 前第16節 アローズ北陸 A テクノポート福井 ○ 1-2 町田多聞、関光博
7/2 前第17節 佐川印刷SC H 水前寺競技場 △ 0-0 3,152
7/9 後第1節 YKK AP H 水前寺競技場 ○ 2-1 福嶋洋、米山大輔 2,493
7/15 後第2節 アルテ高崎 H 熊本県陸上 ○ 3-2 高橋泰×2、福嶋洋 7,009
7/23 後第3節 三菱水島FC A 笠岡陸上 ○ 0-3 鎌田安啓、高橋泰、朝比奈伸 346
7/29 後第4節 ソニー仙台 H 水前寺競技場 ○ 3-1 鎌田安啓、米山大輔、高橋泰 2,216
8/6 後第5節 ホンダロック A 宮崎市陸上 ○ 1-5 朝比奈伸×2、熊谷雅彦、福王忠世、高橋泰 905
8/12 後第6節 佐川東京SC H 水前寺競技場 ● 2-3 熊谷雅彦、福王忠世 2,562
8/19 後第7節 FC刈谷 A 刈谷総合 ○ 2-3 福嶋洋、関光博、町田多聞 599
9/9 後第8節 Honda FC H 熊本県陸上 ● 1-2 福嶋洋 7,270
10/15 後第9節 流通経済大 A カシマスタジアム ○ 1-2 朝比奈伸、町田多聞 707
10/21 後第10節 栃木SC H 八代陸上 ● 0-1 2,665
10/29 後第11節 SC鳥取 A 東山陸上 △ 2-2 熊谷雅彦、町田多聞
11/5 後第12節 FC琉球 A 沖縄県陸上 ○ 1-2 斉藤紀由、矢野大輔
11/12 後第13節 横河武蔵野FC H 熊本県陸上 △ 2-2 町田多聞、鎌田安啓 4297
11/19 後第14節 ジェフクラブ A 市原臨海競技場 ● 3-1 高橋泰
11/23 後第15節 佐川印刷SC A 太陽が丘陸上 ○ 2-4 高橋泰×2、関光博、熊谷雅彦
11/26 後第16節 アローズ北陸 H 熊本県陸上 ○ 2-1 朝比奈伸、市村篤司 5687
12/3 後第17節 佐川大阪SC A 鶴見緑地 ● 0-1
西日本社会人サッカー選手権大会
2/24 1回戦 三洋電機徳島 H 熊本県陸上 ○ 2-1 河野健一、福嶋洋
2/25 準決勝 佐川急便中国 H 熊本県陸上 ○ 4-0 米山大輔×2、鎌田安啓、河端和哉
2/26 決勝 FC琉球 H 熊本県陸上 ● 0-2
天皇杯全日本サッカー選手権大会
9/3 熊本県決勝 ルーテル学院高校 N 大津球技場 ○ 5-0 町田多聞、福嶋洋×2、河野健一、鈴木勝大
9/17 1回戦 カマタマーレ讃岐 A 丸亀競技場 ○ 0-5 福嶋洋×2、森川拓巳、高橋泰、宮崎大志郎
9/23 2回戦 流通経済大 A ひたちなか陸上 ○ 0-2 福嶋洋×2
10/8 3回戦 ベガルタ仙台 A ユアテックスタジアム仙台 ● 0-1


ロッソ熊本 ユニフォーム
ユニフォームの色 カラー シャツ パンツ ストッキング
FP(1st) 赤 赤 赤
FP(2nd) 白 白 白
GK(1st) 緑 緑 緑
GK(2nd) 黄 黄 黄




 
FP 1st



 
FP 2nd





 
GK 1st



 
GK 2nd



ロッソ熊本 チームカラー
赤(ロッソ・レッド)

ロッソ熊本 ユニフォームスポンサー
高橋酒造本店(胸)
南九州コカ・コーラボトリング(左袖)
キューネット(背中)
アネシス(パンツ)

ロッソ熊本 過去のユニフォームスポンサー
鶴屋百貨店(胸・2005年)
高橋酒造本店(パンツ・2005年)

ロッソ熊本 ユニフォームサプライ
プーマ

ロッソ熊本 関連項目
ロッソ以外の電電公社、NTT系のクラブとして以下のクラブがある。

大宮アルディージャ(旧・電電関東サッカー部→NTT関東サッカー部 現在はNTT東日本子会社「NTTスポーツコミュニティー株式会社」運営)
ベンターナAC(旧・NTT西日本四国サッカー部)

ロッソ熊本 外部リンク
ウィキニュースに ロッソ熊本 に関するニュースがあります。
n:Jリーグ・ロッソ熊本のJ2加盟は見送り

ロッソ熊本 公式サイトなど
ロッソ熊本オフィシャルウェブサイト
アルエット熊本
熊本日日新聞・がんばれロッソ

ロッソ熊本 応援サイト
ULTRA'ALDERAS Official web site
ロッソ熊本応援サイト・FORZA!KUMAMOTO
サッカー情報熊本
KINGDOM ROSSO!!
ロッソ熊本応援サイト Rosso penya
アヴァンティ・ロッソ
-Jを目指すクラブを応援するサイト-J☆Dream[ファンサイト]
ロッソ熊本 - 2007
1 太洋一 | 2 佐藤祐介 | 3 河端和哉 | 4 鈴木祐輔 | 5 山口武士 | 6 福王忠世 | 7 松岡康暢 | 8 喜名哲裕 | 9 北川佳男 | 10 斉藤紀由 | 11 高橋泰 | 13 町田多聞 | 14 河野健一 | 15 市村篤司 | 16 矢野大輔 | 17 熊谷雅彦 | 18 大瀧直也 | 19 上村健一 | 20 関光博 | 21 小林弘記 | 22 森川拓巳 | 23 有村光史 | 24 遠藤真仁 | 25 鈴木真司 | 26 山本翔平 | 27 宮崎大志郎 | 28 吉井孝輔 | 29 小林陽介 | 30 山内祐一 | 31 西森正明 | 37 加藤竜二(GKコーチ) |
監督 池谷友良 | クラブ | 編集



ロッソ熊本

井川慶

井川結婚会見「僕は野球に専念するだけ」
 米フロリダ州タンパで自主トレ中のヤンキース井川慶投手(27)は8日午前(日本時間9日未明)、キャッチボールなど練習終了後、即席の結婚会見にのぞんだ。自らホームページで結婚を公表したことを受けて、報道陣から「おめでとうございます」の声がかかると、「僕は野球に専念するだけです」と笑顔で答えていた。

井川慶 密着


井川 慶(いがわ けい、1979年7月13日 - )は、茨城県東茨城郡大洗町生まれのメジャーリーガー(投手)。ニューヨーク・ヤンキース所属。背番号29。身長186cm、体重91kg。左投げ左打ち。愛称は「ダッペ

井川 慶

井川 慶


愛称 ダッペ 
国籍 日本
出身地 茨城県大洗町
出身校 水戸商業高校
誕生日 1979年7月13日
身長 186 cm
体重 93 kg
血液型 O型
守備位置 投手(先発)
打席 左
投球 左
背番号 29
年俸 $4,000,000(2007年)
デビュー年 1999年5月2日
キャリア 1998年-
所属球団 ニューヨーク・ヤンキース
前所属球団 阪神タイガース

来歴・人物
水戸商業高校時代
3年時、春の県大会竜ケ崎一戦で7回参考記録(コールド勝ちのため)ながら18奪三振で完全試合を達成する。夏は腰痛のためほとんど登板機会がなかった。決勝(水戸市民球場、茨城東)のマウンドに痛み止めの注射をうってあがるも、自らのミスなどで4失点し敗退。甲子園出場は無かったが、東のドクターKとして一部では有名な選手であった。当時川口知哉(元オリックス)、能見篤史(阪神)と並んで「高校生左腕三羽ガラス」と呼ばれた。メジャーからのオファーもあったとラジオで告白。

阪神タイガース在籍時代
1997年
ドラフト2位で阪神タイガースに入団。阪神以外には日本ハムなどが興味を示したが、先述の腰痛が懸念材料となり、結局は阪神の単独指名だった。プロ入り後は制球難に苦しみ1イニング3暴投、1試合4暴投と当時のウエスタン・リーグ記録を更新するなどした。

1999年
野村監督元年、5月2日の広島戦(甲子園)中継ぎでのプロ初登板、3四死球1安打(安打を打ったのは広島時代の金本)で1死も取れずに降板すると「お前はミーティングに出なくていいから、的当てをやっとけ」と指令されたこともあった。野村監督は後に「投手がいなかったから、2軍の岡田に『球が速いのは誰だ』って言って上がってきた。実力で上がったんじゃない」と笑って話している。5月7日の横浜戦(横浜スタジアム)で4回に波留からプロ初奪三振を奪うも、中継ぎで3回4安打2失点で降板。5月19日の広島戦(米子)で初先発し6回4安打5四球2失点、遠山-伊藤-遠山の投手リレー(伊藤が投げた時、遠山を一塁に起用)でプロ初勝利を挙げるも、後半は2軍での生活が続いた。

2000年
オールスター明けに1軍へ昇格。8月20日の横浜戦(横浜スタジアム)で緊急のロングリリーフで6回1安打無失点。8月26日の広島戦甲子園で先発のチャンスをつかみ8回3失点。9月3日の横浜戦甲子園で先発し8回2失点で伊藤-遠山がリリーフしプロ2勝目を上げる。10月4日の横浜戦(横浜スタジアム)で自身の最終戦で敗戦するも7回4安打1失点11三振。シーズン1勝3敗。

2001年
野村監督からローテーション投手に抜擢され、4月24日の巨人戦(甲子園))で5安打1失点11奪三振、プロ初完投勝利をあげる。力のあるストレートとチェンジアップのコンビネーションで、江夏以来、久しぶりに真っ向勝負ができる左腕投手が阪神に誕生した。監督推薦により全セ最年少でオールスターの出場を果たし2回を1安打1失点(カブレラの本塁打)3三振。シーズンは9勝13敗、リーグ2位の防御率2.67、奪三振171という好成績を残す。

2002年
監督が星野仙一にかわり、入団5年目にして自身初の開幕投手(東京ドーム)をつとめ、巨人打線を相手に三振の山を築いた。9回裏にピンチを迎えたが阿部慎之助を併殺に打ち取り3対1で完投。阪神に12年ぶりの開幕戦勝利をもたらした。ヒーローインタビューからベンチに戻ってきた井川を星野監督が迎え、井川はそのウィニングボールを手渡した。開幕3連勝し「井川が投げれば1点あれば勝てる」といわれる安定感を誇る好投を続ける。5月22日、巨人戦(甲子園)、7回まで完璧に抑えるも、翌年メジャーに移籍した4番松井に真っ向勝負、高めストレートを右翼席にホームランを打たれる。シーズン終了後、松井は「一番いい井川から打ったホームラン」と入団以後の自身ベストホームランの一本にあげている。7月31日には11勝目をあげた。しかし、その後、9月25日、中継ぎでの登板まで2ヶ月近く勝ち星をあげることができなかった。シーズンの成績は14勝9敗、防御率はリーグ3位の2.49(1位は巨人の桑田で2.22、2位は中日の川上で2.35)。奪三振は206で最多奪三振のタイトルを獲得。

2003年
前年の反省から、井川自身、スロースタートで夏場にピークを持って行き、1年間トータルで調子を維持しローテーションを守ることを目標とする。開幕では黒星スタートとなり、春先は昨シーズンの安定感が見られず、「調整の失敗」との報道もされた。しかし、徐々に調子を上げ、6-7月、2ヶ月連続の月間MVPを受賞。7月21日のヤクルト戦(甲子園)で4戦連続完投勝利を、8月2日の中日戦(甲子園)には2安打完封で12連勝(うち中日に6勝)を記録する。結果、セ・リーグでは1999年の上原浩治以来、阪神では1979年の小林繁以来24年ぶりの20勝投手となり、阪神を18年ぶりのリーグ優勝に導いた。MVP、沢村賞、最多勝、最優秀防御率、ベストナインと5冠に輝いた。なお、この年は同じく20勝をあげた斉藤和巳(ダイエー)も沢村賞に選ばれ、史上初めてセパ両リーグから沢村賞投手が誕生した。

2004年
岡田監督にかわり2連覇を目指し、開幕3連勝するも以後4連敗した。10月4日の広島戦(広島)で史上71人目のノーヒットノーランを記録。小林繁(1979~81年)以来の3年連続投球回数200回以上を達成し、14勝11敗、228奪三振で2年ぶりの最多奪三振を獲得したが、チームは4位に終わった。シーズンオフにポスティング制度でのMLB移籍を希望するが、球団との交渉が決裂。自費キャンプになり、否定的な報道、一部世論の反発に曝される(Number)。

2005年
8月23日の広島戦(広島)で5安打1失点、7回に新井、前田から連続三振を奪い1,000投球回数達成。しかし、MLB移籍がかなわなかった影響か、5年ぶりの2軍落ちがあったり、肝心な試合で勝ち星を落とすことが多くエースとしては不満な内容が目立った。それでも13勝9敗の成績を残し、チームも2年ぶりのリーグ優勝を果たす。

2006年
春季キャンプでは体重を落とし、体の線がシャープになり、ストレートに勢いが戻った。4月14日の広島戦(甲子園)5安打10奪三振、完封、ラストバッター梵英心から10個目の三振を奪い史上119人目の通算1,000奪三振も達成。1,058投球回での到達は松坂の1,070回2/3を抜く歴代5位のスピード。8月15日、横浜戦(京セラドーム)で5安打1失点11奪三振、完投にて1983年小林繁以来の5年連続2桁勝利をあげる。9月に入って勝ち星をあげられずにいたが9月27日の広島戦(甲子園)で1失点完投勝利を挙げマウンドで涙を流した。10月16日のヤクルト戦(神宮)で10奪三振(最終回に3奪三振)を奪い完封、川上憲伸と並び3度目の最多奪三振を獲得する。

MLB時代
2006年11月10日にポスティングシステムによるMLB挑戦を表明。11月29日、ニューヨーク・ヤンキースが2,600万194ドル(約31億2,000万円)で独占交渉権を落札した(落札額の端数194は今シーズンの奪三振数)。12月27日、5年2,000万ドル(2011年まで毎年400万ドル)+出来高で契約成立した。2007年2月8日、自身のブログにて結婚したことを発表した。

打高投低の中、毎年ローテーションを守り、10勝以上あげることのできる投手は、数人しかいない。2001-3年に見せた、チェンジアップ、クロスファイア、マウンドで躍動しバッターへ向かっていく姿は、エースとして阪神を牽引した。その後、他球団から研究され尽くされているのにもかかわらず、「1年間ローテーションを守る、試合を作る、三振を取る」ことを目標に、地道な体のケア、トレーニング、ピッチングの工夫を続け、毎年200イニング前後の登板、上原や松坂ですら未だ達成していない5年連続2桁勝利(すべて13勝以上)をあげた井川は、日本球界を代表する左投手の一人である。


井川慶 略歴
1998年 高校卒業後ドラフト2位で阪神タイガースへ入団。
1999年 5月2日の対広島戦(甲子園)で1軍初登板。5月19日の対広島戦(米子)で初先発しプロ初勝利。
2001年 1軍ローテーションに定着。9勝13敗、防御率2.67。
2002年 14勝9敗1S、防2.49。開幕投手。最多奪三振のタイトル獲得。
2003年 20勝5敗、防2.80。開幕投手。沢村賞・MVP・最優秀防御率・最多勝・最高勝率・ベストナイン(最優秀投手)沢村賞は福岡ダイエーホークス(現福岡ソフトバンクホークス)の斉藤和巳と同時受賞。
2004年10月4日 広島戦(広島)で球界史上82回目(71人目)のノーヒットノーランを達成(スコア1-0)。
2005年8月23日 広島戦(広島)で1,000投球回到達。
2006年4月14日 広島戦(甲子園)の9回に梵英心から三振を奪い、史上119人目の通算1,000奪三振を達成。

井川慶 タイトル・表彰
MVP
1回 2003年
沢村賞
1回 2003年
最多勝
1回 2003年
最優秀防御率
1回 2003年
最多奪三振
3回 2002年・2004年・2006年
ベストナイン
1回 2003年

井川慶 年度別成績
年度 チーム 背番号 試合数 勝数 敗数 セーブ 投球回数 奪三振 防御率
1998年 阪神 29 ― ― ― ― ― ― ―
1999年 阪神 29 7 1 1 0 15.1 14 6.46
2000年 阪神 29 9 1 3 0 39.1 37 4.35
2001年 阪神 29 29 9 13 0 192.0 171 2.67
2002年 阪神 29 31 14 9 1 209.2 206 2.49
2003年 阪神 29 29 20 5 0 206.0 179 2.80
2004年 阪神 29 29 14 11 0 200.1 228 3.73
2005年 阪神 29 27 13 9 0 172.1 145 3.86
2006年 阪神 29 29 14 9 0 209 194 2.97
通算 ― ― 190 86 60 1 1,244 1,174 3.14


井川慶 エピソード
趣味など

大洗野球スポーツ少年団で野球をはじめ、小学生までは右投げ。高校時代も体のバランスをとるために右投げの練習は続けていた。今でも、オフに帰郷するたび、自らの後輩である大洗の小中学生相手に野球教室を開いている(Link)。
茨城出身のせいか、「ダッペ」の愛称で親しまれる。地元名産の納豆は苦手にしている。
プロになるなど夢にも考えていなかった高校(水戸商業)時代、簿記2級、英検3級の資格を取得している。
趣味はTVゲーム、ラジコンヘリ、部屋の掃除、ダーツなど。ダーツはマイダーツ所有(2万円)。「虎風荘」にいた頃、寮へのブロードバンド回線設置を直訴。
サッカーも趣味のひとつ。中学生時代サッカー部があれば野球部に入っていなかったかもしれない程昔から好きだったらしい。入団前は井川の実家のある茨城県(鹿嶋市)をホームタウンとする鹿島アントラーズのファンだったが、今はガンバ大阪のファンで2006年新春に宮本恒靖と特別番組で対談。ワールドカップ日本代表の1次リーグ敗退には肩を落とした。
将棋は初段でチーム内外(今岡、古田、吉野、広沢、桧山、安藤など)で対局、ピッチャーでリーグを作ったり、登板前に気持ちを落ち着かせるためロッカーで詰将棋を(ノーヒットノーラン達成前にも久保田投手と対局)したりしていた。2006年のオフには棋王戦の本戦準決勝(羽生善治-深浦康市)を観戦、番組企画で投了図からのかなりのハンデ戦であるが森内俊之名人に勝利。2007年1月、日本将棋連盟は日本国外での将棋普及のため「将棋親善大使」に任命、初段の免状と委嘱状を贈呈した。
格闘技の中継があるときには下柳の西宮市のマンションでテレビ観戦。同じ左腕でバトル好き。ときには野球の技術論も話し合うらしい。
体のケアやトレーニングの取り組み方は非常にストイックで、体に関する知識も高い。毎試合後はアイシングなど深夜まで入念な体のケアを行う。食事はコンディションを保つため専属の料理人に作ってもらっている。また、アルコール類、コーヒー、炭酸飲料も口にしない。2003年のリーグ優勝の時には、翌日が先発だったため、ビールかけに参加しなかった。入団当初からオフには専属トレーナーとトレーニング。6勤1休の日程で、1日を3部に分けて、午前中に走り込み、午後からはウエイトトレ、夜間メニューとして、2時間程度の水泳を行う。計画的なウエイトトレーニングで筋力アップと下半身強化を見せてきた。
デーゲームを苦手とするが(サングラスをかけるのはそのため)、地方球場、悪天候時の試合にめっぽう強く、「雨は自分の天気」と自ら語るほど勝率が高い。
新人の頃のエピソード

球団選手の寮である「虎風荘」の模範生だった。家賃も安く食事付きだが、一方で厳しい門限がある。門限に遅れる事もあったが、それはトレーニングや体のケアのためという『野球に関すること』が理由。栄養バランスを考え、外出してもほとんど寮で夕食を食べ、休日には12時間もの睡眠を取るほどの徹底した体調管理をとっていた。試合後にどんなに遅くても食事の準備が整い、いつでもトレーニングの出来る環境は、井川にとって貴重な存在だった。途中からは若手の講師役にも指名された。2003年の暮れに「虎風荘」から「退寮指令」を受け、恩人・梅本寮長の定年を節目に退寮。
広沢が現役だった頃。茨城で一緒に自主トレをしていると、いつも決めた時間に遅れてくるので「先輩待たせんな!」と怒ったら「道に迷っちゃいました」との返事。知人の話を聞いてみたら、大洗の何にもない田舎道で井川を先頭に600mの渋滞だったらしい。
遠山が現役だった頃。井川が勝ったら寿司をごちそうすることにしていた。勝利投手になった日に、遠山行きつけの寿司屋で合計70-80カン、さらに合間に天ぷら、刺身を食べたらしい。
最近のエピソード

和田コーチによると、井川が東京ドームの選手サロン(食堂)で常にしょうゆ+みそのラーメンを注文するため、自称井川ラーメン評論家(?)が独自にスペシャルラーメン「井川スペシャル」を開発しメニュー化した。ただ、登板する日には食べないらしい。他の選手からの評判は微妙だが本人はコクのあるしょうゆ味のラーメンと思っている。
連勝中は髪を切らないのがジンクス。しかしそれを差し引いても普段から髪の毛をなかなか切らないことが多い。2003年は連勝が長引いたためか(12連勝、約3ヶ月負けなし)なかなか髪を切らず話題となった。
2005年の1,000投球回数達成時。7回、井川が連続三振を奪った勢いで矢野捕手が記念ボールをスタンドに投げ込む。ベンチ前にほとんどの選手、コーチが出て、受け取ったファンに頭を下げ、記念ボールを返してもらう。和田コーチによると、ベンチに戻った矢野、笑顔で「ダッペ~!怒ってる(笑)?」。
2005年のリーグ優勝時。練習後に球場へ向かうタクシーがなかなか捕まらず、スーツ姿のまま走って球場に向かった。しかし結局間に合わず、歓喜の瞬間に立ち会えなかった。当日ビールかけの時、井川は会場隅にて笑顔でビールを配り隠れるが、仲のいい藤川に見つかりみんなにビールを掛けられ、アルコールでダウンした。
(「井川伝説」と称しエピソードをまとめたサイトも存在するが、内容は2ちゃんねるの書き込みを基にしたもの。スポーツ新聞記事の脚色、ネットに氾濫する未確認情報、更にその脚色が多く、情報の信頼性は低い。サイトの持つ情報の正確性に対する認識の欠如と、サイトの持つ影響力の大きさから、多方面、長期にわたって誤解を生み続けている。)



井川慶

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